懐かしの天北線
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
調べたところ、意外にもスレッドが存在していませんでした。
廃止から早や30年の長い歳月が経ってしまいましたが、景色は素晴らしい路線
だったと思います。 >>568
平成2年春に通った時はまだ2、3番ホームで母親が店を切り盛りしていたが、
駅舎建て替えに伴い移転。母親によると、駅舎内に引っ越した事で
売れ行きも伸びたとの事だったが、数年後に死去。西野守さんが継いだが.....
長時間停車の普通列車では車掌や運転手もホームで蕎麦を食べている事が良くあった。 音威子府駅ホームの常盤軒そば屋台は格別の風情があった。 >>572
あらゆる条件的に「ハイ継ぎます」とはいかないよね
もういっぺんいただきたかったなぁ(´TωT`) あー書き忘れた。
ピンネシリ駅跡の道の駅で売っている「中頓別牛乳」
すごくおいしい♪ >>576
松屋菓子舗(浜頓別)の牛乳最中と松の実最中もすごくおいしいらしい♪ 廃線後の街に残る和菓子屋さんの店訪問は面白いかも! と思もた。 1986年11月改正で急行天北が廃止になって全部宗谷に統一されてもおかしくなかったはず
途中駅で乗降する人が殆どいなくて99%が全区間通しだったとか
廃止直前まで急行を残してた理由が謎
周遊きっぷ全盛期の頃且つ興浜北線が残ってた頃ならば浜頓別で乗り換える鉄道マニアも結構いたようだが 常盤軒では音威子府銘菓としてバター饅頭も販売していたな >>579
周遊きっぷに全盛期なんて存在しないよなあ
周遊券の頃なら急行天北に違和感はなかったよ >>38
原則として男女別室なので、新婚旅行の夫婦が同室で寝られない。 >途中駅で乗降する人が殆どいなくて99%が全区間通しだった
これが廃止されなかった理由でもあるのでしょうね
幌延や豊富は既存の宗谷1本で充分なら「わざわざ面倒を増やしたくない・今日と同じ明日がいい」 >>582
そもそも新婚旅行でユースに泊まるかよwww 荒天や不通時に備えて急行宗谷はあらかじめ天北線周り、
同様に急行天北も宗谷本線回りの迂回ダイヤを組んでいたらしい。 天北線、松前線、伊勢線、鍛冶屋原線は客のいない本線の巻き添え 加古川線に付随する支線は1日で乗りつぶすのが大変だった思ひで >>592
1955年12月1日 気動車の運行開始
1956年2月26日 客貨混合列車廃止、全列車気動車化
1961年4月1日 北見線から天北線に改称 音威子府駅で販売していたバター饅頭は
美深の花月堂が製造して常盤軒が販売していた >>595
中川郡や名寄地方では評判のお菓子屋さんだよ 起点の音威子府、終点の南稚内共にキヨスクさえ消えてしまったな・・・
音威子府駅キヨスクにいたHさんは
確か駅前のお菓子屋さんや電気屋さんと兄弟の筈 天北線があった頃の沿線の人口と今とを比べると orz だもんなぁ 天北線沿いを車で駆け抜けたが、そもそも人がいない。 猿払村が唯一、微減または微増を繰り返しながら
人口約2700〜3000人の間を維持し続けているが
これもホタテのおかげかと。
総人口の何%かは中国人だろうけど。 ホタテ御殿すごかったねコリャ舐められませんわ@月曜から夜ふかし >>610
「思い出お〜い天北線」と列車の側面に書き込んで運行していたし、
主要駅に配置された記念スタンプも
「思い出お〜い天北線」だったんだよ。
ちなみに図案は音威子府がオトイネップタワーで鬼志別はサイロだった 思い出お〜いに掛けてるらしい
違和感しかないネーミングセンスなんだが 客車急行の天北があっただけで印象が全く変わる
天北線と急行天北のイメージが重なってしまうのは自分だけ? >>620
ここと名寄本線、標津線の3線が思い出お〜いシリーズ そのネーミングセンスに当時ツッコミは入らなかったのかね 読み返してみると味わい深いですね。
ホタテフライを食べたくなりました(^^ 窓を開けてボックスシートに足を伸ばし
空いた車内で弁当を食べて飲み物を飲み
タバコ吸い放題、昔は良かったな・・・ >>629
だからキハ22の車内があんなに黄ばんでたのかw タバコ吸い放題、窓からの排気入り放題に加え
壁に使用した濃い目のベージュ系内装材と暗めの照明灯
床も木板ばり、これに加えて当時は特急でも標準だった
垂れ流しトイレの効果も加わるのでキハ22に限らず、
車内は薄汚れだ様な感じだった >>632
キハ183系だって増備途中で循環式汚物処理装置搭載になったくらいだからなあ >>635
では答えましょう。
落成当時は垂れ流しだったよ。 >>632
衛生面での施策はだいたい時期で横並びやろがい
単発で聞くなんぞ無意味じゃい >>637
地上側の設備の問題もあったから意外と横並びでもないよ 猿払村のホタテ漁もそろそろ本格期だけど
昔と比べると小さくなったね
昔はキロ3個くらいが普通で食べごたえもあったが、
最近はキロ4個サイズでも上物だと。 キロが天北線を走ったことはない
↓ぽまいらの知識で反例 >>642
1970年10月1日〜1985年3月13日の間急行天北はキロ26の連結があったよ 中 頓 別 駅
微妙にダサいロゴとあのハリボテ感が萌えるのに
綺麗な建物にしなくても 急行待っててきたのがノロマなDE15牽引、昼間なのに寝台車
そこそこ客乗っていて椅子に座るのバツ悪るんだよねあの席 本土人からみると大平原に利尻富士がぽっかり浮かんで見える
サロベツ原野なんて夢のような風景
途中下車してしまったら次来るのが5時間後くらいだったけど
この風景を歩いて見たいと降りて見たら
大平原の草が人より高くて広大な景色はなにも見えなかったw 宗谷本線の利尻は近いからリアルな美しさという感じだけど
稚内ー音威子府でみる利尻富士は空に浮いてるかのような幻想世界 >>650-651
四ッ谷に音威子府そばを出す店がある >>651
畠山製麺で乾麺、生そばを販売しているし
北海道の一部スーパーでも入手可能 国鉄とJRは昭和で特定地方交通線をほぼ廃止し。青函トンネルと瀬戸大橋線を開通させた。 >>656
水道水で味が左右されるから難しいと思ふ 音威子府村の人口約700、そのうち120名ほどいる高校生は他所者だし、
実質的な人口は550人くらい。 音威子府駅1番ホームは短く
停車できるのはせいぜい2両編成の気動車だな >>662
本来のアイヌ語は「オ=トイネ=プ」、
開業時は中川郡中川村の音威子府駅だったが大正5年に分村して常盤村、
そして、駅が有名になったので、それに合わせて村名も音威子府に変えた。
元々常盤村の本村は咲来で音威子府駅周辺はほぼ無人地帯だったが、
大正元年に恩根内からここまでレールが延びて駅がつくられ、
やがて、稚内への分岐駅として機能する様になった。 >>662
もっとも稚内への鉄道は今の宗谷本線ではなく、天北線が宗谷線、宗谷本線として
大正3年に小頓別まで開業、その後、中頓別−浜頓別−浅茅野−鬼志別−南稚内と
徐々に延伸されて大正11年に先に開業、当時は南稚内が稚内を名乗り、ここが終点。
その頃の宗谷本線はまだ天塩中川止まりで音威子府と南稚内の南北から
天塩南線、天塩北線として工事が進められ、大正12年秋に天塩中川−問寒別、
翌13年に南稚内−兜沼、更に翌年には問寒別−幌延間が、そして、大正15年に
兜沼−幌延間が繋がり、音威子府は鉄道の町として栄える様になった。
中頓別町や猿払村、幌延町は南から、豊富町は北から鉄道が敷かれ、
小頓別や浅茅野、問寒別、兜沼などがそれぞれ、かつては終着駅で
町内、村内で最も長い歴史を持つ駅である事を知る人も今では少なくなった。 1986.11.1ダイヤ改正で名寄本線や日高本線、羽幌線等で急行が全廃され、
無人駅も一気に増えたが、このダイヤ改正でも急行天北が残ったし、
この時は天北線が廃止になるとは思わなかったよ。
当時は稚内や南稚内から天北線の切符を買ったり、
音威子府又は音威子府以南の各駅から天北線経由の切符を買っても
宗谷本線の売上に計上されていたので収支係数自体も怪しいものだったが
音威子府から稚内へは幌延回りと天北線回り、どちらも同等レベルだったでは? 西村京太郎氏の短編「最果てのブルートレイン」は昭和61年あたりの天北線を舞台に
繰り広げられた作品。
「行きたいなあ。乗りたいなあ」と思いながら、まだ当時10代の自分は思いながらも
その願いは叶わず。
20代になって浜頓別や猿払には宿泊。 今の鉄道地図を見て南稚内〜兜沼間が先に開通したと言われると
首を傾げる様な人も多いかも知れないな。
天北線が残っていれば合点もいくだろうけど。 以前音威子府に到着する下り最終特急から鬼志別に行くバスがあり、役人風の人たちが数人
乗り込んでいたが、いつの間にかそのバスもなくなってしまったようだ。 >>665
「幌延回り」とみて一瞬羽幌線経由?と勘違いしてしまったw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています