>>771

不用心な語の選択が目につくが、単純な誤記にしか見えない場所は省く

>妻の、人外のものでも見るかのような視線に耐えられず、私は言い訳するように言った。

一文の中で直喩(「ような」「ように」)が連続していてうるさい
比喩は、作者のイメージを読者に送り込み、作品に没入させる道具だが、
語り下手と見える用法をされると逆に読者を白けさせる
評論家界隈では、工夫の見られない直喩は使っているだけで減点対象、とまで断じられている
その是非はともかく注意を払って損はない

>喉元過ぎれば熱さを忘れる、そんな言葉がある。(中略)その無力感への抵抗が無関心という態度なのかもしれない。
>「気のせい」で二足歩行を捨てるほど、人間の尊厳は軽くはない。(中略)全くもって無関心を決め込められる私の腰痛が、何だか気の毒に思えた。

この二つは無用に長い
こうまでしてテンポを殺すことに意味はあるのか

>なにしろ「気のせい」から、腰痛の上級種「ヘルニア」に進化したのである。上出来といわざるを得ないだろう。

個人的に一番楽しかった部分

全体
自虐的なユーモアの発光を感じた
以前より会話が生きたものになった

気になったのは、ところどころで起こる語りの転調
つまり、

>ひとの「痛み」に対しこうも冷淡でいられるのか

上記一文に関連して差し込まれる、論考じみた筆致形式の文量が多く、
読者の読みのモードが硬軟と切り替えさせられる、その不親切を感じた
作者の筆が乗ったのかもしれないが、こうした「脱線」は言い方を変えれば自己満足の類であって、展開のリズムを殺す上、別種の楽しみ方がミックスされて話を無用に分化させる
習作だとしても、読者に見せる前に枝打ちする癖があっていいだろう

ただ粗さの中に、あちらこちらと枝を伸ばしている勢いがある
勢いを保って得意な筆致形式を模索しつつ、語りを戦略的に構築するといい