アニマル浜口(アニマルはまぐち、1947年8月31日 - )は、日本の元プロレスラーでボディビル指導者。
本名は濱口 平吾(はまぐち へいご)。

島根県浜田市出身。父親が事業に失敗したため、小学5年生の時(1958年)、母親と妹と一緒に親戚の住む大阪府堺市へ移る。
中学卒業後は家計を助けるため、高校進学を断念。工事現場を転々とする毎日だったが、その間に重機の操縦免許を取得する[1]。
国際プロレス時代

1964年に、17歳でボディビルを始め、1969年にミスター兵庫コンテスト準優勝を受賞。同年8月にボディビル界との繋がりが強かった国際プロレスに入団、プロレスラーに転向する。
デビュー戦は同年9月20日の岡山県高梁市民会館における対本郷清吉戦で、
反則負けを喫している[1][2]。後にパートナーとなるマイティ井上も、同じボディビルジムに通っていた[1]。

浜口には格闘技の経験がなく、身長も180cm未満でレスラーとしてはけっして恵まれた体格とは言えなかった。だが当時の国際プロレスにはカール・ゴッチやビル・ロビンソンといった、後に名コーチとしても名を馳せるレスラーが出入りしており、
彼らから基礎を教わることでレスラーとしての礎を築く。またテクニシャンで知られる同門の寺西勇やマイティ井上の動きを見習い、頭脳的(ときに狡猾)なプレーを自らのものとする。1970年にはリングネームをアニマル浜口に改める[1]。

1972年にはディック・ザ・ブルーザーが主宰するアメリカ・インディアナポリスのWWAへ遠征。ヒゴ・ハマグチをリングネームに、
ミツ荒川のパートナーとなってヒールのポジションで活躍し、ブルーザー、ウイルバー・スナイダー、カウボーイ・ボブ・エリス、
ムース・ショーラック、セーラー・アート・トーマスなどのトップスターと対戦した[3][4]。

1973年の帰国後は国際プロレスのメインイベンターの1人となり、同年7月9日には大阪府立体育館にてバディ・ウォルフを相手に金網デスマッチに初挑戦したものの[5]、しばらくタイトルには恵まれず、1976年に二度目の海外遠征に出発。
カナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングではリッパー・コリンズをマネージャーに迎え、ミスター・ヒトと組んでインターナショナル・タッグ王座を獲得[6]。プエルトリコのWWCではゴードン・ネルソンをパートナーに、
アントニオ・ロッカ&ミゲル・ぺレスから北米タッグ王座を奪取した[7]。

1977年、IWAワールド・シリーズの第6回大会に合わせて帰国したと同時に、心機一転コスチュームをワンショルダータイツに変更。
ワールド・シリーズと同時開催となったIWA世界タッグ王座争奪トーナメントでは寺西勇とのコンビで出場し決勝まで進出。3月25日に行われた決勝でビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘスに敗れIWA世界タッグ王座獲得を逃したものの[8]、
翌3月26日、付き人を務めていたグレート草津との新コンビでクイン&ヘスを破りIWA世界タッグ王座を獲得[9][8]。以降、ワイルド・アンガス&マスクド・インベーダー(プリティボーイ・アンソニー)、ジプシー・ジョー&キラー・トーア・カマタ、
カウボーイ・ボブ・エリス&ザ・キラーなどのチームを下して王座を防衛し、末期国際プロレスの中心選手として活躍した。

1978年1月5日にザ・サモアンズ(アファ&シカ)に王座を奪われるが、
3週間後の1月20日に草津とのコンビで奪回[10]。以後、1979年1月21日に新日本プロレスのヤマハ・ブラザーズ(山本小鉄&星野勘太郎)に敗れるまで、
アレックス・スミルノフ&ミスター・ヒト、スミルノフ&ジ・アトミックなどを相手に4回防衛した。1979年2月23日に同郷のマイティ井上との新コンビでヤマハ・ブラザーズから王座を奪回[9]。
井上とのチームでは、これ以前に全日本プロレスとの交流戦でアジアタッグ王座も獲得しており[11]、和製ハイフライヤーズ(オリジナルのハイフライヤーズはAWAのグレッグ・ガニアとジム・ブランゼル)、
浪速ブラザーズなどと呼ばれた名コンビだった。このコンビではザ・サモアンズ、上田馬之助&マサ斎藤、大木金太郎&上田、ジプシー・ジョー&キラー・ブルックス、
ジョー&キラー・カール・クラップ、マイク・ジョージ&ボブ・スウィータンら強豪チームを退けて王座を防衛している。
1979年11月14日の上田&ヤス・フジイや1980年7月25日のスパイク・ヒューバー&ロッキー・ブリューワーとの防衛戦は、金網タッグ・デスマッチで行われた[10]。