懐かしの川越線
電化されたくらいで今も昔も変わらないぜ。南古谷付近。 俺鉄道オタクなんだけど
関内音みたいな嫁さんゲットするにはどうすればいい? 「日進駅を通る赤い車両」を語るスレは、ここですか?
開通したおかげで、名古屋都心部へのアクセスが便利になった。 武蔵高萩の古めかしい駅舎と駅前広場
マニア様御用達のレイアウトだったが。。 >>8
1990年頃まで白熱灯だったのもポイント高し 川越線を初めて利用したのは中学1春の川越・大宮間。
友達と大宮で開催された春の高校野球関東大会(上尾VS前橋等)を
観に行った。
東上線は間違えて川越駅を通り過ぎて川越市駅まで行ってしまい
駅員に指摘されて川越駅に戻った。 川越と川越市の誤乗降は昔から多かったらしい
別駅であることをもっと分かりやすく命名できたらよかったのだが。 であれば、現川越を新川越とでもしないと紛らわしいような。
しかも、JRの方が東武よりも開業が後だったりするけど、新山口の例があるからいいか。 タラコ色のキハ35が5連くらいで走ってた。
たまに二色塗りが挟まったりと。
行先幕の表示もバラバラで、電車にくらべてルーズな印象だったわ キハ391とか新型気動車のテストに使われた。大宮工場の近くだから。 東上線で遠足やハイキングに行ったとき、川越駅で国鉄の列車が来ているのを見た記憶がない。本当に走っているのか?と思っていた。
朝霞台が開業したころの話だが。 >>22
汽車ダイヤだったからな。
日中だと1時間に一本はある、って程度の本数だったから、
開業当初の武蔵野線の電車の本数と同じ程度。
増解結が1両単位でできるDCだったから、ラッシュ時は増結で対応してた。
今だと川越でダイヤが分断されてるから、折り返し列車が長時間止まって
常に何かしらの電車が停まってるイメージだけど、当時は大宮〜高麗川直通が基本だったし キハ35系の博物館って感じだったな。
キハ30・35・36の一般色から始まって900番台ステンレス、これらの首都圏色、
晩期には新潟から500番台ってのが来て35系の全種類が揃ったんじゃね?
間違ってたらご指摘・補足ヨロです(相模線色は色のバリエーションってことで...)。 凄かったのが川越駅ホーム上の転轍機、むろん手動。駅員が操作してたのにはびっくり。
また、途中駅ではタブレット交換に駅員がホームの上を自転車でかっとばしていた。 キハ35のトイレ前のクロスシートが好きだったが、夏場は特に臭いので寄り付けなかった 自転車は覚えてないなぁw
ダッシュで渡してたのは見たことがある
鉄道屋もピザデブでは勤まらないと子供心に感じたw ピザデブは見ないが、モヤシは居たぞ
たぶん仕事できないと思う ニオイ以前の問題として、特にオッサンが使うときは入る前にチャックを開けてたり、逆に用を足してトイレから出てきたときにまだチャックを開けたままで、見たくないものが視界に飛び込んでくる恐れがあるからトイレ前席には絶対に座らなかった >>27
車両も臭いが、駅のボットントイレも強烈だった
列車を待ってるが遠く離れても臭ってくるので息を止めてたことがあった >>34
あの時代、便所が強烈だったのはどこの駅でも同じだったなぁ、
でも池袋駅では有料トイレがあって、そこは掃除が行き届いて、姉などは(当時女子高生)
使っていたとか
、 便所よりも日進〜指扇間、新大宮バイパスの少し西にあった養鶏場前を通るとマジにモドしそうになるほどでいつも息を止めてた。
窓を開ける時季はもちろん、冬場でもドア隙間から臭ったなあ。
いつまであったか分からないが今は戸建てが並んでてすっかり様変わり。
生活道路がすれ違えない狭さなのはなん十年経っても変わらない大宮西部の泣き所。 駅というかそもそも沿線自体が水洗化が進んでなかっただろ? 埼玉県南地域の下水道普及が進むのが70年代後半から80年代前半頃。地域によって差があるが。
この頃は武蔵野線の北朝霞・西浦和間でも駅周辺以外は宅地化が進んでなかったような。 周囲の下水道が整備されなくても駅単独で簡易水洗はできた
でもそこまで費用をかけるほど利用客がなかったわけね 戸田辺りのドブ川は90年代半ばまで下水垂れ流しだったな どの地方でも似たようなもので、大して市街化されてないのに早くから下水が整備されてる地域と、
宅地化されてるのになかなか整備されない地域とが対照的になってる 前の方のレスにもあったとおりでキハ35を楽しむにはバラエティに富んだ顔ぶれの此処が最適だった
乗り鉄撮り鉄録り鉄で何度も訪れた思い出の路線 >>46 ただ車窓風景があまりにも単調だからな。
相模線だと相模川に沿って走る区間があるが、こっちはそういうのもないし。八高線の東飯能〜寄居間のように丘陵をぬって走る区間もない。 東京都心から手軽に出向ける距離だし、できれば電化せずにローカルムードを遺しておいて欲しかった 川越線のキハ35は真ん中のドア締切扱いはやってたっけ
「このドアーは開きません。左右のドアーをお使いください」
のシールが貼られてたのは他線区か >>21
はつかりキハ81やガスタービン試作391が初めての歩みを記したという。
見てみたかった 全線直通(大宮−高麗川)に一度だけ乗れた
昭和が平成に変わったころ
全線直通しなくなってからもう30年… 電化と共にホームかさ上げも行ったわけだよね。信号システムも近代化し、車両基地を造りと相当な変貌だよな。 >>58
思い切った投資をしてくれた
おかげで便利に使えるようになった >>61
地権者との間に入って取りまとめとかはしたけど
国鉄が土地買収してるよ 電化前を知る者にすれば、まさかこんなになるとは夢にも思わなかった。しかも単線を20m4ドア車が10連で走るなどと‥ 通勤新線の車庫として、ロッテ浦和工場の土地を売ってモナ王
っていう国鉄の当初計画がそもそも間違ってるんだよな。
車庫の問題が出てきたときに川越市が車庫用地まとめて川越線電化を勝ち取った 電化の時にヘッドマークに描かれた鳥は何の鳥か分からないまま 雁見橋とか初雁公園とか、雁と付くもの多いね。川越。 >>66
【速報】母親とママ友、創価学会員だった 赤堀容疑者「5歳児の香典は学会に渡した」 母親は赤堀に誘われ入信 福岡洗脳餓死★6
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1615433658/ 雁だったのか
鷹か鷲と思い込んでいた
鳥類に詳しくないのでなあ 子供心にはヘッドマークがとても格のあるものに見えて
地元民としてはなんとなく誇らしかった 初心者はそれから始まってやがて特急の絵入りヘッドマークへと変遷する 仙石線から移籍の103系は足回り一新でレベルアップしたが客用ドアは仙石の名残で取っ手が付いたまま >>76
キハ35は押し釦だったから退化してるが国鉄金無かったから仕方がないね
JR化後の3500番台は押し釦付きに戻った どうせいずれは新品に交換しなきゃいけないのが分かってるなら最初から純新車で良かったのに、と当時は思ってました>仙石103 とにかく電車がやって来ただけでも嬉しく感じてた
ヂーゼル車にくらべ電車は出足の良さが桁違い >>78
そう言えば川越西線に新車っていまだに来てないんだよね
>>79
電化当時踏切に注意看板立ってたなあ >>80
なにをおっしゃる、209-3000(すでに廃車)は新車で配属されましたぞ。
キハ35系はあちこちから集まったけど、もっぱら千葉から来たと記憶。その前は・・・
キハ17か20あたりだったろうか?