しお韓出張所 13
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座談会:慶應4年の福澤諭吉|特集|三田評論ONLINE https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/features/2018/05-1_4.html 小室 おっしゃるように、福澤は自分の漢学にかなり自信があって、だからこそ儒教の批判者として強力だと考えていた。『福翁自伝』では、漢学にとって自分は「獅子身中の虫」だと言っていますね。 芳賀 西周もさんざん儒学をやってきたのに、それをポイッと捨てて洋学に転向していく。福澤が中津をけとばして長崎に行ったのと同じ年、西周は江戸の津和野藩邸をある夜明け方に抜け出して、漢詩を朗々と歌いながら、手塚律蔵の蘭学塾に向かっていった。神田孝平もそうでしょう。それから、堀田正睦(ほったまさよし)の佐倉藩に仕えていた西村茂樹も同じ頃、海外留学を願い出た。あの展開は大きいね。 それを司馬遼太郎はペリーのショックウェーブと言っている。東でも西でも20歳前後の若者たちが一斉に儒学を捨てて洋学に転向していくわけです。やはり天から与えられた使命感とか、国とか社会に対する武士としての責任感があったからこそ、幕末の米欧列強への対応もできたし、明治の大変革もできたと思う。それを支えるものとして、天とか義塾の義というものがあった。 https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/9942/1/KU-1100-20150228-14.pdf https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/9942/1/KU-1100-20150228-14.pdf 青木正児における儒家批判・道家称揚論について―呉 虞との関係を手がかりに― Author(s) 辜, 承堯 Citation 文化交渉 : Journal of the Graduate School of Eas t Asian Cultures : 東アジア文化研究科院生論集 , 4: 235-249 Issue Date 2015-02-28 URL http:// 近代以前、日本は中国の豊かな精神文化を取り込み、自国の文化を築き上げる重要な資源と してきた。しかし、明治以降、日本は西洋モデルの近代化によって産業技術や学問教育など各 方面において中国を追い抜き、伝統的な漢学の研究分野でも西洋の研究理念を導入し、科学的 な方法による実証的な研究を行ってきた。このような時代背景にして、近代日本の中国学研究 の重鎮―東京・京都両帝国大学は江戸時代の伝統的な漢学から脱皮し、近代的な学術を行っ ていた。このような教育状況のもとで、明治41年(1908)、青木正児(1887-1964)は京都帝国 大学文科大学(当時の名称、現在は京大文学部)の一期生として支那文学科に入学した。 青木正児は大正・昭和期において活躍した中国文学研究者として、生涯を通じて中国の文学・ 文物に親しみ、その風雅と趣きを愛し、中国の古典文学とともに、通俗文学も学術的に評価し、 狩野直喜(1868-1947)、内藤湖南(1866-1934)が切り開いた京都支那学の発展に大きく寄与し た学者の一人であると言える1)。 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 以上の先行研究を踏まえながら、本論文は主に三つの方面から青木の儒家批判・道家称揚論 を検討しようと思う。第一、青木は生まれた家庭から受けた儒教思想の影響と身近な人からの 評価を考察する。第二、雑誌『支那学』に掲載された青木の「呉虞の儒教破壊論」を通じて、 呉虞の儒教批判論に温かいエールを送った原因を明らかにする。第三、青木が書いた中国文学 に関する著作を分析し、その中に含まれている儒家、道家の要素を解読しようと思う。 一、青木の反儒教意識と他者からの評価 明治20年(1887)、青木は今の山口県下関市で次男として生まれた。父は医院を開業する傍ら 下関市議会の議員を務め、地元の名士であった。青木は幼い頃より支那趣味の濃い家風で育て られ、漢学の素養が豊かな父から『孝経』、『論語』、『唐詩選』などを叩き込まれ、中国の音楽 を聴かされた。書画音楽を好み、中国画や弦楽器を学んだことがある。青木は随筆で自分の子 供時代を次のように回想した。 一度もありません。(中略)青木さんの一番嫌いなものは何かと言ったら儒学です。先生が 民国初年の文学革命を大いに好かれた原因も、そこにある。そうしてあの文学革命につい て書かれた論文の載った『支那学』が北京へ送られると、当時の孔子排撃の急先鋒だった 呉虞が、日本にもこういう人があるのかと言って、青木さんに大変感心して、「呉虞文禄」 というものを何冊か送ってきたんです。青木さんは『支那学』に「呉虞文録を読む」とい う論文を載せているでしょう。9) 吉川は青木のことに対して、「一番嫌いなものは儒学」の印象を残っていた。これは中国の文化 革命(新文化運動)、特に呉虞という人物につながっていることは後に詳しく説明しておく。ま た、同じ京大出身の橋本循(1890-1988、中国文学学者)は青木を兄事する先輩として長く付き 合っていた。青木に対するイメージも これに対して、青木は次のようにまとめている。 儒教の社会道徳は「孝」に出発してゐる、之を家庭にしては「孝」、之を国家にしては「忠」。 家は「家長」の治むる所であり、国は「君主」の治むる所である。国家はつまり家庭の延 長である、故に語を換へて言へば君主専制政治は家族制度の拡大だと見るもので、つまり 儒は専制政治を是認鼓吹するものである。然し孝敬忠順の事は皆尊貴長上に利益があるの みで、卑賎には余り利益を与へぬものだ。之を奨むるに「名誉」を以して、之を誘ふに「禄 位」を以てしても、尊貴長上に対してどうしても「不平等」の感は免れない。即ち其の理 論は権利の「平等」的思想に立脚する共和の精神と相反するものである。蓋し孔氏の徒は 利禄に湛心してゐたから尊王を主張しなければならなかつたので、彼等の学説は顕貴に諛 る媚笑たるに過ぎない。19) 三十歳を少し超えた時に「兎に角儒者に碌な奴は無し」と喝破した青木は、生涯にわたって 「口と心と違ふ」とした儒者に煙たがられた。彼が好んだのは恬淡、無為を旨とした道家の思想 をよく分かった。『舳羅狂談』を発表した三年後、青木は芸術家のあるすべき姿について、「解 衣般?の芸術」という興味深い論文を雑誌『支那学』に発表し、自分の見方は「芸術の前には 何も無い、無拘束で、無頓着で、傍若無人にただ己が行く可き路を一心不乱に闊歩したいもの だ。」31) というありかたである。 極閣、雨花台などを遊歴してから、観覧船で玄武湖を観覧していた。途中で急に船人に賃金が 求められたが、結局要求されたお金がもらえなかったが、諦めがよくてただ苦笑した。このよ うなことを儒家、道家の思想と連想し、次の感想を語った。 日露戦争に行つた人の話に、支那人の間諜を処刑せんとする時、彼等は皆泣きわめいて命 乞ひをするが、さていよいよとなると、其の観念の良い事と云つたら宛で別人のやうに、 けろりとして死に就くと云ふ事である。「諦め」は実に支那人が千古受け来りたる、天然人 為両者の圧迫から鍛錬された支那魂である。上古北から南へ発展して来た漢族が、自衛の 為自然の威力に対抗して持続して来た努力、即ち生の執着は現実的実行的の儒教的思想と なり、其の抗す可からざるを知つて服従した生の諦めは、虚無恬淡の老荘的思想となつた のであらう。彼等の慾ぼけたかけ引き、ゆすり、それ等はすべて「儒」禍である。諦めの 良い恬淡さは「道」福である。36) 以上に述べたように、青木は儒家的な価値への対抗原理を活かし、旧来の漢学から脱皮し、 鋭い洞察を通して、文化史的視点から中国文化史上における儒家、道家を俯瞰していた。 また、内藤湖南は大正13年(1924)に書いた『新支那論』において、授業生の一人としての 青木の儒教批判の論調に対して、批判を行った。 儒教が支那を今日の積衰積弱に陥らしめたといふ議論は或る点迄は真実であらう。然しそ れらの弊害があるにもかゝわらず、儒教によつて長い間支那の道徳が維持されたといふ事 には、其の原因がなければならぬ。( 一方、青木の儒教批判論を当時の背景に入れて深く究明すれば、当時の東京帝国大学の学者 により提唱されていた孔子尊重の風潮と逆らっていた。竹内好は指摘した「支那学(京都派) が漢学(東京派)を軽蔑する」42)ように、当時の新興団体―京都支那学派の一人メンバーとし ての青木は、支那研究において、東京帝国大学への挑戦と見なすとはいえよう。 https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2016/12/vt022-3.pdf https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2016/12/vt022-3.pdf 現代中国社会における高学歴重視の現象とその背景 11K012 長谷川達也 19世紀に起こったアヘン戦争及びアロー戦争での敗北によって清は大きな岐路に立たされ る。自国と西洋列強との軍事・科学技術の差を目にした官僚たちの中からは、その差を埋めるた めに西洋に学ぼうとする革新的な者たちが表れ、それが西洋の技術を取り入れようとする「洋務 運動」へと広がっていく。日清戦争後、清朝の政治家康有為 こうゆうい の唱えた内政・制度改革である「戊戌の変法」の動きは光緒帝の伯母、西太后による政変によって中止させられるが、義和団事変で の敗北によって清朝は改革を行う必要に迫られ、再び政治改革(光緒新政)が始まることとなる。 この改革によって西洋式学校が設立され西洋や日本で行われていた近代的教育が規範として取 り入れられるようになり、科挙試験の代わりに海外留学が認められるようになる。1905年に は、1000年以上続いてきた科挙制度が正式に廃止され、これ以後近代的な教育が本格的に行わ れるようになる。 清朝末期から中華民国にかけ、海外 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 吉川幸次郎全集 (筑摩書房): 1977|書誌詳細|国立国会図書館サーチ https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I027609679-00 日本における孔子批判 1008夜『仁斎・徂徠・宣長』吉川幸次郎|松岡正剛の千夜千冊 https://1000ya.isis.ne.jp/1008.html 吉川幸次郎は、仁斎・徂徠・宣長のように儒学批判を貫かせた大胆な見方は中国哲学史ではなかなかありえなかったことで、わずかに唐の孔穎達(くようだつ)の『尚書正義』などが稀有の例になるくらいのものだと感じた。 しかも吉川は、この日本の三者の思想には並々ならぬ独自の言語観があって、それこそはわれわれ日本人が誇るべきものではないかというのである。仁斎が「古義学」をもって、徂徠が「崎陽の学」「古文辞学」をもって、中国古典を疑念をもって読むこと(仁斎)、原音原語序によって読むこと(徂徠)、漢意を排して読むこと(宣長)を、それぞれ貫こうとしたことに感嘆するのである。 加えてこの三者は、仁斎を徂徠が批判し、その仁斎・徂徠を宣長が批判するというふうにジグザグに発展した。ジグザグにつながっていた。宣長は自分の学問は契沖や真淵のおかげであって仁斎・徂徠の影響ではないと言うけれど、吉川はそれはそうではなくて、その言語観において宣長は仁斎・徂徠をしっかり引き受けていると見た。 吉川が戦前の京都大学で学んだのは「日本漢学は中国研究には役に立たない」というガチガチのものだったのだが、一人、狩野直喜先生だけは例外として仁斎・徂徠・宣長がいることを示唆していたことを、吉川はこのとき思い出したという。 今週の投資信託での運用成績 | 帝国陸軍好きの読書ノート - 楽天ブログ https://plaza.rakuten.co.jp/billaudvarenne/diary/200512240000/ 孔子すら人肉食に手を染めていたといいますから支那の文化的伝統とでも言うべきでしょうかね。知り合いの大学助教授で儒教なんてのは食い物に困ったときに妻と親とどっちを先に食すべきか程度のものに過ぎず、そんな物をありがたがるのは頭がおかしいと言っている人がいるのを思い出してしまいました。日本人にとって「忠義」というのは綺麗な言葉なのですが… (つづく) 教育勅語と儒教: 四宮政治文化研究所 http://shinomiya-m.txt-nifty.com/diary/2017/03/post-d2c1.html 小室直樹氏の『日本国憲法の問題点』という本に、「教育勅語は儒教思想にあらず」との見出しで次のようなことが書かれている。 ? 「(教育勅語が儒教思想ではないということは・注)勅語の中に『臣民』なる語が使われているからである。…(儒教思想では・注)臣と民とは別個のものであって、とうてい並列できるようなものではない。…『臣』と支配階級・高級官僚、『民』とは一般の庶民である」「儒教とは民のための教えではない…支配階級の人々に倫理と行動規範を与えるための教えである」。 ? そして孔子の言う「君子」とは「立派な人」のことではなく「支配階級」のことであり、「小人」とは、「立派でない人」のことではなく「人民」のことであると論じている。 ? 一君万民の日本國體とは、基本的に相容れない思想が「儒教」の徹底した身分差別思想なのである。しかし日本民族は儒教の説く「徳目」の一部は受け入れた。だから「君子」「小人」を読み替え、日本の伝統に合致させたのである。ここに、日本民族が大らかなる包容性と強靭なる国粋性を兼ね備えていることの証を見る。即ち、わが国は外来文化・思想を無批判に受け入れたのではないのである。 ? 日本の儒教では『君子』とは、徳の高い人といふ意味として来た。しかし、支那における『君子』の原義は、朝廷の會議に参列できる貴族たちの総称であり、『身分の高い人』『支配者』『官僚』『貴族』といふ意味が原義である。その原義が延長して『貴族のふさわしい教養・品位』のことをさすようになったといふ。 ? 一方、『君子』の対義語である『小人』とは、日本儒教では、教養や道徳心に欠ける人間を意味する。しかし、支那における『小人』の原義は単に身分の低い人間、被支配者のことであるといふ。 ? 『春秋左氏傳』(孔子の編纂と傳へられる歴史書) の桓公十年に、『小人罪なし、玉を抱きて罪あり』といふ言葉がある。『小人であっても最初から罪を犯すものではなく、分不相応な宝を持ったり位についたりすると、ついふらふらと魔がさして悪い事をして罪を犯すようになるものだ』といふほどの意味である。 ? これは身分差別思想であり、一君萬民のわが國體とは相容れない。だからわが國においては『君子』『小人』の意味を読み変へたのである。儒教は、『君子』即ち貴族・官僚の身分道徳であった。貴族・官僚が政治と生活において民衆の規範になるように人格を磨き、倫理・礼節を守るといふ基本観念はあった。しかし基本的には巨大帝國を管理支配する思想であり、体制維持のために必要とされた思想であった。 ? 今日の共産支那においては、「君子」とは共産党員であり、「小人」とは人民である。共産党員が権力者・支配者として人民の上に立つことが当たり前のこととされるのは、儒教と共産支那の独裁体制が相似であるからである。 ? 支那の『共産革命』も為政者が変わっただけである。清朝そして國民党政権の後を継いだ毛沢東といふ皇帝及びその配下の官僚による独裁専制政治体制が現出した。二代目の皇帝がケ小平である。三代目が習近平ということである。(江沢民を三代目とすると習近平は四代目) ? 『中國共産党による一党独裁政治』は、古代支那以来の専制政治の継承である。中國共産党員による行政機構・企業幹部の独占は、支那古代以来の『君子』による『小人』支配の継承である。改革開放によって豊かになったと言っても、『中國人民』全体が豊かになったのではなく、現代における『君子』=『中國共産党員』だけである。 ? われわれ日本人は、支那から儒教を受容したが、日本伝統精神・日本國體精神に合致するように換骨奪胎したのである。 韓国の経済を「鵜飼い経済」と最初に呼んだのは小室直樹氏だそうですが、私も中学のときに小室氏の著作を読んでファンになり「韓国の崩壊」も「韓国の呪い」も読んでいて、結構、韓国は嫌いじゃなかったりします。 ただ小室氏は韓国の経済が「鵜飼いの鵜」であることまで分析したのに、小室氏の特徴である資本主義の深遠に迫る解析を見せていなかったように思えます。 もしかすると私が読み損なっていたのかもしれませんが、とりあえず自称、小室直樹の隠れ信者の私が続きを解析して見せましょう。 「鵜飼い経済」とは、韓国が部品や工作機器を日本から購入し韓国で組み立てる産業構造のことで、そのために日本に対して大幅な赤字となり韓国の貿易利益を日本が吸い上げる様子を「鵜飼いの鵜」と呼んでいるわけです。 この小室氏の指摘は実は20年以上前になされていて、韓国はこの構造から抜け出そうと何度も政府は訴えています。しかし、どうしてもできません 韓国という病 http://www2.biglobe.ne.jp/oni_page/other/hih/kor001.html この構造の始まりは、日本の賠償から始まります。この賠償、殆どが中間賠償と在外資産による賠償です。要するに日本や朝鮮にある機械などによる物納であったわけです。 日韓基本条約も物納が大半だったはずです。それによって日本の機械による工業化が韓国で始まったわけです。日本の政治家もそれを狙って、やる義務のない日韓基本条約を締結したのでしょう。しかし、その意図はあまりにも予想外にあたってしまったのです。 だに、半世紀過ぎても日本から機械を輸入しなければならないほどに。半世紀あれば何でもありえるほどの期間です。なのに何故、未だに日本の機械を使わなければならないのでしょうか。 それは技術革新(イノベーション)がないからです。ここに韓国という病があります。新しい技術を手に入れるためには日本から買うしかないのです。 技術革新とは、資本主義の中の資本主義、無条件に資本主義といったときの産業資本主義の継続に不可欠なものです。企業が生き残るために大も小も社運をかけ、血のにじむ思いをし、天に祈りながら、絶望と希望の狭間から誕生する起業家精神のエッセンスともいうべきもの。 嫌韓サイトを読むと、よくでてくるのが韓国の捏造癖です。日本のものは何でも韓国起源にしたがるのです。 福沢の思想には儒教的な所がかなりある: 轟亭の小人閑居日記 馬場紘二 http://kbaba.asablo.jp/blog/2011/12/25/6260507 そのように儒学(朱子学)の教義をまとめて説明した後、渡辺浩教授は福沢の 儒教批判を四点述べた。 (1)「古を慕ふの病」…古を慕って、少しも自己の工夫を交えず、いわゆる精 神の奴隷(メンタルスレーヴ)となって、今の世にいて、古人の支配を受けるの は、儒学の罪。 この『文明論之概略』第九章の指摘を、渡辺浩教授は正鵠を 得ているとした。 (2)陰陽五行…福沢はニュートン以降の科学によって、妄説と斥けた。 ただ し『論語』には「陰陽五行」は出てこない。 (3)儒教主義教育…政府の儒教理解に対する批判。 「儒教主義の実際を見れ ば、決して純粋の道徳学には非ずして、大半政治学を混同す。……左れば彼の 儒書の中より其徳教の部分のみを引分けて之を利用せんなどの考は、唯是れ不 学者流の頭脳に往来する妄想にして、取るに足らざるものなり。」(「儒教主義」 1883 ) (4)男尊女卑批判…正当。 ただし政治は男性の担当として、男女の役割分担 を福沢は批判していない。 そこで結論、渡辺浩教授は、福沢の思想には儒教的なところがかなりあると して、慶應は朱子学の根幹を引き継いでいる、東アジアの正当な継承者だと言 い、「独立自尊」と「議論の本位」の二つを挙げた。 (1) 独立自尊…渡辺浩教授は、小室正紀さんの「朱子学と福澤先生の考え方 の間には、ある種の共通性があると言っていいと思います。それは強い主体性 を備えた個人が出発点であるという考え方です。」(「江戸の思想と福澤諭吉」、 『福澤諭吉年鑑』32号、2005年、138頁)という見解に賛成だという。 (2) 「議論の本位」…「脩身学とは身の行を脩め人に交り此世を渡るべき天 然の道理を述べたるものなり。」(『学問のすゝめ』初編) 福沢は、天然の道 徳、自然法を尊重した。 『文明論之概略』第一章「議論の本位を定る事」と いうのは、ある主張の本当の値打、真価を定めるにはどうすればよいかの章で ある。 福沢が読んだジョン・スチュワート・ミルにも、ギゾーにも、客観的 真実、真価についての言及がある。 それらは東洋の思想、儒教と響き合うと ころがあった。 「苟も一国文明の進歩を謀るものは欧羅巴の文明を目的として議論の本位を 定め、この本位に據て事物の利害得失を談ぜざる可らず。」(第二章) 「文明の物たるや至大至重、人間万事この文明を目的とせざるものなし。」(第 三章) そこで渡辺浩教授自身の儒学理解である。 最も代表的な儒学である朱子学 の教義の説明があった。 南宋の朱熹(1130-1200)による体系。 これが私には、 よく理解できなかった。 下手下手書いてみる。 (2)禮と道…道は人らしさの基本原則。 神でなく、大自然に依拠。 人は万 物の霊長。 人の行動の型は、人らしさ。 現世にとどまり、当り前の人間関 係にとどまる。 「我が道を行くgoing my way」や「世界に一つだけの花」(個 性)は、悪。 (3)五倫…人として守るべき五つの道。 君臣の義、父子の親、夫婦の別、長 幼の序、朋友の信。 (4)君・臣・民…君は、天命、天の意志の代理人。 誰かが保証人になる必要 (統治)があって、最も「らしい人」、慕われる、支持される人がなる。 臣は、アシスタント、人として優れた人、君と臣で政府をつくる。 忠は、 まごころを尽すこと。 民は、相対的に愚か、統治は教育でもある。 (5)修己治人…自己修養を遂げた人物が為政者となることで、天下泰平が実現 する。 修身・修養・功夫・学問(『孟子』) 「誠意・正心・修身・斉家・治 国・平天下」(『大学』) 郷挙里選・科挙、個人(男性)を家柄や身分に関係な く選抜。 この考え方は、世襲身分制度には危険思想で、明治維新に力があっ た。 (6)三代と革命…夏王朝(堯→舜→禹と禅譲、禹以後世襲となり、桀が殷の湯 王に滅ぼされる)・殷王朝(紂王に至って周の武王に滅ぼされる)・周王朝(文王・ 武王・周公)の三王朝。 禅譲(帝王がその位を世襲せずに有徳者に譲ること)。 放伐(中国人の革命観で、徳を失った君主を討伐して放逐すること)。 「漢 儒者と和学者との間に争論ありて千緒万端なりと雖ども、結局分かるゝ所の大 趣意は、漢儒者は湯武の放伐を是とし、和学者は一系万代を主張するに在り。 漢儒者の困却するは唯この一事のみ。」(『文明論之概略』) 福沢は儒教を全否定したわけではない: 轟亭の小人閑居日記 馬場紘二 http://kbaba.asablo.jp/blog/2011/12/23/6256730 『福翁百話』では、「漢学洋学共に学問の名あれども、人間の居家処世より文 明の立国富強の辺より論ずるときは、古来我国に行はれたる漢学は学問として 視る可らず。我輩の多年唱導する所は文明の実学にして、支那の虚文空論に非 ず。或る点に於ては全く、古学流の正反対にして、之を信ぜざるのみか其非を 発き其妄を明にして之を擯けんとするに勉むる者なり。」と言っている。 https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/3236/1/ronso0490400010.pdf https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/3236/1/ronso0490400010.pdf 西傾蔵 礎をもつわけだ。 人は「 正統的+天下支配の機構での立 ヽヽヽヽ 身出世に没頭し、 原理はもっばら腐儒があとづけする。 こうしてみると、 立身出世がその人に賦与する公共原理 ヽヽヽヽ の不朽性は、 腐備にあとづけられる「 現実主義+の立場 でのことであり、 それは原理を所与の権力体系つまり富 貴体系に無条件にあずける立場のことである また「 孟子+には伊争のことばとして「 天は人民を生 んだが、 先覚者に後覚者を党せしめる。 私は天民の先覚 者である。 私は民を道に党せしめるのだ。 私の外の誰に それができよう。 天下の民の、 しがない人の身にまで聖 王の恩徳の及ばぬかぎり、 それは私が彼を苦しめている ことなのだ+といった意味のことをのせている。 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 家康は、近世最低の腐れ学者、林羅山の如き腐儒を飼っていたからには、その精神たるや同様に腐れ武将、卑将とすべきであらう。 それが学問であり、命にかへても虚偽を糺した、いにしへの古哲とは随分と違い腐儒は腐将に甘すぎるものだ。 天国太平 愛書連 <全国愛書家連盟> https://aishoren.exblog.jp/d2010-05-28/ 「華夷」思想の解体と国学的「自己」像の生成 www.ritsumei.ac.jp/~katsura/5.pdf ることができると思われる(同時に、この「日本型華夷思想」の登場とともに、湯武放伐論をめぐる「孟子問. 題」が浮上してくる ... 西土ハ君臣ノ正統立タス、故 www.ritsumei.ac.jp/~katsura/pdf/5.pdf http://www.ritsumei.ac.jp/ ~katsura/pdf/5.pdf 儒の道こそ、其国をみだすのみ 9 件 (0.49 秒)? 検索結果 ウェブ検索結果 [PDF]「華夷」思想の解体と国学的「自己」像の生成 www.ritsumei.ac.jp/~katsura/5.pdf 同時に「中華」としての「中国」像、「東夷」としの「日本」像が、この思想の要点である。一七世紀(特に. 前半)の儒者の ..... 清=夷狄」的主張が行われていたが、それは『中国弁』で修正されており、一定の動揺があったことは想定. される(26))。 ..... 御威徳を仰ぎ奉るべし。然るに今の世の儒者なるもの、漢夷を中華、中国、聖賢の国と称し、我が皇御国. を無礼無道の蛮夷邦として、(中略)豈我が皇御国の御威徳に勝りしの国あらんや。 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 湯武の凶逆を以って直道とせしは、孔丘もまた御道の罪人なり www.ritsumei.ac.jp/~katsura/5.pdf http://www.ritsumei.ac.jp/ ~katsura/5.pdf 歴博・ほっとひと息・展示の裏話紹介 https://www.rekihaku.ac.jp/about/hitoiki/break5/break5.html 明治維新と平田国学」展 第5回 地動説と記紀神話 2004/11/10 「篤胤って「古事記」なり「日本書紀」の神話を信じていた人だろう、儒教的合理主義と国学的非合理主義っていわれているよ」と、大学の先生の講義を思い出す学生も少なからずいるのではないだろうか? だがことはそう単純ではない。 篤胤が江戸で学んだことは、これまで真実だと思ってきた儒教的“知の体系”が大きく誤っており、ヨーロッパのそれが実証的で科学的だという、恐ろしい真実だったのである。儒学が前提とし、仏教的世界観も当たり前だとしてきた天動説ではなく、地動説が正しいとすれば、この宇宙の起源とはいかなるものでなければならないのか? 1813年に刊行された篤胤の主著『霊能真柱(たまのみはしら)』の第一の問いかけは正にこの問題だったのである。 展示品の一つに、三河の神職で篤胤のパトロンでもあった竹尾正鞆(まさとも)の篤胤宛の手紙がある。そこで正鞆は、仏教的宇宙論の正しさを主張し、全国で仏教暦普及運動をすすめていた円通が今江戸にいっている、彼はコペルニクスのことも知らない馬鹿な僧侶だ、厳しく論争したらどうかと勧めている。 この正鞆も、世界地理学の最新成果を集め、天体観測を自身でおこなっていた三河屈指のヨーロッパ通知識人だったのである。 儒教や仏教に対する篤胤の批判の鋭い武器がこの地動説だった。だが、ことはそれほど単純ではないことを知らない大学の先生はまだ存在している。 朝鮮の科挙 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%91%E6%8C%99 湯武の凶逆を以って直道とせしは、孔丘もまた御道の罪人なり 然るに今の世の儒者なるもの、漢夷を中華、中国、聖賢の国と称し、我が皇御 漢夷を中華、中国、聖賢の国と称し、我が皇御国. を無礼無道の蛮夷邦として、(中略)豈我が皇御国の御威徳に勝りしの国あらんや。 儒の道こそ其国 康有為 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E6%9C%89%E7%82%BA 441 名無しでいいとも! sage New! 2019/05/10(金) 22:14:25.96 ID:+FCIB4ap0 >>407 デキ婚、アメリカでも多いわ どんだけアメリカ知らないとか フランスのシングルマザーに手厚いと結婚の意味すらない 625 名無しでいいとも! sage New! 2019/05/10(金) 22:23:16.63 ID:+FCIB4ap0 >>614 アメリカなら逮捕だよ親 645 名無しでいいとも! sage New! 2019/05/10(金) 22:23:57.64 ID:+FCIB4ap0 >>620 アメリカでも養育費払ってないの多いのに 自国の悪口しか言えない無能てイラつくわ ダウンタウンなう★1 http://himawari.5ch.net/test/read.cgi/livecx/1557491363/ の解体と国学的「自己」像の生成 1 徳川日本の「自?他」認識 ... www.ritsumei.ac.jp/~katsura/pdf/5.pdf も、ゐなかなければ、其国たちがたきがごとく、中国ありても、夷狄なければ生育の道あ ... の多きとすくなきと、風俗のよしあしとにこそよるべき」(『たはれぐさ』巻一(7). )と ...... しまの心ども多くなりぬ」と述べられて拒絶され、初めて「儒の道こそ、其国をみだすの. [PDF]思想的主体としての自国 : 儒学から国学へ https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri& ;item_id=35283...1 樋口達郎 著 従って、そこに とこそが江戸期に於ける儒学受容の呼び水となったのではな. は同じく堀景山 .... 則吾国即主也。 中略. 面々各々にて其国を国とし、其親を親とする、是天地の. 中国夷狄の名、儒書に在り来ること久し。それ故吾国に. 有て儒書さかんに行はれ、儒書を読ほどの者、唐を以中 ..... であり、従って「儒の道こそ其國をみだすのみ」ということ。 『国意考』より学ぶ!賀茂真淵が説く、厳しさよりも優しさが勝る日本人本来 ... shutou.hatenablog.com/entry/2015/07/10/124854 2015/07/10 - 国意考』では、 「凡世の中は、あら山、荒野の有か、自ら道の出来るがごとく、 ここも自ら、神代の道のひろごりて、 おのづから、国につきたる道のさかえは、皇いよいよさかえまさんものを、 かへすがへす、儒の道こそ、其国をみだすのみ、ここを?... 約 1,830 件 (0.46 秒)? 検索結果 ウェブ検索結果 [PDF]梁啓超の維新思想に見える福沢諭吉の「文明論」 - 京都大学学術情報 ... https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/.../1/sse_005_001.pdf 劉恩慈 著 - ?1998 - ?関連記事 本稿 は近代中国の知識人である梁啓超の初期の著作を福沢諭吉の著作と比較 し、梁啓超は福. 沢 .... 沢の思想の影響を受け、福沢の思想を消化 し、自らの 「新民説」の論を展開 していった。 ...... 沢にとって、儒教 は封建専制主義を支える理論根拠である。 [PDF]儒教の政治哲学における国家と正義(justice)・(上) r-cube.ritsumei.ac.jp/repo/repository/rcube/2939/e_59_5ono.pdf 小野進 著 - ?被引用数: 3 - ?関連記事 著名な歴史家津田左右吉(1873-1961)によって主張された, 徳川儒教は一般庶民の文化にほと. んど影響 ... このようにいえば必ずや, 中国においても家族制度は専制主義の根拠であるという .... 私は, 日本の保守主義思想の原点は徳川期の儒教・儒学であると考え ...... 福沢諭吉や西周は儒教を後進国社会の主要な原因として非難の目標にした。 福沢 徳川の大法は紛れもなく専制 世宗 (朝鮮王) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E5%AE%97_ (%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B) [編集] 仏教に対しては廃仏政策をおこなった。世宗は仏教の宗派を禅教の2宗派に統合し、18ヶ寺を除いてすべて破却するなどした。高麗時代まで国家の保護を受けて繁栄していた仏教勢力はこの時期に著しく衰退し、山間などで細々と続くのみとなった(朝鮮の仏教参照)。世宗代に編纂された仏教書には、創製まもないハングルで書かれた『釈譜詳節』がある[2]。三網行実図などを出版して儒教的な道徳を広めていった 儒教の理想とする王道政治を展開したとして、朝鮮王朝における最高の聖君と評価されている。韓国では子供から老人まで幅広い層に尊敬されている国民的英雄である。後年「海東の堯舜」と称された[2]。このため廟号は世宗であるが、朝鮮史では李氏朝鮮の歴代国王の中で聖君(最高の名君)と尊敬されている意味で世宗大王(????、セジョンデワン、せそうだいおう)とも言われる。 李氏朝鮮の学問 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E5%AD%A6%E5%95%8F# 実学 太祖李成桂を助けて李氏朝鮮の建国に大きい功を立てた鄭道伝、趙俊などは、皆が朱子学の信奉者だった。彼らは儒学的な理想を新王朝に実現させようと、政治、宗教の指導理念に儒教を採択すると同時に、仏教を猛烈に排斥させた。李氏朝鮮では君主の進講をはじめとして、成均館、四学、郷校などの教育機関や科挙などにもその科目が採択され、国の政治は儒教政治のようになった。 世宗 - 世界史Civ事典 https://civ.uc-style.com/leader/2_middleAges/sejong.html 世宗(せいそう、セジョン)は朝鮮(李氏朝鮮)の王。朝鮮王朝で最も優れた君主とされ、韓国では国民的英雄。 儒教による王道政治を進め、唐の制度に倣って宮中に研究所を創設し、若い儒学者や外国人に特権を与えて学問を奨励した。この結果、世界で初めて雨量計が全国に設置され、日時計や水時計などを制作している。また、民衆が利用できる文字「訓民正音(ハングル)」を考案した。 儒教を国教と定めたため、仏教を弾圧していた世宗だったが、晩年は病気のため仏教に頼ったという。北方の女真族を攻撃して領土を広げた。倭寇をめぐって日本と対立し対馬を攻撃したが、後に通信使を派遣して友好条約を結んだ。 中国、技術移転の強要禁止を明文化 実効性は不透明 (写真=ロイター) :日本経済新聞 https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39321230T21C18A2FF8000/ 中国、技術移転の強要禁止を明文化 実効性は不透明 米と次官級協議「新たな進展」 2018/12/23 22:16 保存 共有 印刷 その他 【北京=原田逸策】中国の全国人民代表大会(全人代、国会に相当)常務委員会は23日、外資投資を保護する外商投資法案の審議を始めた。外資の技術を行政手段で強制的に移転することを禁じる規定を盛った。米国の批判を意識して明文化したようだが、中国はもともと「政府が技術移転を強制したことはない」との立場をとる。米国が求めるような技術移転の阻止にどこまで実効性が上がるかは不透明だ。 中国共産党機関紙、人民日報が伝えた。 これに関連して中国商務省は23日夜、21日に米中間で次官級の電話協議をしたと発表した。「貿易均衡や知的財産保護の問題で深く意見を交わし、新たな進展があった。次回の電話協議と相互訪問の予定も話しあった」としている。 法案の柱は技術移転の規定。「技術協力の条件は双方の協議で決め、行政手段で強制してはならない」とした。米国は2019年3月1日までの対中協議で技術移転強制の改善を強く求めており、意識したとみられる。 ただ、中国はもともと技術移転について「企業と企業の交渉で政府は何もしていない」(王受文商務次官)との立場。あくまで商取引の一環で外資が自ら進んで技術移転しているという建前だ。法案は公式見解を明文化しただけともいえる。 実際、法案は「自主的かつ商業ルールにのっとった技術協力は奨励する」とも記した。「協力」は外資からみれば「強制移転」と映る。 海外の批判が強まってから中国は企業と政府があうんの呼吸で役割分担し、外資が「自主的」に技術を移転するよう仕向けてきた。ある北京の外交筋は「外資側にも『最先端技術以外なら技術を渡して市場が取れるならやむをえない』との割り切りがあった」と話す。 ただ、中国企業が力をつけて日米欧企業との差を急速に縮めており、これまでの慣行を許すと中国企業にハイテク覇権を握られかねないとトランプ米政権は懸念する。その懸念に今回の法案が答えたかどうかは微妙だ。 法案は「外国投資家の中国での出資、利潤、資本収益などは法に基づいて人民元や外貨で自由に海外送金できる」とも明記した。中国の通貨当局は資本流出と人民元安が進んだ17年春には外資企業の配当送金などを制限して批判を浴びた。法案の規定通りに運用されれば外資投資の保護は一歩前進といえる。 トランプ突然の対中関税引き上げ 原因は中国の「合意内容ほぼ白紙に戻す」大幅な修正要求 | ビジネス | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト https://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2019/05/post-12087.php 複数の米政府関係筋と民間の関係筋によると、中国政府は、米中貿易交渉の合意文書案の全7章に修正を加えて、米国側に提示した。合意文書案は150ページ近くに及ぶが、中国政府が加えた修正は、これまでの交渉を白紙に戻すような内容だったという。 関係筋によると、中国政府は、知的財産・企業秘密の保護、技術の強制移転、競争政策、金融サービス市場へのアクセス、為替操作の分野で、米国が強い不満を示していた問題を解決するために法律を改正するとの約束を撤回した。 修正後の文書がワシントに届いたのは今月3日の夜。その後5日にトランプ米大統領が対中関税の引き上げをツイッターで表明した。 ライトハイザー米通商代表部(USTR)代表は、中国側が過去に改革の約束を守らなかったため、中国に合意事項を順守させるには法改正が不可欠との立場を示している。 協議に詳しいワシントンの関係筋は「(中国側は)通商合意の核となる構造の土台を壊してしまった」と述べた。 ホワイトハウス、USTR、米財務省、中国商務省のコメントはとれていない。 関係筋によると、中国の劉鶴副首相は先週、ライトハイザー代表とムニューシン財務長官に対し、中国が行政上・規制上の変更を通じて約束を果たすと信頼してほしいと伝えたが、ライトハイザー、ムニューシンの両氏は、副首相の案を拒否したという。 協議について説明を受けたある民間の関係筋は「中国側に欲が出てきたため」前回の交渉が前進しなかったと指摘。 「中国は米国の現政権について計算ミスをしているようだ」と述べた。 <単なる交渉戦術でない> 市場では、トランプ氏の関税引き上げ表明について、交渉戦術ではないかとの見方も浮上しているが、関係筋によると、中国による合意文書案の修正は深刻なもので、トランプ氏の反応は単なる交渉戦術ではないという。 通商協議に詳しい中国の当局者は、中国では法改正に長い時間がかかると指摘。米政府は中国側の姿勢が後退したと主張しているが、交渉が進むにつれ、米国の要求は「厳しい」ものになり、合意への道筋が「狭まって」いったとコメントしている。 劉鶴副首相は通商協議のため9─10日に訪米する。一部の関係筋は、貿易戦争のエスカレートを回避するには、副首相が合意文書案の修正を撤回し、法改正に同意する必要があると指摘。 中国の産業補助金縮小や米国の遺伝子組み換え作物の承認手続き合理化など、米国側の他の要求についても、歩み寄りが必要になるとの見方を示している。 米中貿易交渉破談の裏側……なぜ習近平はちゃぶ台をひっくり返したのか?(高口康太) - 個人 - Yahoo!ニュース https://news.yahoo.co.jp/byline/takaguchikota/20190510-00125431/ 米中貿易交渉破談の裏側……なぜ習近平はちゃぶ台をひっくり返したのか? 米国は2019年5月10日より2000億ドル相当の中国製品に対して、関税を10%から25%に引き上げると表明した。9日から始まった米中の協議で進展がなかった場合、昨年12月1日の米中首脳会談以来小休止が続いていた米中貿易摩擦が再び激化へと向かうことになる。 一時は米政権内部から合意間近とのリークも流れていた交渉だが、なぜ突然のご破算となったのだろうか。いくつか内情が読み取れる情報が浮かび上がっている。 米国時間3日夜、中国から米国宛に米中貿易交渉合意文書の修正案が届けられたが、知財保護や技術強制移転禁止などを含めた幅広い分野でこれまでの合意を修正する内容だった。これが米国側の反発を招き、トランプ大統領は5日にツイッターで関税引き上げを表明することにつながったという。 なぜ中国はこの段階になってこれまでの交渉をひっくり返すような動きに出たのか。 6日付香港英字紙サウス・チャイナ・モーニング・ポストがその背景について伝えている。注目は、習近平総書記がこれまでの合意案は不服だとして協議担当者に修正を指示したとの情報だ。習総書記は「結果については私が責任を持つ」とまで言い放ち、強い姿勢で挑むよう求めたという。中国の交渉チームと習総書記のずれが、ちゃぶ台返しへとつながったというわけだ。 これは中国側の足並みの乱れという要因だが、もう一方で米国側の中国理解にも問題があったようだ。米国側は貿易協議での合意が空約束に終わらないよう、法改正を通じて変更を明確にするよう求めてきた。中国側は法改正は困難だとして、法律は変更しないものの運用で対応するので理解して欲しいと打診していた(8日付ロイター日本語版)。 確かに合意が着実に履行されるような方式は盛り込む必要はあっただろうが、法改正にこだわる必要はなかったのではないか。 そもそも中国は人治の国であり、法律と運用の間に天と地の開きがあることこそが問題である。法律を改正したとしても、運用によって合意を反故にするようなことはいくらでもできる。 法律の変更がゴールではなく、現実が変化するかどうかが重要だったはずだ。中国がメンツを重んじる国であり、政権が米国に譲歩したと取られるようなアクションは取りづらいことを考えれば、精力を注ぐのは法改正するかどうかではなかったはずだ。 米中双方の失敗が貿易摩擦の再開につながったわけだが、ある意味では仕方がない部分がある。異なる政治体制、経済、文化、歴史を持つ両国のずれが対立につながった以上、いざ交渉という今になって、いきなりお互いをよく理解してノーミスで合意をまとめましょうというのは無理がある話だ。 失敗を繰り返しながらお互いの事情を理解し、双方が納得できる落としどころを探し当てることができるのか。それとも決定的な亀裂へと発展していくのか。先は見えないが、唯一間、今後も異変急変大どんでん返しが繰り返されていくことは間違いない。 高口康太の記事一覧 - 個人 - Yahoo!ニュース https://news.yahoo.co.jp/byline/takaguchikota/ 89 LIVEの名無しさん sage New! 2019/05/11(土) 16:09:55.67 ID:QBbduFtY これ原文ママやで 福島みずほ@mizuhofukushima 5月11日(土)いたみホール・大ホールで、拳法フェスタが行われます。 映画と歌と講演の集いです。 私は16時から70分間中野晃一上智大教授と対談をします。ぜひ来てください! 斯(かく)の如く古(いにしえ)を信じ古を慕(しと)ふて毫(ごう)も自己の工夫を交(まぢ)へず、所謂(いわゆる)精神の奴隷(メンタルスレーヴ)とて、己(おの)が精神をば擧(あげ)て之を古(いにしえ)の道に捧(ささ)げ、 今の世に居て古人の支配を受け、其支配を又傳(つた)へて今の世の中を支配し、洽(あま)ねく人間の交際に停滞不流の元素(げんそ)を吸入せしめたるものは、之を儒學の罪と云ふ可(べ)きなり。 このように古を信じ慕って、まったく自分の工夫を加えず、いわゆる精神の奴隷※≠ニなって、自己の精神をすべて古の道に捧げるのが儒教のやり方です。 今の世の中にいて、古人の支配を受け、その支配を今の世に広めて今の世を支配し、ひろく人間社会に停滞不活発の要素を浸透させたのは、儒教の罪と言わなければなりません。 第1143回「文明論之概略」その279<儒教の限界(3)> | 解体旧書 https://ameblo.jp/uyim-kowa/entry-12174492466.html 斯(かく)の如く古(いにしえ)を信じ古を慕(しと)ふて毫(ごう)も自己の工夫を交(まぢ)へず、所謂(いわゆる)精神の奴隷(メンタルスレーヴ)とて、己(おの)が精神をば擧(あげ)て之を古(いにしえ)の道に捧(ささ)げ、 今の世に居て古人の支配を受け、其支配を又傳(つた)へて今の世の中を支配し、洽(あま)ねく人間の交際に停滞不流の元素(げんそ)を吸入せしめたるものは、之を儒學の罪と云ふ可(べ)きなり。 このように古を信じ慕って、まったく自分の工夫を加えず、いわゆる精神の奴隷※≠ニなって、自己の精神をすべて古の道に捧げるのが儒教のやり方です。 今の世の中にいて、古人の支配を受け、その支配を今の世に広めて今の世を支配し、ひろく人間社会に停滞不活発の要素を浸透させたのは、儒教の罪と言わなければなりません。 web.flet.keio.ac.jp/~syosin/2017collabo.pdf http://web.flet.keio.ac.jp/ ~syosin/2017collabo.pdf 、森自身が 1875(明治 8)年に広瀬阿常と「婚姻契約」を結んでの結婚をして いる。この時期に森は、国語に英語を採用することも考案している。それは森川輝紀によ れば、「日常生活では従来通りに日本語を、しかし学術分野では英語を採用するのが文明 の吸収・発展のため有効ではないかとのべているのであった」(18)ということである。た 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 社大党に疑問、参院選候補者の再選考を 「オール沖縄」支持100人委が要求 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/397168 社大党に疑問、参院選候補者の再選考を 「オール沖縄」支持100人委が要求 2019年3月16日 10:42 「オール沖縄」勢力を支持する市民らでつくる「県民の声」100人委員会のメンバーらが15日、県庁で会見し、夏の参院選沖縄選挙区の候補者擁立を巡る社大党の手続きに疑問があるとして選考のやり直しと公募を含めた透明性のある選考の仕組み作りを求めた。 拡大する 参院選候補者を巡り、選考会議の設置を求める「県民の声」100人委員会のメンバーら=県庁 メンバーの一人で、ミュージシャンの多嘉山侑三さんは、選考過程で社大が現職の糸数慶子参院議員に引退を求めたことに言及し「議員と支持者への配慮なく政党で決定し、県民への説明もない。今後の選定では県民の声を聞くプロセスを要望する」と述べた。 その上で、国政選挙や知事選の選考に際し自薦・他薦の機会を設けることや協議過程の県民への説明、候補者による公開プレゼンの実施などを求めた。3月末まで賛同署名を集め、県政与党や労組などでつくる「調整会議」に要望書を提出する。署名目標は1万筆。 一方、衆院3区補欠選挙の選考過程も一部不透明だったとしつつ、県民から大きな不満の声が上がっていないことや投開票まで時間が迫っているとして見直しは求めないとした。 社大の大城一馬委員長は本紙などに「人選では党内外から募っており準公募だと認識している」と述べた。会の呼び掛け人は14日時点で金秀グループの呉屋守將会長ら159人。会見にはノンフィクションライターの渡瀬夏彦氏らが参加した。 糸数慶子氏、参院選出馬を断念 社大党が勇退求める - 沖縄:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASM1C4J39M1CTPOB001.html 糸数慶子氏、参院選出馬を断念 社大党が勇退求める 2019年1月11日14時30分 シェア 0 ツイート list ブックマーク 2 メール印刷 [PR] 参院沖縄選挙区選出の糸数慶子氏(71)が、夏の参院選への立候補を断念した。糸数氏は沖縄社会大衆(社大)党の元委員長で、前回2013年は党公認で立候補して当選したが、社大党は糸数氏に勇退を求め、琉球大法科大学院教授の高良鉄美氏(64)の擁立を決めていた。 糸数氏は10日夜、那覇市内で会見し「立候補の意思はあったが、党では受け入れられなかった。参院選は絶対に負けられない。平和の一議席をバトンタッチできればいい」と述べた。一方で、政治家を引退するわけではなく、衆院選などへの立候補の可能性を探る。 第八十一回?京の落語|京都ツウのススメ|おでかけナビ|沿線おでかけ情報(おけいはん.ねっと)|京阪電気鉄道株式会社 https://www.okeihan.net/navi/kyoto_tsu/tsu201501.php 一時期、幕府の弾圧や言論統制によって落語は衰退しますが、江戸時代末期から明治時代にかけては、噺家や名作が次々と生まれ全盛期を迎えます。 桂文我「落語「通」入門」を読む http://hccweb1.bai.ne.jp/ ~hda25701/rakugotu.html 寛政の改革ではっきりと滑稽話に対する幕府の弾圧があったために、滑稽さを表に出すような興行ができなかったという指摘には、 なかなか興味深いものがある。 江戸改革総合比較 http://bird.blue.coocan.jp/forarai/edo_kaikaku.html 黄表紙作家の恋川春町が『鸚鵡返文武二道』を著わすと、寛政の改革を風刺したとして弾圧された。 落本作家の山東京伝が『仕懸文庫』を著わすと、風俗を乱したとして処罰され、 天保の改革 背景 実施者 老中水野忠邦 衣食住、冠婚葬祭、年中行事、芝居見物などの娯楽に、生活全般のわたり、こまかな禁令が出された。 人返しの法 農民の出稼ぎを禁止し、江戸や大阪で、生活の苦しい者を農村に帰らせ、農村人口の増加をはかった。 歌舞伎や寄席を弾圧。市川團十郎の江戸追放や、公演場所移転、内容は勧善懲悪ものへ。 絵草紙、錦絵、人情本、合巻など出版の統制を実施。 moose-murano.jp/kirakuya/rakugo_shiryou.pdf http://moose-murano.jp/kirakuya/rakugo_shiryou.pdf ■史上最悪の弾圧劇〜天保の改革 寄席文化が上り調子だった中、天保の改革が始まります。 老中首座に就任した水野越前守忠邦は、それこそ徹底的に庶 民の奢侈について弾圧を開始します。もちろん、寄席に対す る規制も苛烈きわまりないものでした。 江戸に 200 軒あまりあった寄席は、改革が始まった天保 12 年には、自粛ということで 75 軒に減り、さらに翌 13 年には、 本格的なお触れが出され、市中 15 軒・寺社地 9 軒にまで制限されてしまいます。この頃、寄席で大人気だった 女義太夫は、306 人が一斉に逮捕され、三味線は没収の上、すべて火中に投げ入れられました。寄席の主宰者た ちも様々なお咎めを受けています。 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 武州鼻緒騒動についてのシンポジウム | 東雲寺ブログ http://touunji.jugem.jp/?eid=196 江戸送りとなった長吏たちは、弾左衛門を支配下におく江戸町奉行の取り調べではなく、異例のことだが勘定奉行のもとで取り調べを受け、その裁許によって獄門1人、死罪1人、追放10人、手鎖85人など、とても重い刑罰が下された。 さらにその取り調べ過程で、牢死48人、帰村後死亡8人などの犠牲者が出ている(牢死49人、帰村後死9人という説もあり)。幕府の弾圧による「毒殺」説もささやかれている。 一方、日野屋や百姓側は世間を騒がせたということで比較的軽い罰金刑だった。 水野忠邦 http://www7b.biglobe.ne.jp/ ~hitosugi/tadakuni.htm 幕政への参加を目指した忠邦は、幕政中枢への参加を許されないものの、実質石高20万石の豊かな財政力を備える唐津藩を捨て、積極的な賄賂攻勢をかけて、 『天保の改革』は、単なる風俗の取りしまりや倹約のすすめ、農村の復興を大きく逸脱し、鳥居耀蔵による『蛮社の獄』といった蘭学者の弾圧や、寄席、歌舞伎、浮世絵、書籍など町民文化への強引な圧政が際立ち、また、上知令(あげちれい)による江戸・大坂の強引な幕府直轄領化で諸藩・旗本の猛反発も招いたため、改革はたった2年で失敗し、忠邦は老中職を罷免された。 目的のためには手段を選ばない手法で老中首座を獲得し、改革を断行しており、賄賂政治を禁じた天保の改革だったが、当の忠邦自身が老中になるまで賄賂を配り歩いていたという。 天保の大飢饉は同6年から7年にかけてもっとも深刻化し、大消費人口を抱えた江戸もその影響を直接受けて混乱状態におち入った。 諾国の難民が江戸に流れこみ、飢えや病気で行倒れる者が多く、6年には餓死者122名を出した。翌7年10月のひと月だけで、行倒れ100名、捨子53名、欠落118名、盗賊157名、湯屋着逃げ158名という数字があげられている。 江戸時代、寛政の改革と天保の改革の合間にあった化政文化の芸能分野 | 公務員総研 https://koumu.in/articles/540 そして1841年に徳川家斉が死去、将軍・徳川家慶は老中首座であった水野忠邦と共に人事を刷新し、「天保の改革」を実施します。寛政の改革同様に、ここでも徹底的な風俗取り締まりが行われ、歌舞伎の「市川團十郎」や、人情本の「為永春水」が処罰されています。文化・文政の時期を併せて、「化政」と呼びますが、化政文化は天保の改革が開始されて衰退していくことになります。 つまり「元禄文化」が興った後に「享保の改革」で言論・出版統制が行われ文化は衰退。その後の「宝暦・天明文化」で再興するも「寛政の改革」の言論・出版統制で衰退。さらに「化政文化」で盛り上がるも、その後の「天保の改革」の言論・出版統制で衰退することになるのです。 そして、ここから先は黒船の来航など開国に向けた動きに日本は進んでいくことになります。 しかし天保の改革が始まり、厳しい奢侈禁止令が発令されると、七代目市川團十郎は処罰の対象となり、手鎖の刑となります。さらに江戸を追放されることになりました。天保の改革では寄席は禁止、歌舞伎は廃絶寸前まで弾圧されました。これは庶民の娯楽のメインが歌舞伎であり、歌舞伎の中心人物が七代目市川團十郎だったことを物語っているともいわれています。 江戸時代の化政文化まとめ(葛飾北斎、歌川広重、伊能忠敬など) - Irohabook http://www.irohabook.com/edo-kasei 化政文化 - クール・スーサン(音楽 芸術 医学 人生 歴史) https://www.cool-susan.com/2016/12/27/%E5%8C%96%E6%94%BF%E6%96%87%E5%8C%96/ 錦絵は寛政の改革による規制で衰えたが、天保の頃には風景を浮世絵的に描いた絵画が流行するようになった。葛飾北斎の富嶽 また18世紀初めには京都の石田梅岩(ばいがん)が石門心学を始め、神道や仏教に由来する道徳や倫理を教えるとともに、商人の存在意義や商業活動における営利の正当性などの商人道を説いた。石田梅岩の教えは弟子の手島堵庵(てしまとあん)やその弟子の中沢道二(なかざわどうに)らによって全国に広まった。 国学 幕府の公式学問である朱子学は儒学が由来であったが、元禄の頃から我が国古来の国学が生まれた。国学は京都・伏見稲荷の神官出身の荷田春満(かだのあずままろ)やその門人の賀茂真淵(かものまぶち)によって発展し、真淵の門人である本居宣長(もとおりのりなが)によって大成した。本居宣長は当時ほとんど解読できなかった古事記の研究に心血を注ぎ、約35年の歳月を費やして古事記伝を完成させた。 天文学では幕府のオランダ通詞(通訳)を務めた志筑忠雄(しづき)が暦象新書(れきしょう)を著してニュートンの万有引力説やコペルニクスの地動説を紹介した。なお志筑忠雄は「鎖国」という言葉を初めて用した。 志筑忠雄 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E7%AD%91%E5%BF%A0%E9%9B%84 『日本人の叡智』プレミアムレビュー - HONZ https://honz.jp/articles/-/30833 鹿野武左衛門(1649?1699)は今日埋もれた天才だと著者はいう。 大阪生まれ、漆塗りの職人であったが生来話術が巧み。「江戸にはおもろいやつはおらんやろ」と思ったか江戸に下り、滑稽話を考えては芝居小屋や風呂場で人々を笑わせ始めた。 評判になり大名まで彼を座敷に呼ぶに至ったという。関西お笑い芸人の元祖なのだ。伊勢物語や源氏物語などの古典にも精通。しかし、弾圧をうけ無実の罪で伊豆大島に流罪になり衰弱死した。以来、江戸では落語が100年停滞し、江戸の笑いは出版物が中心になったという。 もうこれだけで小説や評論が1本書けることは間違いない。著者は「鹿野はいまだ無名。記録しておく」と結んでいる。 明治時代の歴史年表から読みとる日本の仏教文化の変化について─日蓮宗に見る教団から宗団への過程について─ |日蓮宗 現代宗教研究所 https://genshu.nichiren.or.jp/genshu-web-tools/media.php?file=/media/shoho43-15.pdf& ;type=G&prt=762 まず三月二十七日には神社仏閣の地で守られていた「女人禁制」を廃止する。 さらに四月二十五日には太政官は 言っただけであり、それを敢えて奨励し強要しているわけではないのである。 しかし、一言触れておかなければならないことは、この太政官布告は、国家が僧侶の破戒行為を国法で処罰しないと 言う「肉食、妻帯勝手たるべし」である。 僧侶に肉食・妻帯・蓄髪および法要以外での平服着用を許可したのである。 「自今僧侶の肉食妻帯は勝手たるべき事、但し法要の他は、人民一般の服を着用して苦しからず」と布告する。世に もともと僧侶の戒律についてはそれぞれ重要な規定があり、それは僧侶が自分自身の意思で自発的に堅く守られる そのために世間的な在家者と対比する形で出家者として社会的に尊敬されていたのである。 べきもの、換言すれば、僧侶となるべき程のものは、はじめから十分それを知った上で、身をその社会に投じていた。 さきの「肉食、妻帯勝手たるべし」は、僧尼令(養老二年・七一八)の公的な禁を解いただけであった。僧尼令では、僧尼の飲酒、肉食、五辛を服することを禁じ、これを犯すと三〇日の苦役(強制労働)で ちなみに、僧房に賄方(まかないがた)として務める婦女たちは「一宿以上泊めた場合は十日間の苦役」の禁のために、朝になると必ず一度は寺門外へと足を運んでいたのである。 とくに男女間では取り締まりが厳しく、 「僧坊に婦女を留め、尼房に男夫を置くことを許さず」といい、これに背いて 一宿以上泊めた場合は十日間の苦役、五日以上の場合は三〇日、十日以上は百日間の苦役であった。それこそ僧尼が交わりをもったら遠島だったのである。 真言宗中国開教史(二) http://www.houzenin.jp/ronbun/14/kaikyo2-6.html まだある、変人文豪・永井荷風は「薩長土肥の浪士は実行すべからざる攘夷論を称え、巧みに錦旗を擁して江戸幕府を転覆したれど、もとこれ文華を有せざる蛮族なり」(「東京の夏の趣味」 半藤一利「幕末史」より引用)だそうだ。 建て直し不可能?水野忠邦の天保の改革: 今日は何の日?徒然日記 http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/03/post-ce3e.html そこに来て天保三年頃からの大凶作=天保の大飢饉です。 各地で打ち壊しが起こる一 しかも、忠邦がその器を見込んで、わざわざ長崎奉行から勘定奉行に大抜擢した田口喜行(よしゆき)が就任からわずか1ヶ月後に、長崎でのワイロまみれの政治が暴露されて失脚しちゃう 蘭書翻訳取締令 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E6%9B%B8%E7%BF%BB%E8%A8%B3%E5%8F%96%E7%B7%A0%E4%BB%A4 天保10年(1839年)7月、天文方見習渋川敬直が蘭学取締の意見書を老中水野忠邦に提出したのをきっかけに翌年5月幕府は天文方に対し蘭書翻訳を妄りに外部に流布することを禁じ、また町奉行に命じて江戸市中の看板に横文字を用いているものを取締らせた。 ところが嘉永2年(1849年)に漢方医と蘭方医の対立が深刻化すると、漢方医側の政治工作もあり、徹底的な取締が開始されることとなる。 まず同年3月に幕府医師の蘭方使用が禁じられるとともに全ての医学書は漢方医が掌握していた医学館の許可を得ることとなった。更に翌嘉永3年(1850年)9月には、蘭書の輸入は長崎奉行に許可制となり、諸藩に対して海防関係書を翻訳中の藩は老中に書名を届出、1部を天文方に提出するものとした。 この一連の蘭書翻訳取締令によって蘭学に関する出版は困難となり、蘭学の自由な研究は制約されることとなった。 嘉永3年(1850年)には佐久間象山の『増訂荷蘭語彙』が出版禁止・不許可とされている。 しかし、漢方は自己治癒力や免疫力の増強によって、体の内側から健康を保とうとする医学です。 深手を負った兵士に対しては外科手術を得意とする蘭方が圧倒的に有利だったのです。これを受け、明治政府は明治八年に戊辰戦争で活躍した蘭方(西洋医学)を修めたものだけを医者と認める法律を施行しました。そのため、大多数だった漢方医は、ほとんど姿を消していきました。 これにより、漢方薬については患者の症状に合わせて西洋薬と合わせて処方する極少数の医者がいたり、家庭で症状に合わせて摂取する、所謂「民間薬」となりました。 現代の「健康食品」と同じ扱いです。その後、極少数の漢方の有効性を確信する医師達が、漢方と西洋医学との共存を説き、様々な議論がなされ、ようやく昭和五十一年再び漢方薬が政府に認められ、処方されるようになりました。 さて、このとおり漢方が医学として認められない期間がおよそ百年あった訳ですが、その間「鹿の袋角」はどのように扱われていたのでしょうか。 一方、このころ新しく入ってきた蘭方に対して、日本の伝統医療は「漢方」と呼ばれるようになりました。 漢方を扱う医者を「漢方医」と呼び、江戸後期では圧倒的大多数が漢方医であり、蘭方を学ぶ「蘭方医」とは対立状態にありました。 そんな中、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が始まり、これがきっかけで、「漢方」対「蘭方」の対立に決着がつきます。この戦争による負傷兵の治療に漢方医、蘭方医の双方が駆けずり回ります。 株式会社ディアー・カンパニー | 雲仙鹿牧場について deercompany.shop/html/page5.html 漢方を扱う医者を「漢方医」と呼び、江戸後期では圧倒的大多数が漢方医であり、蘭方を学ぶ「蘭方医」とは対立状態にありました。そんな中、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が始まり、これがきっかけで、「漢方」対「蘭方」の対立に決着がつきます。この戦争?... 鳥居耀蔵(とりいようぞう)とは - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E8%80%80%E8%94%B5-106353 。儒学の素養が深く,詩文にひいでた。 【蛮社の獄】より … 崋山の蘭学が経世的性格をもつ以上,漢学との衝突は不可避であり,したがって幕府の文教をつかさどる林家一門の恨みを買うのは当然のなりゆきであった。なかでも崋山とその同志を敵視したのは,林述斎の次男鳥居耀蔵であった。 蛮社の獄 / incidents.kogu https://incidents.kogus.org/articles/g7n89RAR 後に蛮社の獄において弾圧の首謀者となる鳥居耀蔵は、幕府の文教部門を代々司る林家の出身であった。儒教を尊んできた幕府は儒学の中でもさらに朱子学のみを正統の学問とし、他の学説を非主流として排除してきた。 林家はそのような官学主義の象徴とも言える存在であり、文教の頂点と体制の番人をもって任ずる林一門にとって蘭学は憎悪の対象以外の何物でもなく、また林家の門人でありながら蘭学に傾倒し、さらに多数の儒者を蘭学に引き込む崋山に対しても、同様の感情が生まれていた。 海防論 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%98%B2%E8%AB%96 [編集] 中井竹山、中井履軒らが唱えたもので、蝦夷地は国境外の僻地であり、そのような未開地を開発経営することはいたずらに国力を消耗するだけであると説いた。田沼意次の蝦夷開発計画を中止させた松平定信は、はじめは消極論者だった。 儒教の尚古思想――冨谷至氏『四字熟語の中国史』47頁 | 漢検準1級の部屋 「子いわく、述べて作らず、信じて古を好む。ひそかに我が老彭に比す。(『論語』述而)」 ―子は、祖述して創作はしない。確信を持って古を好む。私はひそかに老彭と比べている。 「子の曰わく、大なるかな、堯の君たるや。巍巍として唯だ天を大なりと為す。唯だ堯これに則る。蕩蕩として民能く名づくること無し。巍巍として其れ成功あり。煥として其れ文章あり。 舜に臣五人あり、而して天下治まる。武王曰く、予に乱臣十人あり、と。孔子曰く、才難しとは、其れ然らずや。 唐虞の際、斯に於いて盛んとなす。婦人あり、九人のみ。天下を三分して其の二を有ち、以て殷に服事す。周の徳は、其れ至徳と謂うべきのみ。子曰く、禹は吾れ間然すること無し。飲食を菲くして孝を鬼神に致し、衣服を悪しくして美を黻冕に致し、宮室を卑くして力を溝洫に尽くす。禹は吾れ間然すること無し。(『論語』泰伯)」 ―子曰く。偉大であるかな、尭の君主であることは。高くそびえたち、天を大なるものとし、尭はそれを模範とした。 あまりにも遠大なので民衆は具体的に表現することができない。そびえたち功績があり輝くばかりの文章がある。舜には臣下が五人いて天下が治まった。 武王はいっていた。私にはすぐれた臣下が10人いた。孔子曰く、才あるものは得難いとは、それもそうだ。尭舜以降、これがもっとも反映した時だ。 婦人がいて9人をかぞえた。天下を三分しその三分の二を領有していて、それで殷に仕えた。周の徳は最も優れたものであった。子曰く。 禹は私には非難すべきところが無い。飲食を質素にして先祖に対しては孝を尽くし、衣服を粗末にして、儀礼のひざかけとかんむりを華美にした。普段生活する部屋は質素にして、治水に力をそそいだ。禹は私には非難することができない。 「 尭・舜・禹・周の文王・武王の時代が本当に理想的な時代だったのかは疑わしく、根拠に欠けるうえに、聖人君主としての彼らの存在は史実をこえた伝説の世界でしかありえない。 『四字熟語の中国史』著者の冨谷至氏は、「儒家は己の理想世界をまず措定し、それを尭・舜・禹、文王・武王に仮託したにすぎないと言うべき」だと述べ、 したがって尚古主義は理想主義に他ならず、それは「現実の枠組みの中での可能性の追求という現実主義と対峙」するとし、さらにこうして描かれた理想の世界は「あくまでも非現実的な虚構の世界であるがゆえ、作られた話につじつまの合わない綻びもでてくる」と話を展開する。 そしてこうした儒教の尚古主義の「いきすぎ」を批判した韓非子に代表される法家を挙げ、そこから「守株」そして「矛盾」の話に繋げる。 www.ibaraki-ct.ac.jp/lib/ihou/39/18.pdf http://www.ibaraki-ct.ac.jp/lib/ihou/39/18.pdf 瀬 尾 邦 雄 孟 子 の 禅 譲 放 伐 に 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 『顰にならう』 http://www.asahi-net.or.jp/ ~bv7h-hsm/koji/hisomi.html 魯の国の『師金』という人間が、孔子の高弟『顔淵』にくってかかった。彼が気に食わなかったのは孔子の「尚古主義」である。 『師金』が言うには 「あの三皇五帝の礼儀や制度は、形が同じであることが尊いのではなくて、よく世を治めるということが尊いのである。 例えて言えば、三皇五帝の礼儀や制度は、柤や梨や橘や柚の果実のようなものである。その味はみな違っているけれど、どれも人の口に適している。 つまり礼儀や制度というものは、時代に応じて変化していくものであって、固守すべきものではない。 (中略) こういう話もある。あの美人で有名な西施がまだ郷里にいたとき、胸を病んでいて、その痛みのためにいつも眉をしかめていたところ、同じ村に住んでいた醜女がそれを見て美しいなあと思い、家に帰ると自分もまねをしてみようと考え、同じように眉をしかめて村を歩きまわった。 するとそれを見た村の人々は恐れをなして、金持ちは門をしめて家の中に閉じこもってしまい、貧乏人は妻子をつれて村からにげだしてしまったという。 この醜女は西施が眉をしかめる風情の美しさはわかっても、その美しさが何によるものであるかということを知らなかったのである。 あなたの先生(=孔子)も、この醜女のようなもので、いたずらに古の聖王たちの真似をしていては、残念ながらそのうちにひどい目にあうだろう」 No. 417 【西施捧心】 せいしほうしん|今日の四字熟語・故事成語|福島みんなのNEWS - 福島ニュース 福島情報 イベント情報 企業・店舗情報 インタビュー記事 http://fukushima-net.com/sites/meigen/495 訳も分からず、いたずらに人真似をして物笑いになるたとえを言ったものです。 【西施捧心】の四字熟語のほかに、【西施の顰(ひそみ)に効(なら)う】という成句でも知られています。 『荘子』天運篇に出てくる話です。 春秋時代、魯の楽師の師金(シキン)が孔子の弟子の顔淵(ガンエン)に 孔子は文王・武王を形式的に尊ぶだけで、主張することは時代に即していない、と批判した時に持ち出した話です。 西施(セイシ)心(むね)を病みて其の里に?(ヒン)するに、 美人の西施が胸を病んで眉をしかめたところ 其の里の醜人(シュウジン)見て之を美とし、 その村の醜女がそれを見て美しいと思い 帰りて亦(ま)た心を捧(ホウ)じて其の里に?(ヒン)す。 家に帰ると自分も同じように胸に手を当て、眉をしかめるようになった。 其の里の富人(フジン)は之を見、堅く門を閉じて出でず。 それを見ると金持ちは門を硬く閉ざし、家から 貧人(ヒンジン)は之を見、妻子を挈(ひっさ)げて之を去りて走る。 貧乏人は妻子を引き連れ村から逃げ出した。 彼は?の美なるを知るも、 この醜女には西施が眉をしかめたようすが美しいと思ったのだが、 ?の美なる所以(ゆえん)を知らず。 眉をしかめることが何故美しく見えるのかという根本が分からなかったのだ。 惜しいかな、而(なんじ)の夫子(フウシ)其れ窮せん。 残念だが、ただ形をまねただけの君の先生も(これと同じで)行き詰まるでしょう。 B美女献上の発案者であり世話役でもあった范蠡(ハンレイ)に付き 従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もあります。 C美女『西施』の唯一の欠点は、太い脚だったそうです。 D四大美人にはそれぞれ欠点が有ったといわれています。 西施は上述の通り「太い脚」、 王昭君は極端な「なで肩」、 貂?は「小耳」、楊貴妃は「腋臭(わきが)」です。 E四大美人にはそれぞれ欠点が有ったといわれています。 西施は上述の通り「太い脚」、 王昭君は極端な「なで肩」、貂?は「小耳」、楊貴妃は「腋臭(わきが)」です。 日本における論語受容の一斑―郷党篇「厩焚章」を手がかりに 渡邉大 概要:本稿は、日本における『論語』受容のあり様 について、郷党篇「厩焚章」の中国における伝統的解釈と、 「厩焚章」を踏まえた落語「厩火事」を中心とする、 日本の諸資料から窺える解釈との比較を通じて、 考察を加えたものである。 検討を通じて、中国において、 『論語』郷党篇「厩焚章」は、旧注、新注の別なく、所謂「重人賤畜」説を基調として解釈されてきたのに対し、日本では、 「重人賤蓄」と直截に割り切る事へのためらいが認められることを確かめた。 また、中国では、 『論語』を礼の書として読み、 「かたち」まで学ぼうとしたのに対し、日本人において、 『論語』はあ くまでも孔子の「こころ」を学ぶための書であったという点にその『論語』受容の特徴的傾向を見いだした 一方、 橋本秀美『論語―心の鏡』、 (二〇〇九年)には次のようにある 『論語』 は中国の古典である』 二千数百年前に中国で生まれた『論語』は当時の中国の社会・文化を背景に成立したものであり、 その後数百年、中国社会における伝承を経て徐々に変化して、西暦二〇〇年前後、鄭玄・何晏の手を経て基本的に文字内容が確定した。 その解釈・理解については、その後も現在に至るまで、各種異説が生まれているが、最も重要な解釈は西暦一二〇〇年に亡くなった朱熹のものであった。また、 『論語』版本の流通は、 更に近代に至るまで変化があり、 一定していなかった。 日本・韓国などが『論語から受けた影響も長く深いものがあるが、中国の状況とは比較にならない 日本では、科挙のように文芸力を基準とした高級官僚の選抜は行われず、中国のように共通の古典学の基礎を持つ知識階層が形成されることはなかった 江戸時代以降は幅広い階層の人が『論語』を学ぶ機会を持ったが 生活に直接、関わる重要問題ではなく、所詮はお遊びの域に止まる場合が殆どであった さて、そのお遊び」の例として、橋本は、 「学者虚して曰すくないかな腎」 (『初代川柳選句集』上、岩波文庫)という江戸川 )という江戸川柳を取り上げ、 「川柳や小咄を創作し、 享受した町人た ちにとって、 学而篇第三章の「巧言令色鮮矣仁」は、 耳に馴染んだ言葉であったにちがいない。しかし、教養水準としてはこの程度が限界だった 、戦後、支那が中国に変わった。そのため 「?お前唐土を知ってるかい」 「?知ってますとも、お団子でしょ」 「お団子じゃないよ、いまの中華民国だ」 というこの「中華民国」という言葉も、 厳密にいえば「中国」 と直すべきである。しかし、 文楽は直さなかった。 いや、直せなかったのである。周囲からそのことをいわれたときに、 「変えられない。 変えたら話が崩れちゃうんだ」 と語っている。つまり、一字一句も変えることができないほど、この噺は、文楽の中で洗練されていたということである。 先秦諸子はともかく、儒教一尊以降、孔子の批判は厳に戒められた。 かつて、李贄(一五二七〜一六〇二)は、、激しく弾劾され、獄中にて自刎、 その著書は禁毀処分となった。 乾隆四十七年(一七八二)に完成した 『四庫全書総目提要』 別史類存目には、 李贄の『蔵書』について 「李贄の書はどれもひどくでたらめで、聖を非とし、法を蔑するものであるが、特にこの )書物は、孔子を排撃して、勝手な基準で人物評価をしており、長い間伝 えられてきた善悪を全てひっくり返したその罪はこの上もなく重い。その書は禁毀処分とすべきであるし、その書名を記すために簡牘を汚すの ももったいないほどではある。しかし、李贄は大法螺を吹いて世を欺き、同時代の焦рネどは、ほとんど聖人として崇めていたほどであったこと、 現在も田舎の浅陋な学者には、その虚名に震え、まだ信じて疑うぬもの がいることから、この書を取りあげぬままにしておくことで、異端を好 む者が、かえって自分がはじめて手にしたなどと誇って、人心を損なう ことがあってはいけないと考えたのである。そこで、特にこの書を存目 として、 その罪を深く暴いたのである。)」 と 中国社会における儒家思想の軛の強さに思いを致さずにはいられない。 当時の中国では聖人孔子に噛みつくなど、とても考えられないことであった。当時の事情は、大方の日本人にあっても、同様で 駐車場 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%90%E8%BB%8A%E5%A0%B4 機械式 無人になった車が自動で運ばれるもので、1929年に大阪在住の角利吉がタワー式駐車場の実用新案を取得したが実用化はされず、1962年に至って石川島播磨重工業が東京の日本橋高島屋に循環タワー式を納入したのが最初の実用例である 立体駐車場(りったいちゅうしゃじょう)とは - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%AB%8B%E4%BD%93%E9%A7%90%E8%BB%8A%E5%A0%B4-148999 自動車をとめる空間を、多層化または立体化した駐車場。駐車装置を操作して入出庫する機械式と、目的の階まで自走して駐車する自走式がある。機械式は、エレベーターのような運搬器を昇降させて収容するタワー型と、1台分の駐車スペースを多層化する多段型に分けられる。立駐。 スカイ・パーキングともいう。都市内の狭い場所にたくさんの自動車を駐車させるために考案された立体式の駐車場。最小敷地面積に多数の自動車を収納するため,エレベータ式,メリーゴーラウンド式の機械装置のものが多く,車の出し入れも,リモートコントロールで自動的に行う。 二十四孝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%AD%9D#? 黔婁 ?黔婁(ゆけんろう)は南斉の人で、孱陵(せんりょう)県の役人になっていたが、着任して10日も経たないうちに、胸騒ぎがしてならなくなった。 父の病気かと思い、役人を辞めて家に帰ると、案の定大病を患っていた。?黔婁が医師に病状を尋ねると、病人の便を舐めて、甘く苦ければ良かろうと言う。?黔婁は簡単なことだと言って舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星(北極星)に身代わりになることを祈り続けた。 朱壽昌 世界6位の韓国建設産業の急落…日本との格差5段階に広がる 2019年04月02日08時12分 [? 中央日報/中央日報日本語版] comment44 写真拡大 韓国の建設会社が1980年代に受注した「リビア大水路」の建設現場。成長を続けてきた韓国の建設産業は最近になり急速に後退している(写真=中央フォト) ??世界で韓国の建設産業の地位が急落している。現政権発足後に「建設産業グローバル競争力」の順位は6位から12位に急落した。建設業が国家経済の根幹を成しているだけに対策準備が急がれるという声が大きい。 ??韓国建設技術研究院が昨年12月に作成した非公開報告書「建設産業のグローバル競争力評価に基づく海外建設ビッグイシュー開発(III)」によるとこう現れた。建設産業グローバル競争力とは建設企業が世界の舞台で競争できる企業の能力と制度、政策など国の総体的能力を意味する。 ??韓国の2018年の順位は調査対象20カ国中12位だ。2年前の2016年に6位を記録してから2017年が9位、2018年が12位と毎年3段階ずつ落ちた。韓国が10位圏外に押し出されたのは研究院が調査を始めた2011年以降で初めてだ。 ??他の国の2018年を成績表を見ると、米国が前年と同じく1位を占めた。その後を中国、スペイン、ドイツ、英国、カナダなどが続いた。1位の米国は設計部門で、2位の中国は施工部門で非常に高い競争力を備えたと評価された。 ??主要競合国である日本は韓国より5段階高い7位を記録した。評価初年度の2011年に11位となってから着実に順位を高めている。い。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる