この場所が街の形をやめてから、どれくらい経つだろうか。夕陽を浴びて輝くビル群は瓦礫と化し、俺と同じ無価値な存在に成り下がっていた。
「これで何体目だ」
 ぬるい風に吹かれながら、ぽつりと呟いた。
 肉塊を地面に叩きつけると、亀裂に染み付くように血の絨毯が広がっていく。弱者を踏みにじる嗜虐的な快感と、復讐の悦楽。同時に湧き上がる寂寥と慙愧が、心臓を握り潰そうとする。
 やめろ──もう、何も思い出すな。
「オニイチャン」
 コンクリートの岩陰から姿を現したのは、美しい少女だった。
 端正な童顔。華奢な体躯。白い肌に張り付く亜麻色の髪が、暮れかけた陽の光を浴びて琥珀めいた輝きを放つ。一糸纏わぬ姿のそれは、エメラルドの瞳を怯えるように震わせながら、一歩一歩近づいてくる。
 俺が動かずにいると、左腕を抱え込むように掴み取りながら、大きく口を開く。その細い首に右手を添え、愛おしく撫でるように喉仏を潰した。
 「んゥッ!?」
 あどけない顔が戦慄に歪む。抗おうとするが、俺は左手を上げ宝石のような瞳めがけて、二本の指を突き入れた。
「ん──グゥっ!?」
 破れた眼球から、血の混じった液漿が迸る。
「オ……オニイ……チャ……」
 桜色の唇が漏らしたのは、それが最後だった。俺は両腕に力を込め、少女の頭部を胴からちぎり取った。
 二つになった肉塊を無造作に投げ捨てる。小さい方の塊が何かを訴えかけるように、唇を震わせる。
 そして大きい方は、失った頭部を求めるかのように両手を地面に這わせながら、両の脚で立ち上がろうとしていた。
 それを見た瞬間、俺は怒りに我を忘れ再び襲いかかった。背中を踏み砕き、腹を蹴り破り、脚を掴んで引き裂く。肉片が赤い汚泥になるまで、踏みにじった。
「クソッ」
 考えるな、考えるな。眼をつぶり、脳内に渦巻く狂気を必死で追い出そうとする。沈黙を破ったのは、背中から聞こえてきた囁き声だった。
「オニイチャン」
 振り返ると、先ほどと同じ姿の少女が立っていた。俺は右手を振りかぶり、少女のこめかみへと拳を叩き付けた。
 パンッ、という軽い破砕音とともに頭部が消し飛ぶ。だが身体は動きを止めることなく両手を伸ばして抱き付こうとしてくる。それを蹴り倒し、コンクリート塊で潰した。
「ああ……腹減った」
 肉片の一つを摘まみ上げ、口に放り込む。噛み締めると鉄のような味がした。
                      *
 その日、世界中の空に正体不明の物体が現れた。
 形状は黒いラグビーボールのようで、大きさは100mほど。数は数万に及んだ。
 物体は、数日にわたって世界各地を飛び回り人類をパニックに陥れた後、飛来した時と同様忽然と姿を消した。
 この事象に対し人々は政治家や科学者に説明を求めたが、むろん答えなどあるはずがない。何事もない日々が過ぎ、世界が恐慌から立ち直りかけた頃、真の恐怖が始まった。
 世界中の街の物蔭、森の奥、海辺から、少女の形をした何かが一斉に湧き出してきたのだ。
 初めてそれを見つけたのは、買い物途中の婦人だった。彼女はあどけない容姿の少女が全裸で立ち尽くしているのを見て、慌てて駆け寄った。むろん、まぎれもない善意からだ。
 だが少女を保護しようと抱きかかえた次の瞬間、桜色の唇が大きく開かれ自分の腕を噛みちぎったのを見て、その場で気を失った。
 彼女は幸いだった。なぜなら、自分が少女の形をしたそれに骨まで食い尽くされるのを、最後まで知らずに済んだからだ。
 その後、その何かは群れをなして世界中をむさぼり尽くした。人々はその残虐な行為よりもむしろ、あどけない容姿に恐怖した。
 体は小さく、腕力もさほどではない。だが咀嚼力だけは、鋼鉄をも噛み破る超常の力を発揮した。
 純真無垢な姿で散歩でもするように歩き回り、視界に入る全てのものに牙を立てる。相手は生き物に限らず、自動車や機械、建築物にまで及んだ。
 殴れば倒れる。斬れば傷付く。だが死ぬことはなく、腕を捥いでも頭を潰しても、形あるかぎりそれは蠢き続けた。そして倒しても倒しても、物蔭から無限に湧き出し続けたのだ。
 呼びかけても反応はない。鈴の音のように響く「オニイチャン」という声に、意味はなかった。
 人々は戦ったが、やがて飢えと疲れと無垢な少女を壊し続ける狂気に負け、倒れ伏した。残ったのは、更なる狂気を宿した一部の者のみだった。
                      *
「オニイチャン……」
 物陰から、声が響く。
「オニイチャン……」「オニイチャン……」「オニイチャン」「オニイチャン」
 次々と姿を現すそれに囲まれながら、俺は溜め息をつく。
「いつまで続ければいいんだ」