そこで彼は胸ポケットから煙草を取り出し、その箱をこちらに差し出して来た。俺はそこから一本拝借する。
「スパイ天国日本、万歳だ。この国にもテロリストになり得るスパイは何百人もいるだろうぜ」
自らの煙草の先に火を点けて、主神は投げやりにそう吐き出した。
「俺らには関係のない話だ。考えるだけ時間の無駄さ」
「本当にそうか?ひょっとしたら、俺だって某国のスパイかもしれないぜ」
「その某国は、余程の人材不足なんだろうな」
「それでいい。スパイがスパイですって顔してたら商売にならないからな」
そう言った彼は、夜風に煙草の煙を吹き付けた。
「妄想は終わりか?」
「いや、もうひとつ。実はこの街にいるスパイを一人知ってるんだ。そいつのコードネームはマグス。映画みだいだろ?」
彼のアルカイックな笑顔が戻って来た。
「そりゃ、映画化しても三流だな」
「それと、実は明日から海外へ赴任する事になったんだ。暫くこちらへは戻れそうにない」
「はいはい、もういいよ」
「いや、これは本当だ」
滅多に見せない真剣な彼の表情から、どうやら冗談ではないらしい。
「何故、そんな大切な事を最後に話すんだよ」
「永遠の別れになるわけでもないからな」
あっけらかんとそう答えた主神に、俺は少し苛立ちを感じていた。
「とりあえず、新しいメルアドだけは教えておくよ」
そう言って、彼は煙草の箱から一枚の紙片を取り出して俺に渡して来た。受け取ってそれを開いてみると、そこには英数字の羅列と最後にSUGAMIと書かれてあった。
「なんでローマ字なんだよ?」
「そこを突っ込むか?これから海外だからな。今から練習さ」
「練習する程のことか?」
その言葉を聞いた主神は苦笑いで応えて来た。勿論、その苦笑いでさえアルカイックに。
「見送りはいらない」
「行くかよ。とにかく、帰って来る時は土産は忘れるな」
「気を付けて行って来いとか、優しい言葉は言えないのか?」
「そうそう簡単に死ぬ奴じゃないだろう?お前は」
不思議と寂しさはない。この男はきっと、忘れた頃にまた飄々と現れるに決まっているから。それからいつものように軽く挨拶を交わしただけで、それそれの家路についた。

数週間後。テレビの報道番組は、海外のとある都市で起こった連続爆破テロのニュースがトップを独占していた。どのチャンネルを選んでも、テロの惨状が映し出されている。
その画面の中に主神に良く似た風貌の男を見つけて、俺は思わずテレビの前へと駆け寄っていた。一瞬ではあったが、彼によく似ていたのだ。
真偽を確かめるべく、俺は彼から受け取った紙片を思い出し、それをバッグから取り出した。だが、そこで初めてひとつの小さな異変に気が付いて、俺は目を見開いていた。

SUGAM.I

MとIの間に、明らかに意図的な点が打たれてある。その意図を直ぐに理解した時、瞬時に全身に鳥肌が立つのを感じた。
簡単すぎるアナグラム。
「笑えない冗談だな……」
この世界のどこかでは、今も誰かが戦争で命を落としている。そして、その戦争を仕組んでいる人間もいる。俺たちの側に、そんな奴らはいて、知らず知らずのうちに俺たちは手を貸しているのかもしれない。
それでも俺の日常は変わらない。
ただ、世の中は逆から読めば謎が解ける事もあることだけは学んだ。