救急隊員が朱川を担架で運び出すのを、鈴子は花代のデスクのそばで見送っていた。朱川は意識はないものの、息はあるようだ。
「朱川さん、大丈夫ですかね?」
 鈴子は誰にともなく言った。答える声はなかった。
「口から吐いていたものを見たか?」
 ややあって花代が言った。さすがにいくぶん顔が青ざめている。
「緑色の泡でしたね」
 鈴子が花代を見つめた。
「あんなものは初めて見ましたねぇ。いったいどういうことでしょうか」
 そう言うと、欅道は朱川が倒れていた場所に歩いていった。まだフロアはそのままで、朱川の口からこぼれたものが残っている。鈴子らも欅道のあとをついていった。
 欅道は泡の痕のそばにしゃがむと、顔を近づけた。
「む、アーモンドの香りがします」
「アーモンド!?」
 鈴子は思わず声を上げた。こういう状況でアーモンドの香りといえば、青酸カリだろう。殺人未遂事件か!? このまま朱川が帰らぬ人になってしまえば――。
 ん、待てよ? と鈴子は振り返り、そこにナッツを噛み砕く桃ちゃんを発見した。手に持った袋にはまぎれもなくアーモンドの文字。
 においの正体はこれか!
「桃ちゃぁん、ややこしいこと、しないでよぅ」
「え、なにが?」
 桃ちゃんはきょとんとした顔で言った。
「んーん、なんでもない」
 鈴子はこっそりため息をつくと、
「アーモンド臭は事件と無関係です」
 と欅道に向きなおった。
「そっか」
 欅道は気にした様子もなく立ち上がると、朱川のデスクの上に目をやった。
「しかし、これは病気で倒れたというわけではなさそうです」
 欅道はくるりと鈴子らに体を向けた。
「これは殺人事件です」
 再びオフィスに緊張が張りつめた。
「ま――」
 鈴子は喘ぐように声を出した。
「――まだ死んでいません」
「まだ≠ニか言うな」
 花代が鈴子に体をぶつけた。
「あ、すみません! 朱川さんは死んだりしません!」
 いくら嫌な相手だといっても、死ねばいいとは思ったことはないことはないにしても、死んでいいという法はない。
「朱川さんというんですか。まあ生死は問題ではありません」
 いやいやあるだろう、と心のなかでツッコんだのはひとりやふたりではなかったが、誰も言葉にすることはなかった。
 欅道は朱川のデスクに歩みより、そこに置かれた白いマグカップを上から覗き込んだ。
「これが緑の泡の正体ですね」
 床の泡を踏まないように鈴子らはデスクに近寄り、同じようにマグカップをのぞき見る。そこには緑色の液体が入っていた。なんだかどろっとしているようで、カップのふちから二センチほどのところまで満たされている。その上一センチほどまで入っていたように、うっすらと緑色の痕があった。ふちの一カ所が汚れているのは飲んだからだろう。
「なんだこりゃ」
 花代が言った。野菜ジュースにしてはとろみがあり過ぎるようだ。
「あ、それは十日ほど前から持ってくるようになった、なんでも彼女の手製の飲み物のようです」
 朱川の隣の席の、近づこうとして止められた若い男性編集者がおそるおそる近づいてきて言った。田所という名前だ。
「彼女ですか。どんな方かご存じですか?」
 欅道が言った。
「いえ――そう言えば、はっきり彼女とは言ってなかったかな? なんとなくそう仄めかすような言い方だったかも」
「ふむ」
 欅道は考えこむようにこぶしを顎に当てた。
「これはいったいなんなんですか?」
 鈴子が田所に言った。田所は短く切ったくせっ毛をごしごしと撫でつけながら、
「たしか、野菜と海草と梅干しだったかな」
「うえ、まずそう」
 と言ったのは桃ちゃんである。鈴子と花代も顔をしかめた。