>>116
どうなのかなあ…、正直 >>107 で見られるような通分ができない文系大学生というのは、通分という日常生活で必要な知識を学び直そうともしないという印象を持ちますが。

私自身、偏差値が低い文系大学を出ていますが、学力をはじめとする能力がいくら低くても最低限やらなきゃならないことがあるということぐらいは、やはり分かっていないといけません。また、そんな中で自分がどう生きていくかを考えることも必要です。

で、学校は何のためにあるのか…。授業は何のために受けるのか。
私が少し思ったのは、学校というのは、生き方を学ぶ意味もあるし、授業は一種の目から鱗を落ちる一言を聞くための時間ではなかろうかと。
複雑な計算式を解くことを自分のレベルに合った授業で学べたら、それはそれで大変良いことではありますが、それだけでは授業としてやや物足りないような気もします。
石の上にも3年とはよくいったもので、自分が気に入らない面を持つ学校も卒業を迎えるころになると良さが分かるようになります。
特に学生・生徒の性質上の良さについては。これは単純なからくりで、人間誰もが長所を持っているので、見ようと思えば見えてくるということですが。

定時制の良さは、やはり多くの人々が持つ人間性に触れられることかなあと思います。学力はそれに付随して身に着けるものと申しましょうか。
例えば、ある先生に出会って、ある教科が好きになった。こういうことがあれば、無味乾燥に学力が上がることの何倍もの意味があります。学力は一生を通じてあげていけばいいわけで、好きなら日常生活を過ごしていくなかで自然と上がっていきます。
学校選択を考える上では、こういう点もぜひ考えた方が良いと私は思っております。

お節介ながら失礼しました。ほかにも金銭や時間等の要素もありますので、通信制などを含めた幅広い検討もされるのも良いと思います。ベストな結論ができることを私としてもお祈り申し上げております。