ウィキは目立ちたい人が勝手に自説書いてたりするから信用半分で見ないとダメ。
ツイッターでフラワーとは?を訊かれた話が出ていたが加筆してみると、
山口国男と太田義夫が交遊あり、1970年代最強だった群馬軍団に対抗する為に地区違いながら千葉ー東京で組んだのが始まりで、まだ中野のデビューする前。
その後数年間は世界選手権組の阿部良二、菅田順和、高橋健二、中野浩一らが一気のカマシ、捲りで特別を席巻し、東京ー千葉ラインは一旦鎮静化。
しかしダービー決勝で山口国男の弟健治が兄を勝たせる先行を見せ再び人材が増え出し、世界選手権銀尾崎ー山口健治ー山口国男ー吉井で復活。
1980年中野一億円獲得ショックで翌年から東日本が一斉にフラワーラインに参加し中野独走を阻止しタイトルを回し合った。
これは東西団体ラインでフラワーラインとは別物と言えるだろう。
その後清嶋、滝沢というスーパー地脚が出たので1985年頃からは東京千葉別線で戦えるようになった。