そもそも朝鮮儒学者の日本観は朱子学を価値基準とするもので、日本は儒教儀礼とりわけ喪葬儀礼を
持たない文化的後進国だというのが彼らの一般認識であった69)。たとえば、寛永十三年(1636)、朝鮮通
信使副使として来日した金世濂(号は東溟)は、
国無喪葬祭祀之節、君父之喪、亦不挙哀、蔬食五十日而止。関白以下、専用茶?之法、死之翌日或
三日、取屍趺坐於木桶中、積薪焼之。(『海槎録』、聞雑録見)
(国に喪葬祭祀の節無く、君父の喪も亦た哀を挙げず、蔬食すること五十日にして止

む。関白〔将
軍のこと〕以下、専ら茶?の法を用い、死の翌日或いは三日、屍を取りて木桶中に趺坐せしめ、
薪を積みて之を焼く。)
といい、明暦元年(1655)に従事官として来日した南龍翼(壺谷)も「君父之喪、亦無服喪之節」(『南
壺谷聞見別録』、風俗、雑制)といっており、日本では仏教による火葬が浸透し、君父に対する服喪も五
十日しか行なっていないと批判している。この金世濂は寛永十三年、羅山の依頼により林家学塾の先聖
殿の「歴聖大儒像」に賛を書いた人物であり70)、鵞峰がこの時の通信使の写字官、全栄(梅隠)に向陽軒
の号を与えられたことは前に触れたとおりである。
 鵞峰がこれら朝鮮儒者の日本評価、とりわけ朱子学―それは鵞峰にとって普遍的な文化であった―
のありようを強烈に意識していたことは間違いない。「喪葬祭祀の節無し」という朝鮮朱子学者による批
評が鵞峰をして『家礼』を中心とする喪祭儀礼の導入を促す一因になったといえよう7