懐かしの天北線
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
調べたところ、意外にもスレッドが存在していませんでした。
廃止から早や30年の長い歳月が経ってしまいましたが、景色は素晴らしい路線
だったと思います。 >>592
1955年12月1日 気動車の運行開始
1956年2月26日 客貨混合列車廃止、全列車気動車化
1961年4月1日 北見線から天北線に改称 音威子府駅で販売していたバター饅頭は
美深の花月堂が製造して常盤軒が販売していた >>595
中川郡や名寄地方では評判のお菓子屋さんだよ 起点の音威子府、終点の南稚内共にキヨスクさえ消えてしまったな・・・
音威子府駅キヨスクにいたHさんは
確か駅前のお菓子屋さんや電気屋さんと兄弟の筈 天北線があった頃の沿線の人口と今とを比べると orz だもんなぁ 天北線沿いを車で駆け抜けたが、そもそも人がいない。 猿払村が唯一、微減または微増を繰り返しながら
人口約2700〜3000人の間を維持し続けているが
これもホタテのおかげかと。
総人口の何%かは中国人だろうけど。 ホタテ御殿すごかったねコリャ舐められませんわ@月曜から夜ふかし >>610
「思い出お〜い天北線」と列車の側面に書き込んで運行していたし、
主要駅に配置された記念スタンプも
「思い出お〜い天北線」だったんだよ。
ちなみに図案は音威子府がオトイネップタワーで鬼志別はサイロだった 思い出お〜いに掛けてるらしい
違和感しかないネーミングセンスなんだが 客車急行の天北があっただけで印象が全く変わる
天北線と急行天北のイメージが重なってしまうのは自分だけ? >>620
ここと名寄本線、標津線の3線が思い出お〜いシリーズ そのネーミングセンスに当時ツッコミは入らなかったのかね 読み返してみると味わい深いですね。
ホタテフライを食べたくなりました(^^ 窓を開けてボックスシートに足を伸ばし
空いた車内で弁当を食べて飲み物を飲み
タバコ吸い放題、昔は良かったな・・・ >>629
だからキハ22の車内があんなに黄ばんでたのかw タバコ吸い放題、窓からの排気入り放題に加え
壁に使用した濃い目のベージュ系内装材と暗めの照明灯
床も木板ばり、これに加えて当時は特急でも標準だった
垂れ流しトイレの効果も加わるのでキハ22に限らず、
車内は薄汚れだ様な感じだった >>632
キハ183系だって増備途中で循環式汚物処理装置搭載になったくらいだからなあ >>635
では答えましょう。
落成当時は垂れ流しだったよ。 >>632
衛生面での施策はだいたい時期で横並びやろがい
単発で聞くなんぞ無意味じゃい >>637
地上側の設備の問題もあったから意外と横並びでもないよ 猿払村のホタテ漁もそろそろ本格期だけど
昔と比べると小さくなったね
昔はキロ3個くらいが普通で食べごたえもあったが、
最近はキロ4個サイズでも上物だと。 キロが天北線を走ったことはない
↓ぽまいらの知識で反例 >>642
1970年10月1日〜1985年3月13日の間急行天北はキロ26の連結があったよ 中 頓 別 駅
微妙にダサいロゴとあのハリボテ感が萌えるのに
綺麗な建物にしなくても 急行待っててきたのがノロマなDE15牽引、昼間なのに寝台車
そこそこ客乗っていて椅子に座るのバツ悪るんだよねあの席 本土人からみると大平原に利尻富士がぽっかり浮かんで見える
サロベツ原野なんて夢のような風景
途中下車してしまったら次来るのが5時間後くらいだったけど
この風景を歩いて見たいと降りて見たら
大平原の草が人より高くて広大な景色はなにも見えなかったw 宗谷本線の利尻は近いからリアルな美しさという感じだけど
稚内ー音威子府でみる利尻富士は空に浮いてるかのような幻想世界 >>650-651
四ッ谷に音威子府そばを出す店がある >>651
畠山製麺で乾麺、生そばを販売しているし
北海道の一部スーパーでも入手可能 国鉄とJRは昭和で特定地方交通線をほぼ廃止し。青函トンネルと瀬戸大橋線を開通させた。 >>656
水道水で味が左右されるから難しいと思ふ 音威子府村の人口約700、そのうち120名ほどいる高校生は他所者だし、
実質的な人口は550人くらい。 音威子府駅1番ホームは短く
停車できるのはせいぜい2両編成の気動車だな >>662
本来のアイヌ語は「オ=トイネ=プ」、
開業時は中川郡中川村の音威子府駅だったが大正5年に分村して常盤村、
そして、駅が有名になったので、それに合わせて村名も音威子府に変えた。
元々常盤村の本村は咲来で音威子府駅周辺はほぼ無人地帯だったが、
大正元年に恩根内からここまでレールが延びて駅がつくられ、
やがて、稚内への分岐駅として機能する様になった。 >>662
もっとも稚内への鉄道は今の宗谷本線ではなく、天北線が宗谷線、宗谷本線として
大正3年に小頓別まで開業、その後、中頓別−浜頓別−浅茅野−鬼志別−南稚内と
徐々に延伸されて大正11年に先に開業、当時は南稚内が稚内を名乗り、ここが終点。
その頃の宗谷本線はまだ天塩中川止まりで音威子府と南稚内の南北から
天塩南線、天塩北線として工事が進められ、大正12年秋に天塩中川−問寒別、
翌13年に南稚内−兜沼、更に翌年には問寒別−幌延間が、そして、大正15年に
兜沼−幌延間が繋がり、音威子府は鉄道の町として栄える様になった。
中頓別町や猿払村、幌延町は南から、豊富町は北から鉄道が敷かれ、
小頓別や浅茅野、問寒別、兜沼などがそれぞれ、かつては終着駅で
町内、村内で最も長い歴史を持つ駅である事を知る人も今では少なくなった。 1986.11.1ダイヤ改正で名寄本線や日高本線、羽幌線等で急行が全廃され、
無人駅も一気に増えたが、このダイヤ改正でも急行天北が残ったし、
この時は天北線が廃止になるとは思わなかったよ。
当時は稚内や南稚内から天北線の切符を買ったり、
音威子府又は音威子府以南の各駅から天北線経由の切符を買っても
宗谷本線の売上に計上されていたので収支係数自体も怪しいものだったが
音威子府から稚内へは幌延回りと天北線回り、どちらも同等レベルだったでは? 西村京太郎氏の短編「最果てのブルートレイン」は昭和61年あたりの天北線を舞台に
繰り広げられた作品。
「行きたいなあ。乗りたいなあ」と思いながら、まだ当時10代の自分は思いながらも
その願いは叶わず。
20代になって浜頓別や猿払には宿泊。 今の鉄道地図を見て南稚内〜兜沼間が先に開通したと言われると
首を傾げる様な人も多いかも知れないな。
天北線が残っていれば合点もいくだろうけど。 以前音威子府に到着する下り最終特急から鬼志別に行くバスがあり、役人風の人たちが数人
乗り込んでいたが、いつの間にかそのバスもなくなってしまったようだ。 >>665
「幌延回り」とみて一瞬羽幌線経由?と勘違いしてしまったw >>668
正確には鬼志別の先、小石行だったと思う。
今は鬼志別発旭川行、稚内発鬼志別〜浜頓別回り札幌行や
枝幸発札幌行の都市間特急バスが一日数本走っているけど
音威子府と中頓別の往来はほとんどないみたいだね。 今は3時30分過ぎか。
昭和39年時刻表では3時44分音威子府発稚内行がある。
その頃の音威子府駅では今頃の時間、夜行で着いた新聞や荷物を
天北線始発に積み込んだりで大忙しだったんだろうね。 >>673
冬は除雪も必要、信号も手動だったし
車両整備に機関車の交換や給水、貨車の入れ替えなどで
音威子府駅はほぼ24時間稼働していたんだろうね。 昭和末か平成初めかは覚えていないが30年以上も昔、
HBCほっとないとHOKKAIDOで天北線特集が組まれた事がある。
雪が降る深夜の音威子府駅、駅員が正面ドアを開け、明かりを点けたりして
開店準備(笑)、やがて、天北線始発が名寄方向から回送で到着、
次いで朝6時10分台発の稚内行1両編成には豊富温泉に行く地元のおじさんが
乗り込んで先に発車、天北線の2番列車は少し遅れて数分後に発車、こんな内容だった。
天北線は通票閉塞だったので早朝深夜も運転関係の駅員派出が当然必要だが、
当時は律儀に旅客窓口も始発から最終まで開いていたよ。
また、音威子府の次の交換駅は小頓別、次が敏音知だが、
早朝深夜は音威子府と中頓別の間を1閉塞として運転していた。 些かスレ違いかも知れないが、
天北線が大正11年11月1日に全線開通した頃、今の宗谷本線は天塩中川止まり(※)
(※正確には天北線が開通した年の11月8日に音威子府〜天塩中川間が開通)
翌年秋に問寒別まで延伸されたが、途中の歌内駅が来年3月のダイヤ改正で廃止だと。
宗谷本線では開業時には交換駅だった多くの駅が棒線駅、貨車駅に変わり、
最近は駅の廃止も相次いでいるが寂しいね。 >>676
ちなみに天塩中川
誉平(ぽんぴら)駅として開業した >>680
当て字だけじゃなく意訳、開拓者の名前や出身地とか色々あるだろ ポンは小さい、ピラは崖
ちなみに赤平のアイヌ語地名はフレ=ピラ、
フレは赤いでピラは崖だから、上半分がアイヌ語の意訳で下半分が当て字の合成地名
また、中川町佐久は長野県からの入植があった訳ではなく、アイヌ語の地名との事 中川町にぽんぴら温泉があるな
宗谷本線沿線には温泉が多いが、天北線沿線も中頓別(ピンネシリ)、
浜頓別、猿払、そして、稚内と各市町村に一応、温泉が一つはある それと、中頓別には見事な鍾乳洞があるが、近くの軍艦岩は貝の化石
こんな山の中が昔は海の底だったとは思えないよ
また、明治時代にゴールドラッシュが起きた枝幸郡一体、
山奥に歓楽街や料理屋、巡査駐在所もつくられたというし、
下頓別は砂金掘り師たちが住み着いて街ができたとの事
もちろん今でも多少の砂金は出るらしい
https://hokkaidofan.com/nakatonbetsu-golddust/ ポンピラアクアリズイング。だれがおぼえられるねん。 >>689
せっせと掘り続けて集めた砂金で指輪を作った人もいるよ
明治30年代には2.7トンほど(推定)掘り出されたとの事
金75グラムが100円で当時の100円は今だと100万円以上に相当する。
一緒に産出する砂白金は利用価値がないとして当時は廃棄していたが
明治40年代に入り、白金需要が急増すると共に雨竜川流域の
深川市鷹泊や幌加内町で砂白金が見つかり、こちらも採掘ラッシュが起きた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています