司馬遼太郎「歴史のプラスとマイナス」: うみねこ堂一丁目

司馬遼太郎はまず藤原惺窩(せいか)を例に挙げる。藤原惺窩はもともとは禅僧で、寺で朱子学を学んだ。そして徳川家康に儒学を講じてそれが後に武士道を形成する基となった重要な人物だが、「看羊録」で朝鮮の儒学者に「明と朝鮮の連合軍で日本を占領して欲しい」と願い出たことでも有名である。内容を抜粋する。
藤原惺窩(せいか)という学者がいます。
彼は日本歴史のなかで、最初のフリーの学者だと私はおもいます。
どこにも仕えなかった。これまで学問といえば、坊さんのものか公卿のものだったのですが、惺窩によってプロの学者が生まれるわけです。彼は豊臣政権のころ、成熟しました。
京都を歩いたり、伏見や大阪の城下に行ったり、諸大名に呼ばれて論語やらなにやら、儒教の話をする。

もともとは播州の名族の出で、プライドのつよい、佶屈ごう牙(きっくつごうが)な性格の人なんです。
当時、伏見の城下に、朝鮮人の捕虜でたいへんな学者がきていた。捕虜といっても、当時のひとびとはあまり虐待などしなかったようで、彼は勝手に伏見城下を歩きまわって遊んでいる。大名からお茶に招待されたりもする。
やがて休戦になると、国に帰されるんですが、その朝鮮の学者を惺窩が訪ねていって話をしているんです。
日本はつまらない。喧嘩が強くて、勝った奴だけが大名になる。豊臣政権も、学問というようなことは全く考えない。その点、お国や大明国がうらやましい。学問をして、科挙の試験に通れば官吏になれ、出世もできるし、そこで己れの志をのべる政治家になれる。そういう制度で国が運営されている。

日本では、戦争に勝たなければダメで、福島正則といったふうの無知蒙昧な人間が威張っている。この国を脱け出して、お国か大明国に渡りたい。
そんなことを言っているんです。彼はほんとうに脱出するつもりで、その後九州まで行ったりしています。
藤原惺窩は、のちの日本のインテリを象徴するような人物なんです。その朝鮮の学者が、そのとき何と答えたかはわかりませんが、帰国した後に、惺窩の名は出さずに、彼の言ったことを書いています。
彼はさらにこの朝鮮の学者に、日本をお国のような体制にしたい。それで、いまのことばで言えば、日本へ中国・朝鮮連合の解放軍を送ってくれ、というようなことまで言っています。
あなたが、朝鮮に帰ったら、大明国と協力して博多湾に兵を送れ。そのさい、途々、解放軍は絶対に民衆を殺さないということを布令ていけば、みな安心して協力する。なぜなら、豊臣政権の苛酷な、戦争好きの政治には、みなあきあきしているから、民衆は解放軍にしたがうであろう。旅を行くがごとく、津軽の外ケ浜まで一挙に行ける、と教えるんです。