黒豹出版は、東京都○○区に八階建ての本社ビルを構える中堅出版社である。本社ビルといえば聞こえはいいが、竣工からかなりの年数が経っており、鈴子などは出社の折にそのビルを見上げては、
「やっぱりちょっと傾いてる気がするなぁ」
 とつぶやくのが常だった。鈴子の配属されている文芸部は六階にある。
 黒豹出版では年に一度、一般から広く小説を募集する新人賞を設けていた。有望な作家を発掘するためである。つい先日、その募集が締め切られ、選考作業に入っていた。
 鈴子ら若手編集者は、その一次選考の下読みという作業に当てられていた。応募作品を読み、いいと思った作品を次の選考段階へと送るのである。実力のある新人を発掘するとともに、力のおよばない者には引導を渡すことになる。楽しくもあり、また辛くもある仕事だった。
「これ、退屈であくびが出るよ、ふあーあ。あ、あくびしたら涙が出てしまった」
 花代はわざとらしく言うと、ティッシュで両目を拭った。めんどくさい男である。
「で、どうするんだ、それ?」
 そのティッシュで鼻を拭ってゴミ箱へ放った。
「うーん」
 鈴子は花代から受け取った応募作を両手にうつむいた。
 文章でいえば即アウトである。鈴子と花代、ふたりの文章のプロが脳内補正しながらやっと読み解いて内容を理解したのだ。しかし、その内容は素晴らしい。花代と鈴子の涙がそれを証明していた。
 ある程度の瑕疵ならば校正、書き直しを経て出版にこぎつけることは可能である。だが、この文章はどうか。ある程度どころではないのだ。編集者らが一言一句ああしろこうしろと言ってそれなりのものにすることはできるだろうが、それでは作品はこの作者のものではなくなってしまう。
 ちょっと前なら編集者自身が手を入れることもあっただろうが、今は時代が違う。少なくとも黒豹出版ではそうだ。この作者は書き直せるだろうか?
 鈴子は答えを出しかねていた。
「こんにちは」
 おだやかな声に鈴子は顔を上げた。にこやかに微笑む若い男がすぐそばに立っていた。鈴子よりはるかに若い。
「阿々楠《ああくす》くん」
 早熟の天才作家、阿々楠先生である。ふたりは担当していないが花代と馬が合い、よく訪ねてくる。すでに中ヒットを二本飛ばしていて、いずれ大当たりがくるとふたりは踏んでいた。作品もいいし、若いうえになかなかのイケメンなのだ。営業部に活を入れなければ、と普段花代は息巻いている。
「ごるぁ! 先生をつかまえて君付けとはなんだ!」
 花代が丸めた誰かの校正ゲラを振り上げた。
「あっ、す、すみません!」
 鈴子が体をすくめて花代のデスクからさっと離れた。
「や、やめてくださいよ、先生なんて。君付けで結構です」
 阿々楠先生は面映ゆそうな顔で言うと、ふたりの間に割って入った。
「いや、そういうわけには――」
「ところで花代さん、なんで泣いているんです?」
「泣いてねーし」
 先生にずいぶんな言いようであった。
「あ、これです。新人賞の応募作」
 鈴子がその作品を鼻まで掲げて阿々楠先生に示した。
「へー! そんなにいいものが送られて来たんですか!」
 目を輝かせる阿々楠先生の言葉に、ふたりはなんともいえない微妙な顔をした。
「読ませてもらえませんか?」
「えーと」
 鈴子が花代の顔を見ると、花代は小さく頷いてみせた。
「ではここ以外には持ち出し禁止でお願いしますね。パクったりしないでくださいよ」
 鈴子の果てしなく失礼な言葉に花代は一瞬にして青ざめた。しかし、当の阿々楠先生は気にした風もなく、もちろんです、とにこにこしている。
 壁際にあるミーティングテーブルに阿々楠先生を案内しかけた鈴子は、花代のデスクにあるティッシュの箱をひょいと取りあげた。
「あ、おい」
「いいじゃないですか、減るもんじゃなし」
「いや、減るし」
 花代の言葉を無視して阿々楠先生を案内し、鈴子は給湯室に行った。コーヒーメーカーのポットを嗅いで煮詰まっているのを確認すると、ドリッパーで新しくコーヒーを淹れ、阿々楠先生の元へ持っていった。
「あ、どうも……」
 いくらか読み進めたらしい阿々楠先生は困った顔をして鈴子を見上げた。文章のひどさに戸惑っているのだ。
「あの……」
「大丈夫です」
 鈴子は力強く頷いた。読めばわかる、という意味である。
「あ、そういえば阿々楠先生は、今日はどういう用むきでこちらへ?」
「ああ、次回作の打ち合わせに」
 そう言った阿々楠先生の顔はどこか憂いを含んでいるようだった。