ここだけ宮脇俊三先生を勝手に生き返らせるスレ
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
それで、前とは違った意味での、「新・殺意の風景」なる書を著わしたりする。 JR北日本とかJR日本海とか架空の鉄道会社を登場させる。 「リニアモーターカーが”走り出す”のは、自分(1926年生まれ)が101歳になった時か」
と呟いて、やはり乗れないと落胆する。 「はやぶさ、と言えばブルートレインですな。断じて新幹線の名称なんかじゃ
ない」意外に頑固な先生。 「やはり、東北本線には在来線最長路線であって貰わなければ困る。
新幹線ができたからと言っ、て並行在来線を切り捨てるような施策は感心できない」
とか何かの本に書いたりする。 ごもっとも。18きっぷ旅行がやりにくくてしょうがない、と
種村クンも慨嘆している(?) 列車に乗った時には、OLの会話を盗み聞きする。
或いは、軽々しく女子高生に話し掛けて、警察に通報されそうになったり。 「どうも特急列車の客には変なのがいる」
って、あんたが一番そうだろ。
と突っ込まれて、返す言葉をなくす…。 しかし正体不明で、傍から見ると全く普通の人にしか見えない先生である。 タクシーに乗った時は、急いで目的地に行くよう運転手に要請するようになった。 近くで殺人事件が発生してしまい、「そう言えば怪しい乗客を乗せましたよ」などと
タクシーの運転手が先生の人相を警察に証言する。
(そんな作品、確かにあったような) 隣のヘアカール女「宮脇さんなら引っ越したわよぉ?」 そう言えば殺意の風景ってのあったが、どんな中身だったのか覚えてる人いる?TV東京でドラマ化純然たるサスペンス タクシー云々の前に、
列車が終着駅に着いたら、余計な事考えずに降りるよう心掛ける。 一見、既に発車したかに思える列車にじつはのれる、
っていう事例を探そうとする。
しかし、今は表示が「着発」になった駅も増えたし、
停車時間の長い駅については
個別に到着時刻を表示したりもするので、
自分の「スキル」を軽侮されたようで腹立てる。 一見、既に発車したかに思える列車にじつはのれる、
↓
一見、既に発車したかに思える列車に実は乗れる、
で、変換し損ないがあった。
>>68
42年前、青函連絡船内で説教垂れた、当時の青年に復讐される…。 本人は説教垂れたことなどとっくに忘れている。
相手はそもそもジジイになっていて昔の面影などなかった。 昭和53年12月17日に、筑肥線の列車に乗ってたさる中年男から、
「ワシが何をどんな順番で食おうと勝手じゃ!」
っていう抗議の手紙が届いてたとか…。
それに(上っ面な)詫びの返事書いて投函しようとしたら、
相手の住所も名前もなかった。 最長片道切符の旅・・・・・・・・・・ ちゅうこっちゃ。 次は、ウラジオストックからシベリア鉄道に乗ろうとする。 先生ならやるだろうなぁ。
お供するのは、まちさんか。 「いいか、『ロシア号』同士は1日2回擦れ違うんだぞ」
とか余計な講釈垂れて煙たがれたり…。 東京から直通できない県が増加した事に慨嘆する。
「特に、九州の中で東京へ乗り換えなしで行かれるのは福岡県だけになった。
何たる不便さか。新幹線の拡張とは一体何であるのか」
とか言って。 京浜東北線は東海道本線一族の隠し子である。いや、東京から大宮は
東北本線の隠し子、と。 乗り換え不能の駅で乗り換えたと見なすルートになるが、
まあいいではないか。
尤も、そもそも現状の最長片道ルートは、
北千住ー日暮里(ー上野)ー尾久ー赤羽
と辿るのかが問題である。 「越美北線の起点は越前花堂でいいではないか」
と、JR西日本に進言する。 JR〜東武の直通特急を目にして仰天する。
「これも、同病相憐れむという事なのか。
双方、単独では車に勝てぬと言っている
ようなものではないか」
なんて思って。 仁方、堀江がどこにある駅か、
地元民でないのに知ってる人間に出会って驚く。 仁堀航路が距離を水増ししてる実態をバラしたのはまずかったかと後悔してる。 「近頃はそれができなくなった。
盛岡―新青森間は、178.4kmと、正体を露わにせざるを得なくなった。
国鉄の頃であれば(在来線経営分離がなければ)、203.9kmと公言され、
特急料金も一段階高く設定されたところだが」
と、また”禁句”を口にしたり…。 ああ、もう93だったのか。おめでたいことである。ギリギリ大正生まれ
だったのかな。先生は。 旅先の宿で寝過ごさないよう、高機能の目覚まし時計を買っておく。 私の生後17日目(1926年12月25日)に大正天皇崩御と相成った。
この時までは、天皇崩御即新元号発足で、直ちに昭和に改元された。
それで、「昭和元年」は僅か1週間だったのである。
のような事を「新・新時刻表昭和史」なる本に書いたり…。 一週間で始まり一週間で終わりを告げた昭和の最初と最後 種村クンを見習って駅前のなんでも屋で買ったパンをもそもそとかじるも、ぞっとしない。
仕方がないので食堂を探して席についてはみたものの、世にもまずいラーメンが出てきた。
同行の編集者も、世にもしょっぱい顔をしている。
由々しき事態ではあるものの、どうすることもできない。
駅に戻って待合室で出会ったばあさまにかくかくしかじかと話すと、ばあさまは、
あの店のラーメンはまずいんですわとのたまう。丼ならまだなんとかなる由。
…と、もそもそ病が伝染る宮脇先生。 「今日では最早、寝台特急に乗って松葉ガニを味わいに出掛けるなどという事は叶わぬ。
世知辛い世の中になったものである」
と慨嘆する。 青函連絡船で供された「海峡ラーメン」の不味さを
改めて問題にしようとする。 「現在では山陰本線にも客車は走らなくなり(こんなものは何処にもないと言ってよくなったが)、
それなら、東京に近い北陸本線を利用して越前ガニを賞味した方がよい」
と思ったりする。 ワシ、カニの甲羅をパカ、と開けてそこに日本酒を注ぎ込むのが好き。
先生はどうやろか・・・・ >>100
北陸新幹線じゃなくて北陸本線なのが宮脇翁っぽいね。
駅に降り立った先生を車で迎えに行きたい。 九州へ行くに際して、都城で泊まれるように
スケジューリングする。 最長片道切符の旅、やってみたいな・・・・・・・・・・・ しかし今は、「用があっても乗りたくない国電」だらけになってる…。
それに乗り続けるのは至難の業だ。 携帯電話なる文明の利器を家族や会社から強制的に持たされ
旅の間も携帯することを義務付けられる
しかし、それほど重要とも思えない要件での電話応答やメール返信に
気を取られ、逃してはいけない列車に乗り遅れ
会話やメール内容を著書で晒しネタにし憂さ晴らしする宮脇氏 「灯子も50を過ぎたのか。どうりでパパもトシをとるわけだ」と娘に語る。 「来年は娘達にどんな年賀状を出そうか…」
と思案する。 「パパは生きている。心配するな。鉄道旅行の相談ならばパパに任せなさい」 「2人の娘のうち長女ばかりが世間に知られるようになった。
一方、次女は、小学校の時私の最長片道切符の旅についてきて、
”あの事件”を起こす羽目になった。
やはり、あの時上野をもっと早く出るべきであったと、今となっては悔やまれる…」
と悔恨の念に駆られたりする。 宮脇氏が次女を連れて上野―成田間の電車に乗ってたところ、
我孫子を過ぎた辺りで次女が「おしっこ」と言い出したという。
電車には当然トイレがなく、困り果てた宮脇氏は、木下で交換待ちする間に、
ホームで用足しさせたんだとか…。
(昭和53年11月9日) >>116
1978年11月9日って確か木曜日だよなw
鉄道で学校サボらせそれは鬼畜親だなw >>117
一応、「(成田まで)あと30分我慢せよ」
と言ったという記述はある。
子供も一旦はそれに従ったとも。
>>118
その週は、子供の学校は休みだったんだと。 いくら、父親の言に従う姿勢を見せたと言っても、
さすがに「あと30分我慢(正確にどの位の時間かは不明だが)」は無理だろう。
…というような事を、生き返った宮脇氏は回想し、
「次女には気の毒な事をした」と思いそうだ。 41年前、志布志で寝過ごして、
6:24に出発するつもりが11:54発と同じ事になったのを、
今更のように後悔する。 「『自分の娘がそんな事になったからって…』との声も上がろうが、
以上の点を勘案すると、列車のトイレは増設こそされるべきではないか。
しかるに近頃では、相当な閑散線区・長距離列車でもトイレ無が目立っている。
特急ですら、トイレのない車両も多くなった。何たる乗客軽視ぶりか」
などと本に書いたりする。 車両はあるだろ。
さすがに編成単位では???だが。 >>126
漏らしたことに腹を立て、そのまま駅のホームに娘を放置して旅を続けていたらどうなってた? >>129
185のトイレだと、あっても和式で使えないという人が結構いそう 気仙沼線に乗って志津川町に行き、
開通当時(昭和52年12月)の女子高生がどうなってるか確かめようとする。 ババ●になっている姿を確認して、虚しくフカヒレを食べつつ帰路につく先生 「考えてみれば無理もない。あの”少女”達も、今や当時の私の年齢を超えたのである」
と自らに言い聞かせてたりする。 渡良瀬川で獲れた魚をつまみに、一杯やろうとする。
地元のタクシー運転手の制止を無視して。 森高千里じゃないが勉強してほしいな。
じいさんに何を言っても無駄だろうが。 渡良瀬川は水質良くなったんじゃないかな? 娘の灯子から聞いたぞ、と先生。 年末になると、唐津―西唐津間の乗り残しを思い出す。 前述のは適切じゃなかった。
「年末になると、唐津―西唐津間の乗り残しを始末するために悪戦苦闘した事を思い出す」
が妥当か。 瀬棚線は北海道で一番最後の路線となってしまった。
あの頃は、灯子も理子も子供だったのう・・・・・・・・・ 「前述したが、その北海道完乗の帰途の青函連絡船内で深酒し、
とんだ失敗をしでかした。
特に連絡船で同室になった青年に、要らぬ節介した事は、断罪されて然るべきであろう」
などと回想する。 昭和50・51年度と、立て続けに正月に風邪で寝込んだ事を、今更のように悔しがる。 「45年前の正月、私は唐津線を、終点まであと1駅というところで途中下車した。
そのきっかけは、唐津駅前のホテルで伊勢エビを食そうとしたことだった。
しかも、伊勢エビは高くて、泣く泣くサザエにしたのだった。
これこそ自業自得であろう…。」
と回想する。 「今のような世相であれば、私は昭和51年のうちに国鉄全線完乗を果たせたであろう」
と思う。
「しかし当時は、長時間労働・休日出勤が厭われぬばかりか、”美徳”とさえされ、
私はこの年の秋以降、殆どの休日を返上させられたのである」
などと恨み言を口にしつつ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています