わたしはテレビを見た。この店はそんなしゃれた店ではないから、テレビもある。チャンネルはいつもNHKだった。大相撲をやっていた。
「いまは夏場所だっけ?」
 娘もお客はわたし一人で、常連なので気をぬいていたのかテレビを見ていた。
「ええ、そうですよ」
「そりゃ、暑くなるわけだ」
 娘はなにか思い出したようだ。
「あれ、先生、この時期は毎年、忙しいと言っていたような」
 私は苦笑した。
「もう、退官して何年だよ。いまはカルチャーセンターで講師。ありゃ、大学の新学期ほど忙しくないからさ」
「あら、先生の講義が聴けるなら、わたしもおとうさんと通おうかしら」
「おいおい、店を閉められちゃ困るよ」
 娘の雰囲気が変わった。店主が厨房から出てきた。
「先生、まいど」
 店主はわたしより10歳から15歳くらい上だ。厨房にいることが多かったが、手が空くとテレビを見るために厨房から出ることもあった。
「どうも。今日もお酒、おいしいよ」
「ありがとうございます。実は、店をたたむんですよ」
「え、また、どうして?」
「先生の家のあたりでも噂はあると思うんですけど、ここ、マンションになるんです」
 妻から夕食の時に話を聞いた。駅前にタワーマンションが建設されると。
「あの話か。しかし、二階に大将は住んでいるよね?どうすんの?」
「いや、土地提供者に部屋は用意されるので、そこに引っ越します」
「店は?」
「そこなんですよね。うちはかあちゃんがいなくなってからふたりだときつくてね」
 そうだ、前は大将、大将の奥さん、娘の三人で切り盛りしていた。奥さんがなくなったのは、わたしが退官してから1年後だったか。もう、2年か。
「ただ、先生みたいな古くからのお客さんがいらっしゃるので、昔の酒屋みたいな角打ちをやろうかと」
「いいじゃない。大将は酒の目利きができるし」
「ええ、それもいいかなと。まぁ、街が変わるなら、わたしも変わらないといけないと思いまして。ひとつ、酒の目利きだけで勝負しようかと。負けたところでマンションを売ればどうにかなりますし」

 わたしは店を後にした。大将が変わる。わたしもカルチャーセンターの講師などくだらないと言ってくさっていないで、新しいことにチャレンジしてみるか。
 書店に入り、最新の哲学書がないか探してみた。若いころの思想を選ぶセンスはまだ衰えていないはずだ。