堀木博禮先生晩年は気の毒だった。
原秀行に「堀木の子守唄」と揶揄されて
教務部も酒井・田村・笹井を売り出したかったから
わざと向かない私立文系の下位クラスLH・LJの担当に回す。人気急降下。
単科ゼミも消滅。失意の内に亡くなられた。