三浦あずさが事務所に着くと、応接セットのソファに先客がいるのを見つけ
た。タレント仲間の高槻やよいである。
 いつもならドアを開けて挨拶をすればまっさきに元気な声を聞かせてくれる
可愛らしい同僚であるが、今日はなにやら他のことに気を取られているようだ。
深く腰かけて前屈みになり、束ねたプリントアウトに見入っている。
 きわめつけは眉間のシワである。やよいの両の眉の間に、見事な縦線が刻まれて
いるのだ。
 あずさはつとめて明るく、話しかけながら向かいのソファに腰を下ろした。
「おはようございます、やよいちゃん。外はいいお天気ね」
「はわっ、あずささん!おはようございますっ」
 声を聞いてようやく気付いてくれたようだ。バネ仕掛けのおもちゃのように
飛び上がると席を立ち、深々と頭を下げてくれた。
「ごめんなさいね、驚かせちゃった?ずいぶん夢中だったのね」
「あ……すみませんあずささん。来たの気付かなくて」
「いいのよ。学校の宿題?」
「これですか?いえ、学校じゃなくて、プロデューサーっていうか」
「プロデューサーさん?」
 差し出された紙束を見せてもらい、なるほどと思った。譜面と歌詞……彼女が
新しく歌う歌の資料だった。
「あ、今度の特番で歌う曲ね。聞いたわ、やよいちゃん大物歌うのよね」
「ええ、そうなんです」
 765プロが手がけているスペシャル番組で、やよいをはじめ事務所のアイドル
たちが歌を披露することになっていた。選曲は宣伝の際に発表されており、
あずさももう自分の分をもらって練習に入っている。
「やよいちゃんがカバーする歌の原曲、私もCD持ってるのよ。素敵な楽曲に
出会えるのは嬉しいものよね」
「わたしもプロデューサーに借りて聞きました。最後のほうなんか泣いちゃい
そうになっちゃいました」
 やよいが手がける曲は、あるシンガーソングライターが自伝的に作ったもの
だった。長尺の歌だがテレビでもフルコーラスで放送され、国民的な知名度がある。
「やよいちゃんが歌い上げるの、私も楽しみにしているわ」
「はっ……は、はい」
 あずさにとってやよいは妹のような存在だ。小さな体で元気一杯に走り回る
ステージングは心が浮き立つし、舌足らずながら観客に向けてまっすぐに響く
歌唱スタイルは聴く者の心を力強く握り締め、一緒にどこまででも行ける勇気と
エネルギーを貰った気分になる。
 ところが今日は、そのやよいの様子が変だった。あずさは先の苦悩の表情を
思い出した。
「もしかして……うまくイメージ、できないでいるの?」
「あうぅ」
 どうやら、これだ。小さくうなずくやよいを見てあずさは理解した。彼女は
この曲を、どうやって歌ったらいいか思い考えあぐねていたのだ。
「あらあら。やよいちゃんがこんなに悩むなんて珍しいわね」
「あ、でもでも、これすっごく素敵な歌だなーって思うんですよ?小さな頃の
思い出や、大人になってからのいろいろがぎっしり詰まってて、この曲を選んで
もらえてすっごく嬉しいんです。でっ、でも」
「でも?」
「でも……わ、わたしなんかがみんなの前で歌っていいのかな、って、ちょっと
思っちゃって」
 彼女が悩んでいたのは、こういうことだった。
 生まれた環境も人となりも違う人物が、自分の経験をもとに半生をかけて
作り上げた曲。その中には歌い手の本人にしかわからない人生の機微や、その
当人同士でしか伝わらない細かな関係性が込められている筈だ。
 そして言うまでもなく高槻やよいの半生にはそれらが、ない。
「そんな大事な歌なのに、そういう経験のないわたしがこの歌を歌ったら……
この歌のファンの人たちがガッカリするんじゃ、って」
「そう」