あなたの文章真面目に酷評します Part107
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前スレ
あなたの文章真面目に酷評します Part106
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まとめwiki
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■次スレ
スレッド容量が480KBを超えたら投稿を控えて次スレを立ててください。そうでない場合は>>980を踏んだ人がスレを立ててください。 >>113
基本として一人称より客観的に書ける利点があると思うんです。
でも下手すると一人称と三人称がごちゃ混ぜになって、
書き手は理解していても
読者にとっては、この心情は誰の心情?みたいなことになりがちなので注意が必要ですね。 >>112 >>114
ちゃんと描きわけができている場合、
三人称一元視点は一人称の「私」を人物名に置き換えただけにはならないということ?
たしかに、時制が現在の場合、一人称と三人称一元視点では背景描写の鮮明さに差が出るかも
>もっと簡単に言うと、一人称は真実を書き進め、三人称では事実を書いていくということなんですが、わかりますか?
それはわかってるので大丈夫よ >三人称一元視点は一人称の「私」を人物名に置き換えただけにはならないということ?
ならないというより、人称で混乱させないように書く必要があるってことです。 >>118
>人称で混乱させないように書く必要があるってことです。
それは大前提として、その上で、一人称と三人称一元視点との間に、描写の仕方、又は、読者に与える心象に差があるかという疑問なのだけど なので文章のニュアンスをうまく描写できない人は
まず、一人称、三人称で統一して書くと決めて書き分けたほうが無難なんです。
それに本来は一人称は難しいもので、三人称のほうが書きやすいんですが
ブログとかの延長なのか、なぜか一人称で作品を書く人が多いようで……。
書き手の”思い”とは裏腹に、一人称や三人称一元視点にして書くと
読む側は「?」が入るところが出てきて
失敗しやすいと思いますよ。
書き手は、どこが失敗してるかすら気づかないことも…… >>121
前スレでも、こういう文章の書き方関連質問雑談はアリだったような気がするのだけど?
創作ノートは>>1の思想と合わないので遠慮する 「小春日和の気分のいい天気だった。しかし僕の心は晴れなかった。」
例えば、これ、一人称だと、僕の心は晴れてないのに
気分のいいと思ったのは誰よ?となる。
そこで三人称一元視点で書くなら
「人々にとって今日は小春日和のすがすがしい天気なのだが、しかし太郎の心は晴れなかった。」
みたいな。 了解、これで終わります。
あとは、誰かが載せる文章に誰かが評レスをする普通のスレタイ通りの展開に戻しましょう。 >>123
確かに、その場合、「僕」を「太郎」にまんま直しちゃダメだね。
人称の混雑に注意が必要って言っていたのはそういう話ね。
それらミスがない上で、>>119はどう思う?
とききたかったけど、
雑談終了なら合わせます。 ちなみに、私は創作文芸板のほうで”私さん”と呼ばれてた人です。
つい、熱くなってしまい、上から目線で偉そうに語ってしまってて、ごめんなさい。
パシュートで仲間を置き去りにしたキム選手の心境、……かな?
兎に角、読者の立場になって感情移入しやすい文章にしようと心がければ
自然と、体感的に、いい文章が書ける結果になると思うのでお互い頑張りませうw ここで勉強させて頂いている一人として、
ここが無くなるのは寂しいので燃料を投下します。
大昔、厨二病全開だった頃に書いていたサイキックホラー?の一部です。今、書いているものに取り入れたいので、酷評よろしくお願いします。
羽流(はねる)→色紙を使う符術師
景雲→祓屋
その1
それは静かな午後だった。
聞こえてくるのは風にそよぐ木々の葉の僅かな揺らぎのみ。
参道へと続く階段の中程に座り、誰を待つと言うわけでもなく、淡い薄緑色の着物姿の女は小さな鶴を折っていた。
その脇には、様々な色紙で折られた鶴が無造作に置かれてある。
どれ程の時をここで過ごしているのか。
木々の葉を揺らした風が、鶴たちを通り抜けた時、階段を上がる男が視界に入って来た。
自らをを見上げるその男の顔は、陽射しのためか目を細めているものの敵意のあるものではない。
男はそのうち階段をひとつ踏み外して、右側によろけた。
その姿に、女は笑みを浮かべた。よく分からない男だ。
「こんにちは。羽流さん」
男が女の名を呼んだ。
「景雲さん……でしたかしら?」
「はい。先日はお騒がせしまして、申し訳ありませんでした」
「あら、貴方が謝る事でもないでしょうに」
そう言うと、羽流はゆっくりと立ち上がった。
「嵯峨見は留守にしておりますが」
「そうでしょう。お忙しい人でしょうから。それより、今日は貴女自身にお尋ねしたい事がありまして」
「あら、何かしら?」
当然、嵯峨見や春香の件について聞いてくるものと身構えていただけに、少し拍子抜けしてしまった。
「色を織り交ぜた符術と言うのは珍しい。私が知っている限りでは、これまでに一人しか知らない」
「ただのお遊びみたいなものですよ」
そう言いながら、羽流は再び笑みを浮かべた。
「貴女は何故、ここを護っているんですか?護るべきものは、もうこの神社には無いんじゃありませんか?」
景雲は階段に置かれた幾つかの折鶴のうちのひとつを手に取り、羽流に背を向けて階段に座った。
「そうだとしても……結果的に護る事になるのよ。もう、お分かりなんじゃありません?」
「やはり、そうでしたか」
景雲は左の手の平に乗せた折鶴を空にかざした。穏やかに青く澄んだ空に、何かを見ているかの様に。
「貴方は何者なの?」
不意に羽流が問いかけた。
「私ですか?そうですねぇ……狐と狸の化かし合いに巻き込まれた猫みたいなもんですかねぇ……」
「あら、猫さんだったの?じゃあ化け猫さんね」
「厳しいですね。化け猫なんて」
「他人を狐呼ばわりするからですよ」
「いえいえ、どちらかと言うと羽流さんは狸の方だと思います」
「まぁ、狸の方だったの」
そう言うと、羽流は笑顔を見せた。 その2
「貴女が冗談を解する人で良かった。ところで、熊さんのお知り合いはいますか?」
その景雲の意味深な問いの真意を探るべく、景雲の視線を追って羽流が振り返る。
すると階段を六段ほど上がったところに、茶色の熊のぬいぐるみが置かれていた。
「いつの間に……」
「この熊さんは、少しばかり厄介ですよ。気を付けた方がいい」
「化け猫さんはお手伝いしてくれるのかしら?」
「私みたいなので良ければ」
「千人力よ。助かるわ」
羽流がそう言い終わると同時に、突風が二人に襲いかかった。
足下の折鶴は高く舞い上げられ、二人の間を縫うように、熊のぬいぐるみが階下へと弾みながら転げ落ちて行く。
しかし、それを受け止めた二つの白い腕があった。
その腕の主たる女の腰まで伸びる長い髪は風に乱れ、表情までは読み取れない。
しかし、全身から発せられる殺気がその意思を二人に届けた。
「許さんですよ」
女の声が響く。すると周囲の空間が波打ち出し、その波が階段を駆け上がり出した。
「幻覚です。呼吸を整えて」
景雲の言葉と同時に、二人はその空間の波に飲み込まれる。一瞬の浮遊感覚の後、何事もなかったかの様に周囲が静寂に包まれた。
だが、あの女がいない。その姿が消えていた。
立ち尽くす二人は、女の気配を探り出した。このまま引き下がるわけはない。
「だるまさんが……」
背後からあの女の声がした。反射的に振り返った景雲の額を、女の白い手が鷲掴みする。
「転んだ……」
その一声と共に、景雲は凄まじい力で投げ飛ばされていた。 冒頭の部分でもう少し風情ある描写(あくまで説明的にならないようにして、臭覚、色覚等に訴えるようにして)
を交えたほうが、つかみとして世界観に自然と入っていきやすいかと思った。
やってるけど導入として弱いと思う。 >>129
ありがとうございます!
説明にならないように訴える描写ですね。
もう少し手を加えてみます。 >>127
投稿内容そのものが、描かれていない前段の話に依拠している
そのため違和感はあるもミスか仕様か、不明な部分多し
>「私ですか?そうですねぇ……狐と狸の化かし合いに巻き込まれた猫みたいなもんですかねぇ……」
>「あら、猫さんだったの?じゃあ化け猫さんね」
>「厳しいですね。化け猫なんて」
>「他人を狐呼ばわりするからですよ」
>「いえいえ、どちらかと言うと羽流さんは狸の方だと思います」
>「まぁ、狸の方だったの」
>そう言うと、羽流は笑顔を見せた。
揚げ足の取り合いがぎこちない
景雲が羽流を狐、狸など野生動物に喩え
自分の方は愛玩動物の猫になぞらえて、化け猫と言われれば即厳しいと返す
最後には羽流を狸の方だと言い放つ
二人はほぼ初対面に近い
ふつう女は、ほぼ初対面の男にこれほどの鈍感さがあれば心の中で冷笑、嫌悪するから、これで打ち解けていく展開は強引に感じる
話がギャグならリアリズムの欠如を緩和できなくもないが、当該対話に至るまでは静的な展開で漢語も多く使われている
想定読者と供給の問題がありそう
>「この熊さんは、少しばかり厄介ですよ。気を付けた方がいい」
>「化け猫さんはお手伝いしてくれるのかしら?」
>「私みたいなので良ければ」
>「千人力よ。助かるわ」
力関係がよく分からんので危機感が伝わらず、なぜ羽流が助力を乞うのか分からない
景雲が熊の力量を教え、羽流が助力に感謝する前に、
熊がどこまで危険なのか読者に対して具体的説明が必要では
探偵のやつといい、物語都合に対話を合わせてあまりフォローしないクセを感じること多し >>132
なるほど納得です。
書きかけて放置したものから、一部を抜粋したので違和感ありありですよね。
後は、読者へのフォロー。
自分勝手に書き過ぎなのは同意です。
自分でも久しぶりに読んでみて、何が何やら状態でしてから。 >>127
このテキストを何度も何度も読み直してみた。
なんかどうもヘンだな、と感じていたのだが、しかし特に何処かが間違っているというわけでもなさそうだ。
というのが結論w >>127
結局、これは伝奇小説の一種だからもっと簡単な書き方でいいのではないかな。
という気がする。
まあ自由に書いて、自由に読めばいい時代だけどねw >>127
書き出しは、ドローンを飛ばして見た全景みたいな描写になってるよね。
映画の出だしみたいに。
この作者はこれが好きみたいだね。まあ映像イメージが豊かなんだろう。
きっと「カメラ」に映るイメージを追っているのだろう。
「カメラ」で撮っているイメージで書いていくわけだから、「視点」の移動もけっこう大胆にやっている。だからバトル・シーンみたいなのはスタイリッシュにかっこよく書けるわけだ。
で、あとはセリフ(or心理)で繋いでいけばいいという書き方になっている。
しかし、小説を書くということは、これだけで済むというわけではないよ。
もし作者が、自分の書くものについて、なにか漠然とした物足りなさを感じているとすれば……。
それはまだいろんな方法を使っていないからかもしれないよ。
だから、単に人称とか視点とか、「なろう」のテンプレみたいなことだけ聞き齧ってお茶を濁すのはもったいない。 >>127
>聞こえてくるのは風にそよぐ木々の葉の僅かな揺らぎのみ。
葉擦れならば耳に聞こえる。木々の葉が僅かに揺らいだ程度では音が感じられない。
揺らぎを抜き出せば分かると思うが意味に音は含まれていない。端正な一文ではあるが意味としてはぼんやりしている。
>参道へと続く階段の中程に座り、誰を待つと言うわけでもなく、淡い薄緑色の着物姿の女は小さな鶴を折っていた。
この一文は意味として分かる。何か読み難さのような物を覚えるのは並び順の悪さにあるように思う。
書かれた文章を分解して並び替えて見ると、その部分がはっきりと目に出来るだろう。
並び替えた一文
誰を待つと言うわけでもなく、参道へと続く階段の中程に座り、淡い薄緑色の着物姿の女は小さな鶴を折っていた。
主語と述語が離れる程に読み難さを覚える。このことはどのような文章にも当て嵌めることが出来るので覚えていて損はないだろう。
>自らをを見上げるその男の顔は、陽射しのためか目を細めているものの敵意のあるものではない。
この一文は人称が揺れているせいで意味を取り辛い。「自らをを」は凡ミスなのでいいとするが、
ここまでは三人称で書かれているように読めた。客観的な表現に徹するのであれば「女を見上げる」とした方がいいだろう。
>その姿に、女は笑みを浮かべた。よく分からない男だ。
女の笑みは俯瞰であればおかしくはない。後に続く「よく分からない男だ」の部分は羽流の主観に見える。
人称が揺れているように思えるので修正を勧める。
>当然、嵯峨見や春香の件について聞いてくるものと身構えていただけに、少し拍子抜けしてしまった。
この一文には女の心情が書かれているので客観には見えない。書き方に問題があると言える。
修正した一文
女は一瞬、意外そうな顔をする。当然、嵯峨見や春香の件について聞いてくるものと考えていた。
感嘆符の後に文章が続く時は全角の空白を入れた方がいい。
この文章の読み難さの原因は人称の揺らぎにある。
後は漢字の使い方、主語と述語の関係に留意すれば洗練された物になるだろう。
文芸サロンのスレッドで顔文字とエクスクラメーションマークを頻発する俺の意見だ。
邪魔した、これで失礼する。 >>127
ググっていたら、小説作法の金言に「小説の冒頭では描写はしない」というのがあったよ。
なぜなら描写には時間(つまり行数・字数)が必要だから。
読み手にはこの時間がダルいw
なので描写は後回しにして、なにかドキッとする文章を冒頭に置いたりするんだね。
ツカミはOK的な発想かな?
まあ、小説の書き出しをどうするかは作者の考え方ひとつだけど。
以上。
このスレにはもう酷評人はいないと考えた方がいいよ。
自分ももうやらないつもりだったけど、テキストが放置されているのは忍びないのでw
探偵&アイドル小説には期待しておりますよ。
でも、このあたりでちゃんと小説の書き方を習ったほうがいいと思います。
特に「話法」はあとあと尾をひくからね。
グッドラック! >階段を上がる男が視界に入って来た。
>自らをを見上げるその男の顔は、陽射しのためか目を細めているものの敵意のあるものではない。
視点の移動。羽流の視点で語り手(第一の語り手)の声。
>その姿に、女は笑みを浮かべた。よく分からない男だ。
よく分からない男だ=自由間接話法
話法的には間違いはないが、読みにくから、読者のなかには「へんな感じ」と思う人から出てくるんだよ。
だから、複雑なことせずに単純に語ったらどうか、という話。 >>138
>ググっていたら、小説作法の金言に「小説の冒頭では描写はしない」というのがあったよ。
>なぜなら描写には時間(つまり行数・字数)が必要だから。
>読み手にはこの時間がダルいwなので描写は後回しにして、
それは「描写」ってことの意味の認識の違いだわ。
画のない文字媒体では、「説明」は後回しでもいいが「描写」はしないと伝わりません読者に。 正しい正しくない以前に、読者の身になれるかってことだよな。
自分が書いた文章を読者として読んでみて、それを楽しめるかどうかだ。
本当にちゃんと書けていれば、自分の書いた文章でも十分楽しめる。 自分で頭から読んで心地良いかどうか?それを基準にすれば良い。
正しい文章だけではまだ不十分。
読んで快楽を得られる文章でないといけない。 >>141
>正しい正しくない以前に、読者の身になれるかってことだよな。
そうそう、その考えは正しい。
書き手が、いくら小ぎれいにそつなく文章書こうが、読者の心を動かすものが足りなかったり、
読者に書き手の意図したものがうまく伝わらないと、ただの凡作。
もっと言うなら、読み手が「この作家の描写は、この作家にしか書けないものがあるなあ」と思わせる独創性が欲しいね。 「この作家の描写は、この作家にしか書けないものがあるなあ」
まあ、そういう深みに嵌るとダメだよな。
独創性とかいうのは危険なワナ。
むしろ普通で良いと達観したところから独創性は生まれる。 >>143
そうやって読者と作者を分けていることがまずおかしい。
作者は、自分の作品の第一番目の読者なのだ。
その読者を満足させるために書けば良いだけだ。 >>145
>読者と作者を分けていることがまずおかしい。
>作者は、自分の作品の第一番目の読者なのだ。
まあ、アマチュアとして趣味で書きたいものを書きたいだけなら
あなたはあなた自身が満足するのを書き続ければいいんじゃないでしょうか?
でも、他人に、そのあなたが書きたいものがちゃんと伝わるかどうかは別にしてね。 >>146
自分は他人でもあるからちゃんと伝わる。
自分の中に最も有能で厳しい読者がいるからね。
それを満足させることは何よりも難しい。
アルチュール・ランボー「私とは一個の他者なのです」 このランボーの言葉が実感としてわからない人は、
真の意味で文学を理解することはない。 ごり押しの屁理屈はもういいから。
ランボーの言ってることとあなたの言ってることは全く別物だし。 あと、こう言えばわかるかな?
作者は、自分の作品の第一番目の読者・・・かもしれないが
読者は作者(その作品を書いた書き手)ではないってこと。
そういう考えで、俺が書いた作品は、読者としての俺がよく理解してるんだからこれでいいんだって自己満足してたんじゃ全然ダメ。 >>150
だったら貴方は何を基準に読者が満足する文章を書くんですか?
自分の中の読者を頼りにせずに。
私にはそれは不可能としか思えません。 単純な話だけど、読む側のことを考えて書くのは不可能と思う人は
そもそも商業作家になる才能がない、っていうだけのことじゃない? とっても単純明快な例を挙げる。
「友達が来た。僕の友達はバカ面だ。」
こう書いたとしよう。
これを書いた人は、どこに友達が来たのか、バカ面っていったいどんな顔なのか等々を頭の中で映像として浮かべて書いてるだろうが
読んだ人には何も伝わらない。それどころか、来たっていう友達とバカ面の友達ってのが同一人物かすら怪しくなってしまう。
さらには、それを、その書き手ならでは感性で表現できて書ければ、それが作家としての個性となりうる。
映像で伝えられない文字媒体なら、それらをちゃんと読者に伝わるように書けという単純な話。
それすら不可能なことなの? aさん、bさん、cさんの三人に、同じ課題を出して作品を書いてもらって
出来上がってきた作品が、それぞれ、それなりに文章もうまく書けていて
欠点らしきものもなく、読める内容になっていたとしても、
三人が三人とも、同じような描写や、似たり寄ったりのものを書いていたら、それは凡作でしかない。
作家というのは、他者がしないような発想や、まねのできない目の付け所で表現できていて、
この文章はこの人ならではの文章だなあと、そのうえで、読後に心に残る何かがあったと読者に思わせてこそ秀作であり、
それを書けてこそ作家。 ここは本当にどきりとするような指摘があるから勉強になる
自身の改善に役立ちます
晒したことはないけれどありがとう あと、それほど長文じゃない中で、安易に会話に頼るのはよしたほうがいいと思われ。
地の文で語って、どうしても会話入れないといけないところだけ、しかたなく入れるってくらいで
ちょうどいいバランスになると思われ。
映画監督がセリフをカットしていくようなのに似て
何を残して、何を省略するかで、読者に想像させる歓びを与えるのもまた作家のお仕事。 >>127
それとどう考えても、自分ならこの内容だと男を僕とかにして一人称で書いたほうがよくなりそうだと思うな。
わざわざ「男は、」ってしてる理由は何かあるの? 上でも仄めかしているのでトリップ付きで最後にアマチュア向けの方法論を書いておく。
>>154は一理あるもののアマが目指して良い類いの物ではない。高い目標は執筆の手を止める可能性がある。
>>156については作品の質による。ここに書かれているような作品も世には出ている。
ただし、それだけが至高とはならない。会話文を楽しむ形式の小説もある。
俺が角川で受賞した作品は会話の応酬が際立つ。それを念頭に置いて書いた物だった。
寸評ではその遣り取りが評価されて受賞に至ったとあった。作品に合わせて書き分けた方がいいという事例になるだろう。
自由間接話法や自由直接話法。他にも色々な視点が合わさって文体となる。
これらをどのように組み合わせて使うかは作者の考え方次第と言える。
神視点で話を進めたいのであれば使えばいい。ほとんどが会話文で埋められていても構わない。
段落を空けないで視点を変えることはあまり勧められないが、作者が必要と思うのならば挑戦すればいい。
このように書くとルールは無用に思えるが、たった一つだけ、守らないといけないことがある。
どのような技法を駆使して書いてもいいが、読者が違和感なく読めることが条件となる。
作品の内容よりも「この作品はこのような文体で書かれている」と言うことを
読者に伝えることが何よりも優先されると個人的には思っている。
男子高校生が主人公。朝の登校の場面から冒頭が始まるとする。
いつもの通学路を歩いてはいたがぼんやりする。頭の中と同じで目も少し霞んでいた。
そんな状態で空を見る。薄青い色が広がっていた。
このような書き出しならば読者は一人称と考え、その先も同じ文体が続くと思うだろう。
学生服を着た上原淳史は眠そうな顔で通学路を歩いていた。生欠伸が絶えない。
おもむろに空を見上げる。至って普通の青空を黙って眺めていた。
同じ場面であってもこのように描けば三人称に思える。
ここに色々と付け足すこともできる。読者に違和感を持たれないようにする必要はあるが。
学生服を着た上原淳史は眠そうな顔で通学路を歩いていた。生欠伸が絶えない。
おもむろに空を見上げる。青いな。その一言だけが心に浮かんだ。
長々と書いてきたが、俺の主張は二つ。
最初に文体を明かす。章毎に変えるとしても冒頭で読者にわかるように書く。
どのような文体でもいいが、読者が引っ掛からないで読めることがルールとなる。
この二つが守られた作品を書き上げることから全てが始まる。
基本無くして応用無し、が俺の考え方で他者にも勧められる方法論と思っている。
実際に俺が関わっているスレッドで受賞者を出している。書籍化まで到達した作者もいる。
試す価値はあるだろう。盲信は視野を狭めるので自身のアイデアを盛り込んでもいい。
これで俺の書き込みは最後とする。 >>127
映画的なカメラワークが難しそう。でも面白いんじゃないでしょうか。
この書き方は意識してらっしゃるんでしょう。
ぬいぐるみはスキルの一部?せっかく大胆に出てきているのに目立っていないけど……。
途中で語り部の疑問や判断が強めに入ってきて、独特な感じがしました。昔話風なんですね。
「どれ程の時をここで過ごしているのか。」とか、「敵意のあるものではない。」。 >>158
なるほど!実績に基づいた説得力のある論であった!
大変参考になる!
最後と言わずにたまには来て欲しい!
ワシの考え!(`・ω・´) 横スレの応酬があって、それが激しく一般論になって、
かんじんの投稿テキストが置き去りにされる、というw
そしてなんか「文芸自己啓発」論みたいな話になって終わるw
結局、いつもこうなるなーー。
でも、荒れた感じがなかったのは良かったよ。 >>127
細かい点でいえば、人称代名詞が1個もない、という特徴があるね。
それはまあ地の文のせいだけどw またジャンル的に固有名で通す、ということでもあるけど。
でも、結構、所有表現とか目的表現を省略してるよね。これも特徴的なことだね。
一方で、「それ」「その」だけは過剰なほど使われているね。これも特徴的なことだね。
多分、自然とこうなっているんだろうけど、一度、自分でもこのあたりを意識して文章を書いてみるといいよ。
自分の文体をつくる助けになるよ。 まあ作者はいちいちレスに返答することはないよw
なかにはデタラメ書いてあるのもあるから。
作者は自己責任で返答先を選ぼうね。
レスした相手のレベルが、あなたの作家としてのレベルだから。
面倒だったら、「みなさんアザーす」でもOK。 >>127
まあでもこうしたバトル作品を人気作に仕上げたいなら最優先はキャラクター性……になるでしょう。
売れているものを見ればなによりもキャラ立ちしているかどうかですからね。
これは技術的な点に勝って読者から求められますよ。
主人公に萌えるかどうか。いきいきしているかどうか。
そうやって見ると少し足りない。感情の振れ幅をもっと付けたり漫才を練習したりかな。
なーんて道化師さんの理想とずれていたら無視して下さい。 >>153
別にその文はその文でいいよ
バカ面の友達がきてからそのあと物語は続くんだから。
説明しようとする方がつまらんね。 酷評よろ。1/3
今日、冬季オリンピックが閉幕した。それに気づいたのは、たまたまチャンネルをNHKに合わせた時に閉会式がやっていたからだ。
色彩豊かな五輪のマークの花火が空に打ち上げられて、競技を終えた各国の選手が国旗を持っているシーンが画面に大きく映し出された。
こういった映像を見ても私はこれといって何も感じない。オリンピック終わったんだ、というくらいの感想しかもたない。
逐一スマホ携帯に入ってくる速報と会社での日本のメダル獲得の話題、それからテレビで見るダイジェストと二、三のライブで観た競技の決勝が私にとってのオリンピックである。
私は画面を眺めながら仕事のことが頭に思い浮かんだ。明後日の会議でプレゼンがある。私の意識はオリンピック閉会式から離れ、そのことを一通り考え通して、今度は、スポーツ競技と仕事、私はその繋がりについて考えてみた。 2/2
なかにはスポーツの精神論とビジネスマンの意識の高さを結びつけて語りたがるやつもいる。
私の会社の同じ営業部の新田という男が仕事における精神論についてよく語りたがるのだが、
彼曰く「判断は誤るものではない」ということである。
あれは会社の連中とオフィスでオリンピック中継を観ていた時のことだ。スノーボードのハーフパイプの決勝、ドイツの選手が凄い難易度の高い技を成功させて、
その後に滑った若い穴山という日本人が最後の技を繰り出せずに失敗した。それを観て新田は「穴山は判断を誤ったな。一回目のジャンプからおかしかったものな」と言った。
何でもスノーボードハーフパイプは半円形のデッキの縁の部分であるリップにボートが付いた瞬間から勝負が決まるのだという。
「ハーフパイプって競技は仕事と同じだ。始めに空中を飛ぶ瞬間に勝敗が決する。仕事もバランスを崩したら判断を誤る。一つの仕事に取り掛かる前が重要なんだよ。
一回目のジャンプに集中して、最後の大技を決めるために全てはある」と言った。更に新田は「人生だって同じだ。赤ん坊の時はしょうがないが、物事ついた時から意識を高く持ってるやつが人生に成功する」と続けた。
些か最後に付け加えた文句は滑稽だが、彼の精神論もまあ一理ある。しかし、判断というものはやはり誤るものだ。逆説的に言えば、誤らなければならない。流れに乗るために始めが重要ではある。だがどうやったってうまくいかないことはある。
失敗を繰り返さなければ成功することはない。そうでないとしたら、私のこれまでは無駄だったことになる。 3/3
スポーツ競技の中での判断と仕事の判断は同じものだとは思えない。物事をうまくやるためには失敗から学び、次の機会にそれを活かす。
その上で、物事の流れに乗っていく。
そのために物事の始まりに集中する。それは尤もなことではあるが、何度も失敗はする。判断は誤る。そういうものだ。
「判断を誤ると失敗する。そして失敗は癖になる」とも新田は言っていた。
私は昔から劣等生だ。判断を誤る人と失敗しない人。この違いはどこでどう起こるのだろう。失敗は癖になる、それは確かにそうだ。要領よくうまくやる。
やはり、人間は人生経験から物事を予測し、修正してうまくやることが重要なのだ。
人間の幸せはうまくいった人間に訪れる。うまくやるということが如何に大切なことかを社会人になって痛感させられることは多い。
しかし失敗はする。失敗しない人も中にはいる。しかし私は何度も失敗することも併せ持つ方の人間だ。
意識高い人間がいいのだろうか? 意識を高く持って生きていればうまくやれるのだろうか? このことに答えはないように思う。どうやったって人間、そんな劇的に変われることはない。 >>166
まず、書き出し
緊張感に欠け、目を引かない
>今日、冬季オリンピックが閉幕した。それに気づいたのは、たまたまチャンネルをNHKに合わせた時に閉会式がやっていたからだ。
変更例、「冬季オリンピックの閉会式を見ても何も感じないのはなぜだろう」
ぐらいで良い
中盤
冗長過ぎる
>彼の精神論もまあ一理ある。
から最後付近の
>このことに答えはないように思う。
まで
ほとんど飛躍のない論理の捏ねくり回し
半分以上はカット出来るはずだし、「スポーツと仕事には近いものがある」「失敗してこそ正しい判断ができるのでは」では捻りも足りない
最後、結末
エッセイの結語は大上段の一般論にしてはいけない
>どうやったって人間、そんな劇的に変われることはない。
変更例、「私はオリンピックの閉会式を見て、意識の低い生き方も認めて欲しいと感じたのだ。きっと」
自分自身の感じ方で何らか、仄かな言葉を漂わせるといい
その上で可能なかぎり書き出しに繋げれば纏まった感触が出る >>166
書き手さんは「し」氏かな。
だとすれば、研鑽を積んだのかな。
記述が随分滑らかで字に関して気になりません。
別な方であれば失礼しました。
なるほど。
ハーフパイプが段取り力に繋がっていく。
気になったのは「判断というものはやはり誤るものだ。逆説的に言えば誤らなければならない。」という表現。?でした。
逆説は誤っているように見えて実は正しいというような語意です。
てことは前の言葉から見て間違いに見えなきゃならない。
ので「判断というものは正しくあらねばならない。だからこそ逆説的に言えば誤らなければならない。」こんな運びになるのでは? >>168
「私は昔から劣等生だ。」あたりは学校時代のストーリーがないとボヤッとしますね。 >リップにボートが付いた瞬間から勝負が決まるのだという。
リップにボートが付いた瞬間【から】勝負が決まるのだという。 >流れに乗るために始めが重要ではある。
流れに乗るために<は>始めが重要ではある。 >そんな劇的に変われることはない。
そんな<に>劇的に変われることはない。 >【なか】にはスポーツの精神論とビジネスマンの意識の高さを結びつけて語りたがるやつもいる。
>スポーツ競技の【中】での判断
>失敗しない人も【中】にはいる。 >そんな劇的に変われることはない。
・そんな劇的に変われることはない。
・そんな<に>劇的に変われることはない。
・そんな<に>劇的に変わることはない。
・そんな<に>劇的に変われる<もの>ではない。
・そんな<に>劇的に変われる<という>ことはない。
・ 作品は著者の「世界」だろ。
外野が直してくれるのを前提に出してくるなんてのは、その時点で「世界」を描けてない証拠。
直されないと思って出しているのなら、我々外野は直すべきではない。一字一句の粗探しなんかでは特に。
書くことの孤独を紛らわせる、息抜き程度にこのスレが存在しているなら別だがね。 指摘の着目点は人それぞれだし、自由でいいよ
不十分と思えば、自分が指摘すれば良い
どの批評を採用するかも、作者次第なんだし >>169
>小説というよりエッセイとして読んでもらいたい。
書かれている内容を読んでくれ、という意味かとおもたら、
小説的なところはまったくないじゃんw
新田が架空の人物というだけでは小説にはならん。
結局、小説を書くのはエッセイを書くのとはまったく別の作業。
そういうことに鈍感なんだろな。 でも、エッセイと私小説、優劣や区分はあるのでしょうか。
課題人、まず、不義理を詫びます。
バディもの、できませんでした。
けれども、お礼も言わせて下さい。
あなたの指導、教授のおかげで書く意欲と、書いても良い資質が繋がりました。
勉強をして、バディものを書き上げて、褒めてもらう日を目指します。
願わくば、課題人を信じて研鑽を積むひとが続きますように。
信じても良い事。この、スレの批評人たちのレベルは高い。
そして、わきまえている。
過疎や停滞を心配する声もありますが、
そんな表層的なものなど、どうでもいい。
私は、そう思っています。
作品が出来るごとにあげさせていただきます。
良し悪しのテキストに使って下さい。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054883994287/episodes/1177354054884013824 >>187
>五年の歳月を数えた頃が飲み頃であるらしい→五年の歳月を数えたあたりが飲み頃であるらしい。
>身の振りを決めないといけない→身の振り<かた>を決めないといけない
>Tが迫られた葛藤を私も負うことになった→Tが迫られた葛藤を私も抱えることになった
>バンドは崩壊をした→バンドは崩壊した
>酒が増えた→酒<量>が増えた
>ある日突然、無断欠勤を続けた→ある日突然、無断欠勤した。
>盃を交わす→グラスを交わす
>サミクラウスを前にし、辿る記憶を酒の肴に→サミクラウスを前にし、辿る記憶を肴に
>気を使う→気を遣う
>ただひたすらに寡黙であるTの目を ※寡黙=口数が少ない、そのさま >がさつを絵にしたような男で→がさつを絵に描いたような男で >ひと足先に健全な社会へドロップアウト
ドロップアウト:誤用 >望む望まぬ関係なしに△→望むと望まざるに拘わらず→Tの気持ちなどお構いなしに○
>そのようなことを連日話したとおもう→そのようなことを連日話したと思う。 >>187
えっ、もう終わり? といった感じである。もっと読みたいという意味ではない。
Tの死をあっさり受け入れすぎである。おかしいではないか。
バンドに無理やり誘い、勝手にやめたとなれば、語り手がTの死に責任を感じて苦悩する流れだろう。もうひとり、ラーメン屋に紹介した後輩も責任を感じて大泣きするだろう。
それを見て、「いや、責任はおれにある」とか言って語り手はしょんぼりするのだ。しょんぼりどころではないか。セリフもない作品だから書き方も工夫が必要だね。
そんな折、形見分けでTのうちで見つけるのはエロDVDではないはずだ。Tの残した物を見て、語り手はいい歳して号泣するのである。もしくは絶望に青ざめるのである。
なにがあったか。語り手は自分を許すことができるのか。
やっぱりバンドマンなら楽譜だろう。語り手の結婚を祝福する自作の曲である。歌詞を考えなければならないので大変だ。恥ずかしいし。
もしくは恨みつらみがひどい筆跡で書かれたノートだろうか。切り裂かれた写真だろうか。
んー、やっぱり俺はベタだなぁ。
エレキベースだろうけど、バンドというアコギな商売に誘った、みたいなことを書こうと思ってたのに忘れてた。 批評お願いします。
「猫とメガネと天気管」
重いカーテンが窓を遮っている。
猫には開けることができず、下を潜ることもできない。
天気管は言った。
「今日は晴れだ」
猫は知らない。
窓の向こうには、澄み切った青空があることを。
猫は真っ暗で広い部屋にいる。
そこにはメガネがいる。
メガネは喋らないが、音を出す。
「トン、トン、トン」
その振動で、猫はメガネに気付く。
振り返る猫。
反対から触れられる手。
猫にはメガネが分からない。
天気管は言った。
「今日も雨だ」
猫は知らない。
窓の向こうには、たくさんの雫で埋め尽くされていることを。
「トン、トン、トン」
振り返る猫。
鼻先を撫でる手。
猫は知っている。
メガネには手があり、足があり、顔があることを。
重いカーテンは、ずっと窓を遮っている。
だけど、カーテンが開いていた時もあった。
天気管は言った。
「今日も雨だ」
猫は壊した。
窓の向こうを告げる、お喋りな天気管を。
「トン、トン、トン」
振り返る猫。
猫を持ち上げる手。
猫は知っている。
天気管も、窓の向こうを知らないことを。
放される手、落ちていく猫。
砕けた天気管が、猫を貫く。
猫は知っている。
カーテンを閉めたのは、メガネということを。 もう採点も作者の弁も出て決着してしまったようだけ、一応、書いてみたよw
「おむすび」は、同じ作者による「墓参りとお供え」と同じ構造のストーリーだろ。
で、「おむすび」で作者がやろうとしていたことは、視覚によらない「触覚」による感情の表出だろ。
それは「5センチの細いヒール」が土に「ずごっと」突き刺さるシーンで予告される。
この小説で唯一重要だったのは、固さvs柔さ、おにぎりvsおむすび、という対比だろ。
【回想・津波以前】
>三角形の頭頂にかぶりつく。白米部分が舌に触ると、米一つ一つがほどけて口内に散らばっていくように感じた。
>しかし、おにぎりの成形がゆるすぎるということもなく、手の中で崩壊する心配もなさそうだ。急いで噛んで飲み込む。
【現在・再訪】
>あのときのおむすびとはとても似つかない、不恰好で米の粒がつぶれたおにぎりだ。
>包みのあいたところに口をつける。固い。思い切って上の前歯を差し込む。米の粒は固まったまま、ばらばらになる気配もない。
ただ、握り飯vs産巣日という語源的なイメージだけで、「おむすび」は「結衣」が津波以前の世界を「回復」させる呪具となりうるだろうか?
この「おにぎり」のような機能をもった物資を、小説的「装置」と呼んでもいいと思う。
しかし果たして、「おにぎりvsおむすび」は十分に「装置」たり得ただろうか?
「墓参りとお供え」における「牡丹餅?」がうまくいって、「おむすび」が不発に終わった理由は、まさに「お握り」が十分に固くないからではないか。
冗談でもなんでもなく、冷めて固くなったオニギリを炙って「焼きオニギリ」にする必要があったのではないかったか?
いやそれでは「食感」が違う、といえばその通りだけど(笑)。
それにタイトルを「おむすび」などとするのは、作者の意図がバレバレで下策。 2/2
なかにはスポーツの精神論とビジネスマンの意識の高さを結びつけて語りたがるやつもいる。
私の会社の同じ営業部の新田という男が仕事における精神論についてよく語りたがるのだが、
彼曰く「判断は誤るものではない」ということである。
あれは会社の連中とオフィスでオリンピック中継を観ていた時のことだ。スノーボードのハーフパイプの決勝、ドイツの選手が凄い難易度の高い技を成功させて、
その後に滑った若い穴山という日本人が最後の技を繰り出せずに失敗した。それを観て新田は「穴山は判断を誤ったな。一回目のジャンプからおかしかったものな」と言った。
何でもスノーボードハーフパイプは半円形のデッキの縁の部分であるリップにボートが付いた瞬間から勝負が決まるのだという。
「ハーフパイプって競技は仕事と同じだ。始めに空中を飛ぶ瞬間に勝敗が決する。仕事もバランスを崩したら判断を誤る。一つの仕事に取り掛かる前が重要なんだよ。
一回目のジャンプに集中して、最後の大技を決めるために全てはある」と言った。更に新田は「人生だって同じだ。赤ん坊の時はしょうがないが、物事ついた時から意識を高く持ってるやつが人生に成功する」と続けた。
些か最後に付け加えた文句は滑稽だが、彼の精神論もまあ一理ある。しかし、判断というものはやはり誤るものだ。逆説的に言えば、誤らなければならない。流れに乗るために始めが重要ではある。だがどうやったってうまくいかないことはある。
失敗を繰り返さなければ成功することはない。そうでないとしたら、私のこれまでは無駄だったことになる。 >>187
を読んで、ライブ会場に移動するのに置いていかれた仲の悪いベーシストとドラマーがケンカしながら目的地を目指し、最後には仲良くなってるというバディものが書けたのではないかと思った。
もしくは原稿が遅れがちな作家の家を訪問することにした編集者ふたりとか。
書いてみよう。
「花代(かだい)さん、ロム猫先生の原稿、届きましたよ」
黒豹出版社の文芸部オフィスに鈴木鈴子のアンニュイな声が上がった。
「おう、やっとか」
デスクで読んでいた他の作家の校正ゲラから顔を上げた副編集長代理補佐の花代は、鈴木鈴子に右手を差し出した。鈴木鈴子はその手にバイク便の封筒を渡す。封筒を開いて中の原稿を読み始めた花代の眉間に、みるみるしわが寄っていった。
「なあ、ロム猫先生にはバディものもアンソロジー用って言ったよな?」
花代が鈴子に顔を向けて言った。
「言いました」
「なんか違うんだよなぁ」
花代の眉尻が下がる。鈴子は原稿を受け取った。しばらくして読み終えると、
「なんか違いますね」
とアンニュイな声で言った。
「どういう事だ!」
「わたしに言われましても」
「担当だろう!」
「この件を依頼したのは花代さんです」
「そうだったか? 悪いが電話してみてくれ」
鈴子は手帳を取り出すと、花代のデスクの受話器を持ち上げた。
「出ませんね」
しばらくして、鈴子が受話器を耳に当てたまま言った。
「あんにゃろう、居留守だな」
ロム猫先生が往々にして電話に出ないことは広く知られていた。エッセイに書いたからだ。
「出かけるぞ、ついてこい」
「わたしもですか?」
「当たり前だ、担当だろう」
「でももうすぐお昼です」
「つべこべ言うな!」
こうしてふたりは出版社をあとにした。
ここまで572字。いけそうだ。書きませんが。 小気味のいい出だしに笑った
>>187
詫びなんぞいらん
『サミクラウス』もだが、ロム猫の人の話作りは死者をテコにして感慨に浸るパターンが多い
そこで死者へのフォローが不足すると、上の人が言ってる通り、読者の共感が不足する
今回のは特に、主役の感動のために脇役の死が駒として用意され、利用された印象が強い
読者は「可哀想な人物」に心を寄せる
感動ものの作者は、読者の共感が誰に寄っているか掌握していなければならない
作者の計算高さは主武装にしていい
それを見破られないぐらいまで計算高くなるといい
脇役を生かすパターンを試していけば、駒としてではなく人物として動かせるようになって、作り物とは言われなくなる
だからバディものや群像劇もいつかやってみればいい
小さくまとまるな
以上
良かったよ
またグッとくる作品を見たい まず、皆さん読んでくれてありがとう。
仕事の合間に、思うことをレスさせていただきたいと思います。
ただ、率直な意見、とても有り難いです。
取り急ぎ、お礼だけはと書き込んだ次第です。
では、後ほど。 >>196
つーか、これ、めっちゃ面白い!
是非とも続きが読みたい!
書いてはいただけないでしょうか? >>194
事故か?
他人の過去レスの無断コピペは厳禁。 >>187
>でも、エッセイと私小説、優劣や区分はあるのでしょうか。
これはw 誰か答えて差し上げましょう。 >>187
この作品を一言でいえば、私の「身上書」みたいなものかな?
あるいは、中編小説のちょっと長めの「梗概」といった感じかな。
充填してから瓶内熟成するビールがもたらす5年間という仕掛けがあるのに、全然
額縁小説という感じがしない。
現代風俗小説としての輝きもないけど。
これから小説を書こうと思っている良い子は、ちょっと考えてみるといい問題だな。
どうしてそうなってしまったのか、についてね。 どうか評価してください
エッセイ的なもの?
新年度。そろそろ高校一年生の生活も終わり、僕は二年生になる。進路先と将来を見据えていく年が始まる。将来の「夢」というものを、様々な観点で考えていく。
競歩の選手は、ほとんどが別の種目で挫折した人たちだと聞く。監督から、「競歩にしてみないか?」と勧められ、それを受け取る選手たちは今までの努力や苦労を想起し、葛藤に苛まれることだろう。それは、自分の目指してきた夢を捨てることになるかもしれないからだ。
それでも、成功した人はたくさんいる。競歩の選手に限らない。自己分析を重ね、他者の助言を取り入れて栄光を得た人達は必ずいるのだ。
先日、平昌オリンピックの舞台が幕を閉じた。日本は十三個のメダルを獲る輝かしい成績を残した。復帰後間もなくして臨んだ羽生結弦、カーリング女子の藤澤五月、彼らは小さい頃から夢を追い続けていた。
自分と他者の力量、世界の厳しさを知って道を変えるのは合理的だと思える。しかし、挫折を繰り返しても変わらぬ夢を見る人間の、実を結ぶ瞬間はこの世のなによりも美しい。人間の、一つの秘められた力なのだろう。
人が違えば、持つ夢も違う。「夢」をこれから考えていくのもいいが、子供の頃の初心に立ち返って、自分だけの誇れる夢を追うのもまたいいのかもしれない。 >>203
最近の新聞の社説ってこんなんだなーって印象の文章。
ぱっと見は文法的な誤りとかはないんだけど、何を評価してほしい?
日本語力を評価してほしいのか、新聞記者になりたいが文章力はどうか、とか。 >>204
社説っぽく書かれてあると思ってくれたのは嬉しいです。
個人的に、高校生ならこの程度の作文を書ける人がどのくらいいるのかの推測と、文章力を率直に評価してほしいです。 >>197
ありがとう。
>小さくまとまるな
の言葉に泣きそうになりました。ともかく、今は書きたい。たまっている話が三作ほどあります。
それを書き切ったうえで、挑戦をしたい。
「酷スレ」で初めて上げた掌編を
「駄文だな。読む価値なし」の第一声からスタートして、ようやく物語を作ることができた私は、書きたくて仕方がない。
駄文は変わらずですが、書くことを重ねていくうちに、少しずつ書きかたを理解している現状です。
無論、他人の批評などできるレベルになく、ただ「過疎、過疎」といわれる状況を歯がゆく思っていました。
ともかく、ありがとう。
毎度同じことをいいますが、君には感謝しかない。
>>188
毎度、原稿チャック?をありがとうございます。
今回、「講評お願いします」ではなく、「良し悪しのテキストに使って下さい」といったのは、>>202であげられている問題に使って欲しかったからです。
気づいているかと思いますが、今回の話は偶然そうなったのではなく、書く前から「地の文縛り」で書こうと考えていました。
その段階から「縛り」を意識すると、私の筆力では、回想、あるいは独白的な一人称にならざるを得なかった。
前レス、あるいは「創作ノート」スレで議論になった、地の文と会話文の議論に、作品として、
参加しようと思ったからです。
私が文章を読むときに感じる印象は、地の文は濃い情報を伝えられるが疲れる、そんな風に思っていました。
会話文があると、ほっとする。
ただ、会話文ばかりだと戯曲のような感じで、それもまた、つまらない。
どちらかに偏ったとき、文章はどんな風に歪になるか、あるいは成立するのか、試してみたかった。
結果、事実の羅列になり、長いあらすじのようになった感は確かにあるでしょう。
書くひとが書けば違う感じになるのかもしれたせん。
過疎ったら、論じてみてください。
私もその論が見たい。
ちなみに「健全な社会にドロップアウト」という表現は本来「ドロップアウト」と「」をつけて、
本来の意味として使っていないことを強調するべきでしたが、会話文でなくても、頑なに「」を使わないことで意図を示したかった、
そんな理由があります。
重ねて申し上げますが、ほんとうにありがとう。
また、読んで下さい。
長文失礼しました。 >>158
>俺が角川で受賞した作品
あなたはだれ? >>203
>将来の「夢」というものを、様々な観点で考えていく。
日記(ブログ)じゃないんだから、他人に読ませるには
「考えていく」で自己完結させずに、考えていきたいと思っているところだ。とか
読み手に心情を”伝える”書き方をすべきです。 >>209
確かにそうですね……
的確なアドバイスありがとうございます >>196
戯曲でしかないな。
会話任せで、地の文もト書きで終わってる。 >>166
ほとんど、感想文とか作文の類ですね。
延々、愚痴ってるだけという感じしかない。
>たまたまチャンネルをNHKに合わせた時に閉会式がやっていたからだ。
たまたまチャンネルを合わせたって言葉が死語になりつつある昨今において表現が古過ぎ、いきなりダサい。
ほかの文面も表現がさえない。 いつもの通学路を歩いてはいたがぼんやりする。頭の中と同じで目も少し霞んでいた。
そんな状態で空を見る。薄青い色が広がっていた。
このような書き出しならば読者は一人称と考え、その先も同じ文体が続くと思うだろう。
学生服を着た上原淳史は眠そうな顔で通学路を歩いていた。生欠伸が絶えない。
おもむろに空を見上げる。至って普通の青空を黙って眺めていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています