それではこの物語の酷評お願い致します。

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「過ち」

人は時に大きな過ちを犯す。
人生は小さな選択の積み重ねで形作られる。人生という大海原で人が良からぬ方向に舵を切る場合を「過ち」と言う。人は過ちを回避できるのか?
回避できないとすれば、本人以外の人間が過ちを咎める権利があるのか? ほとんどの場合、人は無意識のうちに選択をしてその方向に踏み出していく。過ちを犯し、過ちを隠すためにまた過ちを犯す。
そうなると人は海の中で遭難してしまう。例えば物騒な話し、人を殺してしまった人がいるとしよう。最後の最後に相手の背後からナイフを思いっきり脇腹に突き刺してしまう。
血がどのように流れるのか、炭酸飲料がスチール缶から吹き上がるように血飛沫が上がってしまうのか、全く想像が付かない。あるいは首をロープで巻きつけて締め上げる。人が意識を失う瞬間に立ち会ったこともないが、
汚物がいっきにズボンの下から流れ出てしまうとか。そんなシーンに行き着くまでにはいくつもの選択肢があった筈だ。
人間の情感は、恐らく殺意を覚えたら最後のシーンに至るまで突っ走って暴走しまうくらい捉われてしまうものなのだろう。ただ、そんなところに至るまでに、いくつもの場面でそれを回避することが可能だったのどはないか?
それともそうではなくて、運命は決まっていたのか、全くわからない。
視点を変えてみよう。「過ち」とは、人生の大意である、とする仮説を立ててみる。例えば、私は殺人を起こさない。今まで殺人を起こさなかったからこれからも起こさないという保証はない。
しかし、私はこれからも人を殺すこともなく人に殺されることもないだろう。何故なら、そういう意識構造の上に成り立っているから。
この仮説の根拠は、と訊かれても特にはない。ただ一つ私には狼の血ばかりつまはなく羊の血も混じっているからだ、というのが一応の答えになる。
コップに水がいっぱいになる。そして、そのまま水を注いでいくと水が溢れる。コップはどんな形状や大きさでもいい。
殺人というコップに注がれた水はやがてその体積分埋め尽くすと、勢いよく溢れ出て殺人という行為に至る。