「古医方」を代表する山脇東洋は、日本で始めて人体解剖に挑んだ(1754)進歩派の漢方医である。
東洋その時50才、かねてから解剖学に志をもち、古来の五臓六腑の真否を人体解剖を行って正したいと願っていた。当時は「身体髪膚これを父母に享(う)く・・・・・・」という儒教の訓えによって人体解剖は人道に背く行いとされていた。その様な時代に、京都所司代酒井忠用(ただもち)が東洋の願いを容れて刑死解剖の公許を与えたことは、日本の医学史上に残る画期的な大英断であった。