今日学んだことを書くスレ
ベンサムは法実証主義に立脚。先天的な人権や自然法という概念を否定した。
ベンサムは同性愛を肯定。ベンサムは被害者のいない行為を悪とは考えない。
ベンサムはヒュームの倫理学から出発した。
ヒュームは、従前の通説が「法や道徳は個人の利益になる」と考えていたのに対して、
「法や道徳はむしろ社会の利益になるのだ」と提唱した。
ベンサムはヒュームの理論を改造し、「法や道徳は社会の利益に貢献すべきだが、
現実はそうではない」と、記述理論から規範理論へと属性を変更した。
ベンサムはニュートンの科学主義の影響も受けた。
ベンサムとジェームズ・ミルは友人である。
ヒュームとベンサムは、心を人間の特性とするデカルトの合理論に対し、動物にも心があると述べた。
ベンサムの功利主義は、基本的に理由のない禁令を批判する。ベンサムは自由を擁護する。
イングランドでは1533年から1967年まで同性愛は犯罪であった。 19世紀と20世紀の境目には近代法学への反撥が起こる。
敵視されたのは、ドイツではパンデクテン法学、フランスでは法典の絶対視である。
ギールケを筆頭とするゲルマニステンは、
ローマ法よりゲルマン法の方が民主的であり、ゲルマン法を普及させよと述べた。
また、ギールケはヴィントシャイトに傾斜した民法典の第一草案を批判した。
ゲルマニステンとは別に、エールリヒは自由法学を創始してパンデクテン法学に対抗した。
自由法学は、民主主義の実現のために、条文を自由に解釈しようという問題構制を持つ。
フランスではジェニーが法典の絶対視を批判し、法の不完全性を指摘し、
哲学や社会学の要素を摂取した法学を再び確立した。フランス法の註釈学派は終了した。
ゲルマニステン:筆頭はギールケ
自由法学:筆頭はエールリヒ アメリカ合衆国でも同様の動きが起こった。
批判の対象は法形式主義であり、批判の主体はプラグマティズム法学とその系譜である。
法形式主義とは、法の形式的かつ厳格な適用を求める思想である。
この法形式主義は、条文を絶対視し現実を無視した判決を量産したとして批判された。
法形式主義の否定として、まずホームズ判事のプラグマティズム法学が登場した。
これは、法の論理的な運用よりも結果の妥当性を重視する立場である。
プラグマティズム法学はやがてリアリズム法学へと発展した。
リアリズム法学は、社会学の手法を取り入れ、
法学者が議論の前提としている諸々の命題が現実とは異なることを指摘した。
戦後になると、これらの系譜とは別のところから、プロセス法学が現れた。
プロセス法学とは、正しい司法のためには手続きの遵守が重要であるという立場である。
しかし、これは手続きへの偏重が批判され、学界ではリアリズム法学への回帰が見られた。
それが批判法学と呼ばれるものである。
この批判法学は、フェミニズムその他の左翼思想と密着している。
法形式主義・プラグマティズム法学・リアリズム法学・プロセス法学・批判法学 19世紀にはドイツでヘックという法学者が利益法学を提唱した。
利益法学はエールリヒの自由法学を出発点にするが、
裁判官や法学者の恣意的な解釈は認めず、
立法の趣旨のみを解釈の基準として認める点が決定的に異なる。
法の欠缺は、「立法者ならばこう補完しただろう」という方法でのみ克服される。
ヘックの利益法学は、評価法学と名を変えて、現在のドイツでの主流となっている。
なお、利益法学とは異なるが、戦後のドイツではラートブルフも再評価された。
ラートブルフはナチズムに反対し、自然法思想の復活を唱えたことで知られる。
利益法学・ラートブルフ 20世紀の中葉には公法学の分野でケルゼンとハートが法実証主義を提唱した。
このうち、ケルゼンの体系を純粋法学と呼ぶ。 パンデクテン法学の代表者。
サヴィニーは歴史法学を創始した。
プフタは法学の論理性を重視した。その態度は概念法学としてイェーリングに批判された。
イェーリングは概念法学から出発するも、後にこれを否定した。
ヴィントシャイトは歴史法学から出発するも、後に概念法学に傾倒した。
そのことを転向後のイェーリングに咎められている。
パンデクテン法学は私法のみを対象とするが、
徐々に公法への応用も見られるようになる。
その代表はフォイエルバッハの古典学派。
フォイエルバッハはベッカリーアの学説を継承した。
罪刑法定主義は古典学派によって生み出された。
ビンディングは古典学派に属すが、行為無価値論の先駆者である。 概念法学はイェーリングによって蔑称として造語されたが、
現在では必ずしも否定的なニュアンスを含有しているわけではない。
現在では、否定的な意味での概念法学や法形式主義は官僚法学と呼ばれることが多い。
これは、官僚が法を自らに都合の好いように運用する傾向があることに由来する。
もっとも、官僚法学は行政法の別称として用いられるだけのこともある。 パノプティコンとは、いつ看守に見張られるか囚人には分からない構造の監獄である。
ベンサムは、パノプティコンに幽閉された囚人は常に自らを規律するため、
体罰という肉体的な苦痛を与えずに囚人の精神を改造できるとして、導入を提唱した。
しかし、フーコーは、通常の刑務所とパノプティコンの相異は、
囚人を外圧(体罰)によって服従させるか、内圧(恐怖心)によって服従させるかの違いでしかなく、
結局は両者とも人を権力に服従させる装置に過ぎないとして否定した。 フーコーは紀律化という用語によってパノプティコンの作用を表現したが、
これはフーコーの思想の中で特に重要な概念である。
フーコーによれば、近代社会は監獄以外でも、
紀律化(自発的な服従を強いる権力の発動)が恒常化していたという。
もっとも、近代社会が本当に紀律化の世界であったかについては、異説もある。 スピノザの社会論は、前半はホッブズに類似している。
すなわち、悲惨な自然状態を想定し、それを克服するために国家が造られたと説く。
スピノザの思想の特徴は、国家が成立してからの続きを描いたところである。
スピノザによれば、人間の自己保存・自己実現の欲求は本質的なものであり、
これを保護するのが当然であって、抑圧してはならないとする。
あくまでも国民の欲求を保護した上で個人間の関係を調整するのが、国家の任務なのである。
そして、彼は思想・言論の自由を正当化する。
また、ロックとは異なり、無神論やイスラムも弾圧してはならないとする。 自然法思想の先駆者はグロティウス、プーフェンドルフ、
トマジウス、ヴォルフが有名である。
しかし、ここではトマジウスについてのみ述べる。
トマジウスは18世紀の前葉にドイツで活躍した。
トマジウスは、ラテン語ではなくドイツ語によって講義を行った。
もっとも、これによって一時的に職を失っている。
また、彼の自然法思想は宗教の問題を完全に排除した点が特徴である。
グロティウスやプーフェンドルフは、傍論とはいえ依然として宗教の問題を扱っていた。 19世紀の前葉から中葉にかけて、英美の法学にで新しい学風が起こった。
イギリスではオースティンが活躍した。
オースティンはドイツに留学した経験を持っていた。
オースティンはドイツのパンデクテン法学に刺戟されて、
論理性や概念の精密化を重視する分析法学と呼ばれる体系を作り上げた。
また、主権者命令説と呼ばれる学説を唱えた。
これは、法は主権者の命令によって作り出されたのだから、
解釈の際には主権者の意思を尊重せよというものである。
分析法学自体は概念法学に近いが、主権者命令説によって利益法学の性質も加わった。
アメリカ合衆国ではハーバード大学のラングデルが有名である。
ラングデルは、それまでは粗末な構造であったロー・スクールの改革に着手した。
ラングデルは、教員として実務家ではなく、専門の法学者を任用した。
また、教授の方法は講義形式ではなくゼミナール形式を採用した。
ラングデルはオースティンと同じく法学の学問化を進めたことでも重要である。 工場法はイギリスで1802年に制定されたものが最初である。
この時点での内容は、未成年の労働時間を12時間に制限し、深夜労働を禁止するものである。
その後、イギリスの工場法は、1819年、1833年、1844年、1847年、1850年、1853年と変更されていく。
また、プロイセンでは1839年、フランスでは1841年、日本では1911年に工場法が制定された。
いずれの国の工場法も、女子供の保護のみを主眼とし、成人男性の保護を十分に行わなかった。 労働組合は近代においては禁止されることが多かった。
その際の法源として制定された法令は、
フランスでは1791年のル・シャプリエ法と1810年のナポレオン刑法典、
イギリスでは1800年の団結禁止法、
プロイセンでは1845年のプロイセン営業条例、
アメリカ合衆国では1890年のシャーマン反トラスト法、
日本では1900年の治安警察法と1925年の治安維持法である。
なお、イギリスでは1825年の労働組合法、
アメリカ合衆国では1914年のクレイトン反トラスト法で、
プロイセンとフランスでも19世紀の中葉に、労働組合は合法化されている。 ビーダーマイヤー時代とは19世紀の前半のドイツの時期である。
この時期には、市民は政治には関心を向けず、
日常生活を満喫しようという気風が支配的となった。
ウィーン体制によって自由主義や民主主義への希望が崩れたことが、
ビーダーマイヤーの成立の一因である。 ルーマンは生物学の概念であったオートポイエーシスを社会学に援用した。
しかし、オートポイエーシスが何を意味する言葉なのかは不明である。
部分の運動が活性化するほど全体も活性化するから、
社会の発展のためには個人の自由の保障が重要であるという理論らしい。
ルーマンによれば、自由とは個人のためではなく社会のためにあるということになる。 解釈学では、思想家個人の思想は時代の思想に拘束されると考える。
すなわち、ある人が○○主義を提唱した場合、
彼の○○主義には時代の思想という不純物が紛れ込んでいることになる。
一方で、時代の思想がなければ彼は○○主義を提唱しなかっただろうということにもなる。
解釈学のこのパラダイムは、マンハイムの存在被拘束性と類似している。 『三くだり半と縁切寺』
『三くだり半:江戸の離婚と女性たち』
『宋代庶民の女たち』
『妻の王国:家庭内"校則"に縛られる夫たち』
『男が語る離婚:破局のあとさき』
『男と女の戦争:反フェミニズム入門』
『男女平等への道』
『裁判の秘密』
『うかつな男としたたか女の法律講座』
『「非」良心的兵役拒否の思想』
『近代日本の徴兵制と社会』
『イギリス工場法の歴史』 司法 民法・刑法・民事訴訟法・刑事訴訟法
行政 民法・憲法・行政法
企業 民法・商法・民事訴訟法・労働法
書士 不動産登記法・商業登記法・供託法・民事執行法・民事保全法 芦部『憲法』
原田『行政法』
山本『民法総則』
未定『物権法』
潮見『債権法』
大村『家族法』
未定『民事訴訟法』
川端『刑法』
白取『刑事訴訟法』
藤本『刑事政策』 刑法学には行為論という領域がある。
これは行為の定義に関する問題を扱う。
実務的には、正常な精神を持たない者が犯した罪を処罰できるか、
という問題と関係してくる。
行為論には有意的行為論、自然的行為論、目的的行為論がある。
行為の要件の一つに行為者の意思を含めるのが有意的行為論であり、
含めないのが自然的行為論である。目的的行為論は異質なので割愛する。
有意的行為論を採用した場合、正常な精神を持たない者は常に不可罰となる。
なぜなら、正常な精神がなければ意思を持てる筈がないためである。
一方で、自然的行為論を採用した場合は、
正常な精神の有無に関わらず、必ずしも可罰性は否定されない。
自然的行為論においては、正常な精神の欠如は有責性阻却事由の部分で扱われる。
ひとまず、自然的行為論を支持するべきだと思われる。 管理過失と監督過失について。ともに工場やホテルでの事故の際に問題となる。
管理過失とは、火災や地震などに対する適切な設備を欠いたことで事故が事故が起こった場合、
その施設の設備を担当する者に問われる責任である。
監督過失とは、危険物の取り扱いなどに関する労働者の教育が不十分だったために事故が起こった場合、
労働者の指導や教育を担当する者に問われる責任である。
管理過失も監督過失もともに不作為犯である。
管理過失や監督過失が問われるのは相応の権限を持った者に限られる。
下級の労働者には管理や監督の権限がないため、常に不可罰である。
実際のところ、管理過失はホテルでの火災、
監督過失は機械や危険物の取り扱いに関する事故で問題になっているようである。 因果的共犯論においては、
物理的因果性と心理的因果性がともに否定されなければ共犯は成立する。
片面的共犯とは、正犯の知らないところで正犯を支援する共犯のことである。 不真正不作為犯の処罰の範囲をめぐっては学説が乱立している。
作為義務の実質を何に求めるかが学者によって異なるのである。
形式的三分説 法令・契約・条理が作為義務を根拠付けるとする。
社会的期待説 社会的に見て作為義務を有すると看做された者が作為義務を有するとする。
先行行為説 危険を創出した自らの先行行為が作為義務を根拠付けるとする。
具体的依存性説 法益の保護を独占的に引き受けた者が作為義務を有するとする。
これらの学説はそれぞれ以下の通り欠点を抱えている。
形式的三分説 法令と契約については根拠が明確だが、条理というものを取り込むことでそれを台無しにしている。
社会的期待説 結局のところ、誰の感覚を基準にして作為義務を有するか否かを決めるのかが著しく不明確。
先行行為説 轢き逃げなど、本来は作為犯となるべき行為が不作為犯となり得る。
具体的依存性説 不明。 民法95条は錯誤について定めている。
民法における錯誤については、二つの領域でそれぞれ二つの学説が対立している。
二元論と一元論。
表示錯誤のみを考慮すべき錯誤として認める考え方が二元論である。
表示錯誤と動機錯誤をともに考慮すべき錯誤として認める考え方が一元論である。
一元論という名称は、表示錯誤と動機錯誤を一括して有効な錯誤と考えることに、
二元論という名称は、表示錯誤と動機錯誤を本質的に異なるものとして考えることに由来する。
動機錯誤を考慮すべき錯誤と認めるか否かが一元論と二元論の対立点である。
法律行為については、錯誤の存在が直ちに法律行為の無効を決めるわけではない。
錯誤が存在しても法律行為を有効とすべき場合もある。
問題は、その規定の存在価値をめぐってなされる議論である。
これについては信頼主義と合意主義が対立している。
信頼主義とは、相手方は本人が本心から法律行為に同意したと思っているのだから、
その信頼を尊重すべきであるという考え方に基づく立場である。
合意主義とは、一時的にでも両者の合意によってなされた法律行為を
無効にしてはならないという考え方に基づく立場である。
一元論/二元論、信頼主義/合意主義、民法95条 錯誤は、表示錯誤と動機錯誤の下位に更に二つづつ存在するため、合計で四種類となる。
表示の錯誤、内容の錯誤、理由の錯誤、性質の錯誤である。
表示の錯誤とは、言い間違えや書き間違えのことである。
内容の錯誤とは、難語や専門用語の意味の勘違いのことである。
理由の錯誤とは、動機錯誤の狭義のものである。
性質の錯誤とは、法律行為の対象(商品など)の性質の誤認である。
日本の学説は理由の錯誤と性質の錯誤を峻別しないことが多い。
これは特定物ドグマと呼ばれる考え方に立脚している。
表示の錯誤/内容の錯誤/理由の錯誤/性質の錯誤 従来は二元論が通説・判例であったが、
現在では二元論、一元論、新二元論、新一元論が乱立している。
したがって、理由の錯誤や性質の錯誤が考慮されることも多くなっている。 二元論は、意思原理と信頼原理によって自らを根拠付ける。
意思原理とは、法律行為を行ったこと自体の意思が存在するならば、
それを最大限尊重すべきであるという考え方である。
信頼原理とは、相手方の信頼を最大限尊重すべきであるという考え方である。
二元論によれば、原則的に表示錯誤は考慮され、動機錯誤は考慮されない。
例外として、表意者に重過失がある場合は、表示錯誤も考慮されない。
また、相手方に動機が明示されていた場合には、動機錯誤も考慮される。
これは動機表示構成と呼ばれる考え方である。
意思原理+信頼原理、動機表示構成 裁判所法によれば、裁判は日本語で行われる。
当事者が英語しか解さない場合でも、英語による裁判は行われない。
このような場合は通訳が付くことになっている。
この通訳の費用は裁判所が負担する。当事者は負担しない。
通訳が故意に嘘の通訳をした場合、偽証罪に問われる。
裁判所は、裁判官の合議によって法廷を非公開とすることができる。
ただし、政治に関する犯罪、出版に関する犯罪、基本的人権に関わる事件の場合は、
常に法廷を公開しなければならない。それ以外は例外も認められる。 弁護士にも広告の自由が認められている。
広告媒体の制限はなく、CMの放送も許される。
ただし、誇大広告などは当然禁止される。 尊属殺人罪が違憲であるとして非難されていたのは有名だが、
尊属傷害致死罪・尊属遺棄罪は例の判決の後も合憲とされ続けた。
また、刑法典にも最近まで残っていた。 刑事被告人と弁護人との接見交通権は、憲法では保障されていない。
これは刑事訴訟法に規定されている権利である。
なお、憲法によれば、刑事被告人は法廷で証人に対して質問をすることができる。
また、出廷を拒む証人を強制的に勾引することができる。
このようにして、敵の証人の偽証や味方の証人の裏切りを予防する手段が与えられてる。 不治の病の患者に安死術を施した医師は、同意殺人罪に問われる。
もっとも、安楽死には積極的安楽死、消極的安楽死、間接的安楽死の三種があり、
そのうち実際に問題となっているのは積極的安楽死が大半である。
消極的安楽死とは、延命措置を中止することであり、
間接的安楽死とは、副作用として生命を短縮させる薬を服用させることである。
なお、オランダとベルギーでは安楽死は合法化されている。 被疑者や被告人に対して刑罰以外の措置を取ることをディバージョンと呼ぶ。
具体的には、起訴猶予、執行猶予、微罪処分、刑事未成年の保護処分などが含まれる。
微罪処分とは、警察官による仮借である。
起訴猶予とは、検察官による仮借である。
執行猶予とは、裁判官による条件付の仮借である。
保護処分とは、刑事未成年に課されるディバージョンの総称である。
保護観察は保護処分の一つである。
また、起訴猶予は、不起訴の一種である。
冤罪の可能性が高い者を釈放するのが通常の不起訴であり、
明らかに犯罪者だと思われる者を情状酌量によって釈放するのが起訴猶予である。 永山事件とは、1968年に未成年が引き起こした連続殺人事件である。
未成年である犯人に死刑を宣告できるかが議論の種となった。
結局、最高裁で犯人に死刑が言い渡された。
この時に最高裁が示した、死刑を適用すべきか否かを判断する九つの基準が、
俗に永山基準と呼ばれるものである。
もっとも、それ以後の最高裁が本当に永山基準を重視しているかは不明である。
この事件はまともな判例集には必ず載っている。 労働基本権は労働者のものであり、雇傭者には認められていないが、
過激化した労働者の閉め出しは雇傭者にも認められており、違法ではない。
産前産後休暇や育児休暇を取っている労働者に対して、
雇傭者は必ずしも給料を支払う必要はない。
給料の支払いは会社の任意である。 刑事事件における弁護人は全て弁護士から任命されるのが普通だが、
地方裁判所以下の裁判所においては、裁判所の許可があれば、
弁護士でない者を弁護人にすることもできる。
ただし、地方裁判所の場合は、弁護団の中に一人は弁護士がいなければならない。
簡易裁判所と家庭裁判所の場合は、裁判所が許可すれば、弁護士以外の者を弁護人にしてもよい。
刑事事件においても、弁護士を雇うか否かは被告人の自由だが、
重罰が課される虞のある場合は、被告人の意思に反してでも弁護士を付けなければならない。
このような事件を必要的弁護事件と呼ぶ。
刑事被告人に国選弁護人の任命権はない。国選弁護人は裁判所が任命する。 日本には外国法事務弁護士と呼ばれる制度がある。
これは、日本の司法試験には合格していないが、
海外で弁護士の資格を認められている者に対して、
法務大臣の承認のもと、特別に日本国内での活動を許可する制度である。
日本の司法試験に合格した外国人は、通常の弁護士として扱われ、
海外の司法試験に合格した者は、日本人であっても、外国法事務弁護士として扱われる。
外国法事務弁護士も、通常の弁護士と同じく、日弁連に所属する。
外国法事務弁護士は、その人が精通している外国法が問題となる事件に限り、訴訟に参加できる。 2000年から開始された介護保険制度には、40歳以上の国民が加入し、
その介護保険料は、毎月の医療保険料に上乗せするかたちで市区町村に支払う。
市区町村は65歳以上の高齢者に介護サービスを提供するが、
その料金の9割は市区町村が負担する。
介護サービスを受ける手順は、まず市区町村の役所に申請を行い、
次に要介護認定審査を受け、ケアプランを作成する。
すると1割の負担で介護サービスが受けられるようになる。 日本では裁判員制度が導入されるが、
国民が裁判に関与する先例としては、司法委員、参与員、調停委員がある。
司法委員とは、簡易裁判所において裁判官を輔佐する委員である。
参与員とは、家事審判において裁判官を輔佐する委員である。
調停委員とは、裁判官とともに調停を進める委員である。
調停委員を除いては、陪審員としての役割は与えられていない。
あくまでも裁判官を輔佐することだけが職務である。 重婚的内縁の場合、一般的に正妻として扱われるのは法律上の配偶者だが、
法律上との配偶者との生活が破綻している場合は、内縁の妻の方が正妻と看做される。
なお、法律上の配偶者と内縁の妻の双方がともに正妻として認められることは、絶対にない。 日本では敗訴者負担の制度は採用されていない。
ただし、証人への日当と印紙の料金は、例外的に敗訴者が負担する。
それ以外は、訴訟費用は各自の負担である。
なお、アメリカ合衆国では、片面的敗訴者負担の制度が採用されており、
イギリスでは当然のこととして敗訴者負担の制度が採用されている。
片面的敗訴者負担とは、大企業や国家機関が敗訴した場合は、
例外的に敗訴者負担を認める制度である。 ADRとは、調停などのように、裁判以外の方法によって紛争を解決させる制度の総称である。
調停前置主義が採用されている家事事件などを除き、必ずしもADRを利用する必要はない。 ADRの中には、調停と仲裁が含まれる。
仲裁とは、裁判官ではない者に裁判官としての権限を与え、
彼に紛争についての裁定を下させる制度である。
この裁判官としての権限を与えられた者を仲裁人と呼ぶ。
当事者は、必ず仲裁人の裁定に服従しなければならない。
なお、片方の当事者が勝手に仲裁を開始することはできず、
必ず相手方の同意を得なければならない。
すでに訴訟が始まっている場合でも、途中で仲裁に切り替えることは可能である。
調停とは、調停主任と呼ばれる裁判官と、
二名の調停委員によって構成される調停委員会の下、
当事者がとりあえず紛争の解決の糸口を探す手続きである。
名目的には調停に拘束力は認められていないが、
実際には17条決定と呼ばれる決定によって拘束力が発動されている。
17条決定は、2週間以内に異議の申立が行われなければ、確定的な判決として扱われる。
それまでに異議が申し立てられた場合は、遡及的に拘束力を失う。
それぞれ民事調停法・家事審判法と仲裁法によって規定されている。 遺産相続に関する紛争は、意外にも家庭裁判所ではなく地方裁判所で扱われる。 胎児と人の区別の基準には全部露出説と一部露出説があるが、
民事法では全部露出説が通説であるにもかかわらず、
刑事法では一部露出説の方が有力である。
出生に関する限りは、刑事法の方が人の定義が広い。 権利能力は万人に認められるが、行為能力は一部の者には認められない。
権利能力は私権を享受する資格であり、
行為能力は実際に法律行為を行う資格である。 離婚訴訟のような例外が多すぎるために混乱があるが、
裁判とはあくまでも権利と義務の確認を行う手続きに過ぎず、
普通は判決が遡及的に何かの法律行為の有効・無効を形成することはできない。
したがって、裁判が行われている場合であっても、
違法な行為は違法なのであり、合法な行為は合法なのである。 ある事件において判決が下ってから新しい証拠が発見された場合、
刑事被告人の側からは再審の請求ができるが、
検察官は再審を請求することができない。
また、民事訴訟においては、新しい証拠の発見によって訴訟をやり直すことは、
一切認められていない。 法律には普通は附則が付けられるが、この附則に期限が定められた法律を限時法と呼ぶ。
限時法の場合でも、本来の期限より前に立法機関が廃止することは可能である。
なお、限時法の「……までに廃止するものとする」という規定に実効力はない。
そもそも、「……するものとする」という文言自体に拘束力がない。
そのため、普通の限時法は「……までに効力を失う」という書き方をしている。 国家からの自由は自由権であり、
国家への自由は参政権であり、
国家による自由は社会権である。 公正証書には金銭以外の債権は書けない。
物品の譲渡や労働力の提供に関する記述は実効性なし。 権利の濫用は、戦前から判例法によって禁止されていた。
相手を害するために行う権利の行使は、ローマ法でもシカーネと呼ばれて禁止されていた。
もっとも、日本における権利の濫用の概念は、シカーネよりも範囲がかなり広い。
たとえば、個人の利益ではなく公益を侵害する行為も権利の濫用として扱われる。 国会の各委員会は、内閣や議員と同じように、独自に法案を提出することができる。
法案は本会議の前に委員会で審議されるのが原則だが、
緊急を要するものについては、発議者か提出者の要求があれば、委員会での審議が省略される。
そのため、全ての法案が委員会で審議されるわけではない。
なお、内閣が提出する法案は例外なく内閣法制局が審議する。
その後に委員会に送られる。 内閣が制定する政令と省令には、法律の委任がなければ罰則を設けられないが、
法律の委任がある場合には罰則を設けても構わない。
これに対して、地方公共団体が制定する条例と、その長が定める規則については、
上限はあるものの、一応は法律の委任なしに罰則を設けることができる。 都道府県や市町村の他、東京都の特別区と、
複数の市町村の連帯による広域連合も、条例を制定する権利を有する。
いづれの場合にも、法律または政令に違反する条例は無効である。 民事事件の判決書には訴訟代理人たる弁護士の名前を記載するのが慣習だが、
実は明文の規定は存在しない。一方、法定代理人の名前は記載が義務付けられている。
また、民事・刑事を問わず、法人が当事者となった場合には、必ず代表者の名前が記載される。
国が被告となった場合には、法務大臣の名前が代表者として記載される。
国は原告になれない。 日本の制定法には、憲法、法律、政令、省令、規則がある。
政令は内閣が定める。
省令は国務大臣が定める。政令と矛盾してはならない。
命令は政令と省令の総称であり、内閣が定める。
規則は、国会と内閣以外の公的機関が定める。
具体的には、最高裁判所、衆議院、参議院、人事院、会計検査院、知事などが制定できる。 違憲立法審査はアメリカ合衆国で初めて確立された。
マーベリー対マディソン事件は、これを根拠付けた19世紀の判例法である。
ドイツでは形式的法治国家、実質的法治国家という言葉が使われている。
形式的法治国家とは、法律上の根拠があれば、いかなる行為も、
例えば基本的人権の制限なども認められるとする国家である。
実質的法治国家とは、法律によっても侵害できない規範の存在を認める国家であり、
自然法思想の影響を受けている。
現在のドイツでは、実質的法治国家を支持する意見が有力である。 先進国の場合、国際法については、ウィーン条約と呼ばれる条約に従うことになっている。
このウィーン条約は、国際法の中では最高の価値を認められている。
国際法の世界では慣習法は当然のこととして認められている。
条約の中には、行政取極と呼ばれる類型が存在する。
行政取極は、議会の承認を得ずに確定的に締結することが可能である。
なお、訳語の非対称性などの関係から、
条文の解釈は文理解釈ではなく目的論的解釈によるべきとされる。
ウィーン条約、行政取極、文理解釈の否定 戦前の日本では、附帯私訴といって、
刑事裁判において被告人に被害者への損害賠償を支払わせる判決を下すことが可能であった。
しかし、現在は刑事法と民事法の峻別の観点から、附帯私訴は否定されている。
これとは逆に、アメリカ合衆国では、民事裁判の中で罰金刑を下せるという、
懲罰的損害賠償の制度が存在するが、日本では否定されている。
懲罰的損害賠償における罰金は、国庫ではなく被害者がそのまま受け取る。
なお、刑事事件の被害者が刑事裁判の記録を閲覧し、
損害賠償を求める民事裁判で証拠として援用することは、
民事法と刑事法の峻別の観点に矛盾せず、可能である。
附帯私訴、懲罰的損害賠償、民事裁判における刑事裁判の記録の援用 訴訟記録の閲覧は、当事者に限らず誰でも可能である。
プライバシーや国家機密に関する部分を除いて、塗りつぶしはなされない。
民集や刑集に記載されていない記録も、当然に閲覧できる。
これらは、法廷の公開の一環として位置付けられている。
刑事裁判の記録は検察庁、民事裁判の記録は裁判所が保管する。 裁判例には事件番号と符号が書かれる。
事件番号とは、元号何年の何番目にその裁判所に送られたかを示す番号である。
符号とは、その裁判例が扱った訴訟の種類を表す記号である。
符号の詳細は符号規程と呼ばれるもので定められている。 判例集に記される判決要旨は、判例委員会と呼ばれる公的な機関が決定する。
ただし、判決要旨が必ずしも後世にまで影響を及ぼす判例法となるわけではない。
判決要旨には参考程度の意味しかない。
レイシオ・デシデンダイとは、判決文のうち極めて重要な部分を指す呼称である。
レイシオ・デシデンダイは基本的に判例法として扱われる。
永山基準などがレイシオ・デシデンダイの代表的な例である。
判決要旨の中にも、レイシオ・デシデンダイとなる箇所がないわけではない。 地方裁判所や高等裁判所は判例に拘束されるものとされるが、
判例の無視を禁止した明文の規定は存在せず、罰則も定められていない。
よって、判例と矛盾する裁判例が登場することもある。
ただし、現実にそのようなことが起こるのは稀有である。 最高裁判所には小法廷が三つあり、それぞれ五人の裁判官が訴訟を担当している。
大法廷では、この十五人の裁判官が一堂に会して裁判を行う。
裁判を大法廷で行うか小法廷で行うかは最高裁判所の自由だが、
憲法に関する裁判と、判例の変更を伴う裁判は、大法廷で行わなければならない。
なお、大審院の判例を変更する裁判は、小法廷で行ってもよい。
大法廷での裁判は、最低で九人の裁判官が参加しなければならない。
結論は多数決によって決定される。全会一致の原則はない。
ただし、違憲立法審査を行う場合は、最低でも八人が賛成しなければならない。 刑事裁判の上訴において、被告人は不信な裁判官を忌避することができるが、
要件が厳格であるため、滅多に利用されることはない。 弁理士は特許に関する訴訟において、司法書士は簡易裁判所での訴訟において、
それぞれ弁護人として活動することが認められている。
一方で税理士は、それが租税に関する訴訟であっても、弁護人としての活動はできない。
ただし、弁護士の助言者として活動することは可能である。
なお、弁護士は弁理士・税理士・司法書士としての業務を当然に行えるとされる。 限時法の追及効とは、罪刑を定めた限時法において、
その限時法が施行されている期間に行われた犯罪については、
限時法が効力を失っても処罰できるとする効果のこと。
明文で規定されていない限りは限時法は追及効を持たないが、
逆に言えば、そのような規定を持つ限時法を国会で成立させることは可能である。
このような限時法は罪刑法定主義に反しないとされる。 罪刑法定主義の例外その一。類推適用は必ずしも禁止されない。
類推適用の禁止は、被告人に不利な類推適用のみを禁止しており、
被告人に有利な類推適用は問題ないとされる。
罪刑法定主義の例外その二。慣習法は必ずしも禁止されない。
慣習法の禁止は、法源として慣習法を持ち出すことを禁止しているだけであり、
条文を解釈する際に条理や慣習を持ち出すことは不当ではないとされる。 訴訟要件とは、そもそも裁判を開始するための前提となる要件である。
具体的には訴訟能力や原告適格が含まれる。
訴訟要件を満たしていないために訴えの提起が否定されるのが却下であり、
訴訟要件を満たしているが、裁判官の判断によって訴えの提起が否定されるのが棄却である。
裁判を起こす権利は万人に認められているが、
相手方を金銭的・時間的に困窮させることを主な目的として訴えを提起した場合、
不法行為による損害賠償を請求される虞がある。 刑事裁判においては、構成要件該当性の是非のみならず、
違法性阻却事由や有責性阻却事由の不存在についても、
挙証責任は被告人ではなく全て検察官が負うことになっている。 契約の成立のために、原則として契約書の作成は不要である。
双方の当事者の意思の合致があれば足りる。
この原則に合致する契約を諾成契約と呼ぶ。
例外的に、国が締結する随意契約や、要物契約は、意思の合致のみでは成立しない。 心証形成とは、ある裁判の争点に関する事実主張の真実性の程度を確かめることである。
刑事被告人に対する裁判官の同情という意味で使うのは、誤用である。
個々の訴訟において、個々の裁判官が抱く真実性の確信の程度を、心証度と呼ぶ。
一方、民事裁判・刑事裁判それぞれに定められている、
事実の確定に必要な心証度の一定の基準を証明度と呼ぶ。
民事訴訟では「高度の蓋然性」、刑事訴訟では「合理的な疑いを入れない程度」が証明度である。
裁判では、心証度が証明度を超えた時に初めて事実の確定が行われるとされる。
自由心証主義とは、裁判官が心証度の増減について何者にも拘束されない原則のことである。
心証形成、心証度/証明度、自由心証主義 実体的真実主義とは、経験則と乖離している当事者の主張は事実として認めないという立場である。
形式的真実主義とは、当事者の主張を絶対的な真実として看做す立場のことである。
民事訴訟は形式的真実主義を採用している。刑事訴訟は実体的真実主義である。
もっとも、刑事訴訟でも形式的真実主義の要素は取り入れられている。 信義則と権利濫用の禁止の原則は、ともに民法1条に定められている。
両者を総称して一般条項と呼ぶ。
判例は、一般条項を根拠として以下の法理を確立させてきた。
権利失効の原則とは、債権者が久しく権利を行使するそぶりを見せなかった場合、
時効が成立していなくても権利の行使が認められなくなるという原則である。
事情変更の原則とは、特殊な事態が発生して以前の契約が履行できなくなった場合、
契約の内容が変更され得るという原則である。
この他、数日後に行われる契約について、それに締結する意思を見せながら、
当日になって不当に契約の締結を拒むのは、不法行為に該当する。
他人が所有する未登記の不動産を強奪するためだけに、
悪意をもってその不動産を本来の持ち主より先に登記しても、その登記は効力を持たない。
なお、権利失効の原則も事情変更の原則も、実際に適用されることは滅多にない。
信義則、一般条項、権利失効の原則、事情変更の原則 憲法25条では生存権について定められている。
しかし、判例は、憲法25条をプログラム規定として解釈している。
その解釈が示されたのが、朝日訴訟、堀木訴訟と呼ばれる二つの訴訟である。
朝日訴訟とは、ある貧民の老人が、国から支給される支援金の額が低すぎるとして起こした訴訟である。
彼は生活保護法という、救貧法のような法律を頼りに暮らしていた。
堀木訴訟とは、盲目にして母子家庭の母親であった原告が、
障害福祉年金と児童扶養手当の併給の禁止の合憲性を争った訴訟である。
どちらの訴訟においても原告は敗訴している。
ちなみに、朝日訴訟の朝日とは原告の老人の名前であり、朝日新聞社とは関係がない。
憲法25条、生存権、朝日訴訟・堀木訴訟、生活保護法 民事訴訟においても刑事訴訟においても、一定の条件が揃えば、
地方裁判所が下した判決に対する不服を、
高等裁判所ではなく直ちに最高裁判所へ訴えることができる。
これを、民事訴訟では飛躍上告、刑事訴訟では跳躍上告と呼ぶ。
飛躍上告の場合は、原告と被告との間に合意があり、
事実について第一審で完全に確定していれば、これを行うことができる。
最高裁判所は事実審を行えないため、事実が確定していない場合は飛躍上告を行えない。
飛躍上告の条件を満たさない場合は、通常どおり高等裁判所への控訴となる。
跳躍上告の場合は、やはり検察官と被告人との合意が必要である。
さらに、第一審で、法令が憲法に違反するとの判決が下った場合、
または、条例が法律に違反するとの判決が下った場合にのみ認められる。
それ以外は、たとえ事実が確定していても高等裁判所への控訴をしなければならない。
飛躍上告、跳躍上告 既判力とは、原審が下したある事柄への判断に対して、
当事者も上訴先の裁判所も完全に拘束される効力のことである。
既判力のある判断については、後の裁判で争点とすることができない。
無論、判決の全てに既判力が認められるわけではない。
刑事訴訟の世界では、この言葉は一事不再理の効力という意味で久しく誤用されてきた。
用語法の不統一による混乱を避けるため、
現在では既判力という言葉はもっぱら民事訴訟にのみ用いられている。
既判力 日本では、裁判所が刑事被告人に対して無罪の判決を言い渡した場合、
検察官はこれを不服として上訴することができる。
しかし、コモン・ローの世界では、ひとたび被告人に無罪の判決が下れば、
検察官は上訴できないと定めている国が多い。 物権法では、所有権にも占有権にも該当しない物権の存在が定められている。
このような物権を制限物権と称する。
制限物権は、さらに用益物権と担保物権に分かれる。
用益物権とは、他人の土地を自分の土地のごとく使用できる権利である。
地上権や永小作権などが用益物権である。
担保物権とは、債権者が債務者の所有物を一定の範囲内で支配できる権利である。
質権や抵当権などが担保物権である。
制限物権、用益物権/担保物権 憲法学の世界では二重の基準論と呼ばれる学説が有力である。
国民の精神的自由を制限する法令を制定するためには、
経済的自由の制限に必要な基準よりも更に厳格な要件が求められるという学説である。
経済的自由よりも精神的自由を特に保護すべきだという考え方に基づいている。 地方裁判所、簡易裁判所、家庭裁判所では、
民事訴訟のみならず、刑事訴訟であっても、
弁護士ではない者が弁護人になることがある。
しかし、刑事訴訟において弁護士でない者が弁護人になるためには、
必ず裁判所の許可を要する。 国務請求権とは、国民が国家に積極的に関与できる権利のうち、参政権を除いたものである。
具体的には、請願権、国家賠償請求権、裁判を受ける権利が含まれる。
請願権は請願法、国家賠償請求権は国家賠償法で規定されているが、
憲法においても明文で保障されている。 比較衡量論とは、憲法学における学説の一つである。
ある法令が合憲か違憲かを判断する際の基準とされる。
その内容は、「ある人権を制限することで得られる利益が、
人権の制限によって失われる利益より大きい場合、人権の制限が許される」というものである。
人権の制限を認める根拠として、判例が好んで採用している。
学界の有力説は、比較衡量は事件ごとに個別的・具体的な状況に応じて行われるべきで、
一般的・抽象的な比較衡量は許されないと解釈する。
また、個人の利益同士の比較衡量のみが許され、
個人の利益と公共の利益の比較衡量は認められないとする解釈が有力だが、判例は無視している。 相対的猥褻概念とは、ポルノの合法性を争う際に援用される概念である。
判事の田中二郎が、ポルノを違法とする最判への反対意見として述べた。
「明らかに猥褻な内容を含む文書であっても、芸術性や思想性が高ければ、違法ではない」
というのが相対的猥褻概念の趣旨である。
ポルノを一律に規制しようとする勢力へのトーチカである。 財政民主主義と租税法律主義。
行政権を行使するのは内閣だが、行政の資源となる予算を決めるのは国会である。
この原則を財政民主主義と謂う。これにより、ある程度は内閣の暴走が抑えられる。
国民に対して新たに税を課すためには法律の根拠が必要である。
この原則を租税法律主義と謂う。 モンテスキューは『法の精神』の中で三権分立について述べた。
しかし、この書物自体は三権分立の重要性を説くものではない。
三権分立についての文章は余談に過ぎない。
また、モンテスキューはイギリスこそ三権分立が実現した社会であると述べたが、
これはモンテスキューの完全な誤りである。
絶対主義を採用しているフランスに比べれば、当時のイギリスでは三権が分かれていたが、
客観的に見れば、当時のイギリスにも三権分立は存在しなかった。 日本国憲法で保障されている自由権は、
内心の自由、表現の自由、経済的自由、人身の自由に大別される。
このうち、人身の自由を規定しているのが憲法18条と憲法31条である。
憲法18条の内容は、奴隷的拘束の禁止である。
通説によれば、徴兵制の導入は憲法18条によって禁止される。
更に、憲法18条は例外的に、国家のみならず国民も拘束するので、
資本家が労働者をあまりにも不当な環境で労働させる行為も直ちに無効となる。
憲法18条が人身の自由の実体を規定するのとは別に、
憲法31条は手続きの側面から人身の自由を保障する。
この条文によれば、国家が国民の自由を剥奪するためには法律上の根拠が必要とされる。
また、これは、法律で認められていることなら何をしても構わないという意味ではなく、
実質的法治国家の原理に従わなければ、国家は国民の自由を奪えないという意味だと解される。
そのため、不当に人身の自由を侵す虞のある手続法も、違憲として無効となる。 もしもある法律が違憲であると最高裁判所によって判示された場合、
その法律は直ちに無効となるのか、それとも即時的には無効にならないのか。
学説には次の三つが存在する。
一般的効力説は、最高裁判所で違憲とされた法律は直ちに無効になるという説である。
個別的効力説は、判決の元ネタと類似の訴訟に限って、無効と看做されるという説である。
法律委任説は、国会が正式に廃止の手続きを取るまでは、依然として有効であるという説である。
日本での有力説は個別的効力説である。
一般的効力説は三権分立の原理に反し、
逆に法律委任説は三権の相互抑制が形骸化するためだと説明される。
一般的効力説/個別的効力説/法律委任説 憲法の前文は、立法府を拘束するが司法府は拘束しない。
すなわち、憲法の前文に違反する法律は禁止されるが、
国民が憲法の前文を根拠にして訴訟を提起することはできない。
憲法の前文で規定されているのは、国民主権、基本的人権、平和主義の三原則なので、
上記は、三原則を無視した法律は無効であると換言できる。
なお、憲法の前文が拘束するのは法律や条例だけではない。
憲法自身も憲法の前文に拘束され、改憲によって三原則を無視した憲法を制定することはできない。
憲法の前文では保障されているが本文では保障されていない人権に、
平和的生存権と呼ばれるものがある。
かつて、長沼ナイキ事件を巡る訴訟で平和的生存権の保障の有無が争われたが、
憲法の前文は司法府を拘束しないという原理のもと、棄却された。 国家行為の法理とは、アメリカ合衆国で確立した憲法学の法理の一つである。
日本の学界では間接適用説を克服するものとして注目されているが、
判例は未だに採用していない。
これは、国家が行う違憲の行為に対しては、
それが事実行為か法律行為かを問わず、直ちに無効となるという法理である。
また、国家同視説といって、国家行為の法理は国家それ自体のみならず、
公的な性質を有する団体にも準用されるとする見解がUSAでは有力である。
日本で国家行為の法理と国家同視説が採用されれば、
女性専用車輌が違憲と判断される可能性が高まる。 日産自動車事件とは、企業が男性社員の定年を女性社員より長く設定することが
違憲か否かが争われた訴訟である。
最高裁判所は、男女別定年制は違憲であるとして企業を敗訴させた。
しかし、この判例は、憲法14条ではなく民法90条に基づいて違法の判決を下しており、
男女問題については直接適用説が妥当であると判示したものではない。
なお、夫婦の平等(憲法24条)については、私人間効力が当然に認められるとされる。 憲法83条は財政民主主義、憲法84条は租税法律主義を定めている。
この両者が日本の財政の根本的な原理である。
財政に関する憲法の規定としては、この他に、予算の作成と、公金の支出の禁止が重要である。
これら四つは何れも日本国憲法の第七章に規定されている。
公金の支出の禁止は、宗教団体などに対して助成金を与えてはならないという原理である。
宗教団体に対する助成の禁止は政教分離の原理にも合致し当然であるが、
この原理は宗教団体のみならず、ボランティア団体や教育団体に対する助成も禁止している。
なお、私立学校に対して助成金を与えるのは、現在の日本では当然となっているが、
公金の支出の禁止の原理を厳密に解釈すると、違憲の疑いがある。
宗教団体の定義については既にレイシオ・デシデンダイがある。
それによれば、特定の宗教に基づいていても、礼拝や布教が本来の目的でなければ、宗教団体には該当しないとされる。
これは、かつて日本遺族会への献金の合憲性をめぐる訴訟において示された。
日本遺族会とは、太平洋戦争で戦死した英霊を祀ることを目的とする日本の右翼団体である。 予算案は内閣が作成し、国会がこれを修正して実効力を与える。
これは憲法86条によって規定されている。
国会は、予算案を自由に減額修正することができる。
これに対して、内閣が設定しなかった項目を新たに設け、
国庫の支出を増やす増額修正については、合憲か違憲か争いがある。
どちらかといえば合憲とする学説が有力である。
これとは別に、予算法形式説と予算法律説の対立が存在する。
予算法形式説とは、予算は法律とは別の法規範であって、
法律とは異なる原理によって拘束されるとする学説である。
予算法律説は、予算は法律の一種であって、法律と同じ原理によって拘束されると説く。
予算と法律の性質の相異は明白であるため、予算法形式説が妥当である。 検閲の禁止は日本国憲法で定められているが、
判例は検閲の概念を非常に狭く解釈し、事実上の検閲をかなり広く認めている。
例えば、税関によるポルノの輸入の規制や、教科書検定と称する思想の検閲が、現実に行われている。
有名な訴訟として、北方ジャーナル事件と家永教科書裁判がある。
北方ジャーナル事件は、ある知事選挙の候補者を批判した雑誌が、
名誉毀損に該当するとして発禁となった事件である。
通常、政客を批判する行為は名誉毀損にはあたらないため、問題となった。
家永教科書裁判とは、家永三郎が執筆した日本史の教科書が、
その思想的な偏りのために、教科書検定に不合格となった事件である。 思想・良心の自由は、憲法19条で保障されている。
これは当然、内心の自由を保障したものであるが、実体はそれに留まらない。
自分が如何なる思想を抱いているかを黙秘する権利も、思想・良心の自由に含まれると解されている。
そのため、いくら結果次第で差別する意思が無かったとはいえ、
踏み絵などの制度を復活させることは禁止される。
三菱樹脂事件、および麹町中学校内申書事件は、これが争点になった訴訟である。
両者とも、学校がある卒業生について、企業や進学先の別の学校に対して、
「彼は過激派に所属しているので注意せよ」という旨の告知を行った事件である。
どちらも最高裁判所で敗訴している。
特に、三菱樹脂事件では、憲法19条は私人間には適用されないという判決が下った。
なお、麹町中学校内申書事件での原告は、社会民主党の保坂展人である。
これとは別に、謝罪広告を強制することが可能か否かが争われた訴訟も有名である。
判例によれば、それが単なる謝罪に留まるのであれば、代替執行が可能であるという。 戦前の日本では国家神道が国教であった。
信教の自由は大日本帝国憲法でも保障されていたが、
国家神道を否定する宗教には弾圧が加えられた。
日本国憲法の20条は、信教の自由だけではなく政教分離の原則も定めている。
なお、信教の自由には、嫌いな宗教を信仰しない消極的な自由も含まれる。
信教の自由は、信仰の自由と礼拝の自由の二つに分かれる。
信仰の自由は信じる宗教を選ぶ自由であり、
礼拝の自由は、宗教行為を実践する自由である。
信仰の自由は完全に禁止されているが、礼拝の自由は場合によって規制され得ると解されている。
オウム真理教のような危険な教義を持つ宗教については、
信仰の自由は無制限に認められるが礼拝の自由は完全には認められない。
礼拝の自由が争われた有名な訴訟には、牧会活動事件、剣道実技拒否事件がある。
牧会活動事件は、犯罪者の少年を匿った牧師が犯人秘匿罪に問われた事件で、
剣道実技拒否事件は、高校で剣道の授業を忌避したエホバの証人の信者が退学させられた事件である。
珍しく両者とも原告が勝訴している。 政教分離の原則を適用する際に、
ある国家行為が政教分離の原則に反するか否かを審査する基準がある。
それが、目的・効果基準と呼ばれるものである。
目的・効果基準は、提唱者の名前から、レモン・テストとも呼ばれる。
目的・効果基準とは、
問題となる国家の行為は、宗教を支援・抑圧する目的を有していたか、
結果的に宗教を支援・抑圧する効果を生み出すことになったか、
そして最後に、政教分離の原則自体を脅かす虞があるか、
という三つの基準によって、国家の行為を審査するものである。
このうち一つでも該当するものがあれば、国家の行為は違憲となる。
政教分離の原則については、岩手靖国訴訟、愛媛玉串料訴訟が知られる。
どちらも、靖国神社への公人の参拝は政教分離の原則に反するという趣旨の訴訟である。
岩手靖国訴訟の方は、上告棄却であって、最高裁判所自身がこの判断を示したわけではない。
愛媛玉串料訴訟では、最高裁判所が自ら、靖国神社への参拝は違憲であると判示した。
上の二つとは別に、津地鎮祭訴訟も有名である。
津市が主催する地鎮祭に公金が使われたことを不服として起こされた住民訴訟である。
最高裁判所は、政教分離の原則にも例外はあるから合憲であるとした。