0001創る名無しに見る名無し
2022/08/02(火) 09:52:36.44ID:ng6eJtTe背後で腹にひびく大きな音がした。周囲がざわつき始めた。
壇上の無敵の人A氏は応援演説をやめて、ゆっくりと左回りに上体をひねって後ろを振り向いた。その瞬間A氏の目と、車道上の無敵の人Yの目が、生涯で初めて会い、そして見つめ合った。ほんの1秒もないわずかな時間だった。
Yには既に標的に対する憎しみはなく、必中の意志のみがあった。歩みを止め、しっかりと立ったYの目の中に、自分に向けられた尋常ならざる意志を見て取った壇上のA氏は、身をひるがえそうした瞬間、Yの手にした黒い物の底から吹き出す、メロンの玉ほどの大きさのオレンジ色の閃光を見た。胸に激痛が走るのと同時だった。白い煙が押し寄せ、火薬の匂いがした。「なぜだ!」それがA氏の脳が、急激に低下する血圧の中で、彼の意識に送り込んだ最後の感情であった。
数十秒後、二人とも灼熱の太陽に焼かれたアスファルトの上に仰向けに横たわっていた。どちらも最早無敵の人ではなかった。ひとりは瀕死の重傷者、いや遺体として、そしてもうひとりは警官に押さえつけられた殺人の容疑者として。
候補者のスピーカーががなり立てていた。
「お助け下さい!お助け下さい!この中に看護師はいらっしゃいませんか?お助け下さい!」
Yはぼんやりと考えていた。
「お助け下さい、って誰に言っているんだよ。誰が助けてくれるんだよ。俺には、誰も助けてくれくヤツはいなかった、20年間。ひとりも。一度も。」
パトカーが動き出し、エアコンの涼しい風がYの頬を撫でた。パトカーの無線が本部と慌ただしくやり取りするのが聞こえていたが、そんなことはもうどうでもよかった。A氏が大勢に取り囲まれて、心臓マッサージを受けているのが、動く車の窓からチラリと見えた。Yには、A氏が既にこと切れているのが、なぜかハッキリとわかった。あれほど長い時間が立ったのに、まだ正午前だった。Yは肩で大きく安堵の息をついた。
取り調べ室でのYは極めて素直だという。Aを狙った理由を、Aが宗教団体Tの宣伝に加担し、また何代か前からの歴史的因縁があったからだと供述した。教団の教祖を狙うことの物理的困難さに対する、次善の策だとも言った。
Yは政治的にはAに反対ではなく、むしろ近かったし、Aの人となりについても、一定の評価をしていた。特に注目されるのは、Aに子どもがあったなら襲撃していない、と述べたことである。Yの行為にはY一家と、その他大勢の教団被害者の恨みを晴らすという意味合いがあったが、もし仮にAに子どもがあったなら、彼自身がその連鎖の中に組み込まれてしまうからではなかったか、と解釈されている。
(これはフィクションであり、いかなる実在の人物ともなんの関係もありません。また、いかなる暴力をも肯定するものではありません。)