深名線の思い出
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深川と名寄を結ぶ長大路線。1995年9月3日を以て惜しくも廃止。
日本最寒も記録された極寒地帯でもありました。 >>798
便乗扱いで乗っていた。
14時過ぎに深川を発つ朱鞠内行の車掌と運転手が翌日の始発に乗務。
前日は14時7分頃に深川を発つ列車で朱鞠内へ、車両は名寄へと直通するが、
車掌と運転手は名寄から来た深川行で戻り、更に深川と幌加内の間を最終列車で
往復後に旭川へと戻り、ここで一泊、翌朝は旭川から回送列車で深川へ、
始発に乗務する車掌は深川から名寄へ直行、更に朱鞠内〜名寄間を一往復して
10時40分頃に名寄へ戻り、急行に便乗して旭川へと戻っていた。
尚、早朝に深川を発ち、更に名寄と朱鞠内の間を一往復した車両は間合いで
運転する事無く名寄で車庫へ入り一休み、16時発の深川行となっていたが、
深川を11時過ぎに発つ列車の車両は留萌本線から直行する事もあった。 深川始発の朝の5時10分の列車に乗るために網走発札幌行きの特急オホーツクの
夜行を宿代わりにしたのを思い出しました( ´〜`) >>800
そして、深川駅前のコンビニで食料等を調達していたのでは?
5時10分発名寄行の3号車は幌加内で切り離して、折返し深川への通学生を乗せるため、
名寄へ直通する1号車は朱鞠内から名寄への通学生を運ぶための回送列車みたいなもの。
朱鞠内に残された2号車は深川行となって8時少し前に朱鞠内を発ち、
8時40分頃に幌加内に着けるが、幌加内中学校※への通学生は間に合わないので
(※朱鞠内中学校は1986年に幌加内中学校に統合、政和と添牛内も昔は小中併置だった)
列車より早い時刻に朱鞠内を出る町民バスで通学していた。 始発と最終を除くと深川を発つ時にはまあまあ混雑していても
(それでも1ボックスに2〜3人だったが)多度志と鷹泊でかなり下車して、
残りも幌加内でほとんど下車してしまい、朱鞠内まではほぼ空気輸送状態。
幌加内から沼牛まで乗る人はいたけど、沼牛から下りに乗る人を見た事はほぼない。
あまりにもダイヤが不便だし、行きは自動車等で幌加内まで送ってもらい、
帰りのみ深名線を使っていたんだと思うよ。
また、3往復しか走らないにもかかわらず半分の列車が通過していた
西名寄はというと、住宅や商店もあったし、近所には市営住宅もあったが
市街にも近く、曙橋を渡るとほぼ名寄市街。少し歩けばバスに乗れるので
さほど不便もなかった様で昭和30年代には早々と無人化されたし、
昭和45年には曙小学校も隣の弥生小学校(昭和53年閉校)ではなく
名寄小学校に統合されているよ。 >>805
>>806
804だけど何か聞きたい事ある? >>807
在りし日の白樺駅、蕗ノ台駅の様子などを知りたいですね。
いつごろから人家がなくなったんでしょうか? >>808
白樺、蕗の台共にかつては交換駅でかなりの木材を積み出していたし
戦後集団開拓団が入地した蕗の台には小中学校もあった。
しかし、気候条件も激しく、営農は振るわずに離農が相次ぎ
昭和37年には蕗の台小中学校が廃校となり、同年開拓団も解散、
昭和39年には蕗ノ台駅が無人化され、昭和47年頃には無人地帯となった。
白樺はホームや線路より高い位置に比較的珍しい左側出入り口の駅舎が建ち、
(蕗の台駅舎もほぼ同じ形の左側出入り口)、同時に開業した宇津内駅が後に
北一已駅の駅舎に転用されたとの資料もあるし、北一已駅が左側出入り口である
事を考えると宇津内、蕗ノ台、白樺各駅は同一設計とみて間違いないと思う。
農業には不適当な土地であったが、一時期は木材の輸送で栄えたものの
昭和30年代に入ると急速に寂れ、昭和36年には無人駅となり、昭和38年頃には
無住地に、そして、昭和52年からは冬季閉鎖となった事は皆さん承知かと。
朱鞠内湖が近いのでたまに釣り人が下車したり、天文ファンや鉄道ファンが
下車するくらいだったが、平成2年の廃止後もプレハブづくりの保線小屋が残り、
(同様の小屋は蕗ノ台にも存在)ストーブや調度品も置かれていた。
また、蕗ノ台駅は深名線撮影の隠れた名所とされていた >>810
最盛期は1.7万の人口を数え、戦後もほぼ1.2万人程度で固定化されていた
幌加内の人口も今では1350人ほどで更に減少を続けているが、
この1350人は最盛期の朱鞠内や添牛内の人口さえも下回っている。
特に幌加内以北は昭和40年代以降、森林資源の枯渇や減反政策による離農が相次ぎ、
急激に過疎化が進んだ。大規模な蕎麦畑もかつては水田やじゃがいも畑、
あるいは牧草地で、幌加内名産の蕎麦も減反と離農の副産物とさえ言える。
また、幌加内からは鉄道や畑、水田、農協だけではなく郵便局もかなり消えた。
現在町内にある郵便局(簡易局を除く)は幌加内と朱鞠内のみだが、かつては沼牛、
政和、添牛内にも郵便局があり、それぞれ昭和末期までは配達も行っていたが、
平成3年に沼牛が廃止され、次いで深名線の後を追う様に平成8年には
政和が続き(簡易局設置)、平成11年には添牛内が廃止されたし、
後に朱鞠内も集配を廃止した事で町内全域が幌加内郵便局の集配区内となった。
ただ、南北に細長い幌加内町だし、いくら利用者、住人が少ないからとは言え、
朱鞠内の無集配化は些か無謀だった気もする。尚、幌加内町内には民間の
宝くじ売り場がない事から幌加内、朱鞠内の両郵便局では全国自治宝くじ
(スクラッチ、数字選択式を除く)の販売と払い戻しも行っている。 幌加内も蕎麦などでなんとかもっているが
人口減少が続き
郵便局など公共設備も縮小気味
宝くじなど買うのが大変
これぐらいでまとめろよ >>812
ガイジは大変だね
読んだ先から直ぐに忘れていくんだろう?
ガイジというより認知症だなw 旅人&田舎食堂・天塩弥生のホーム側は旧駅舎の雰囲気を幾分再現しているが
正面側はあまり似ていない気がする。正面風除室が余計か?
新築時の面影を最も残していた駅舎は幌加内だな。窓を小型化したり、
増築してベニアで補修していたが、骨格は新築時のまま。最後まで駅員がいて
煮炊きをしたり、窓を開けて風を通していたので状態も良好、
戦前に撮られた写真と比べても、それほど変わっていなかった。 長文と短文、どっちがいいの?
ただ、言えるのは私の書き込む内容は全て事実だという事である。
詳しい解説の方が良いのでは? 長文が理解できないキチガイ痴呆は1人しかいないから無視して下さい 深名線が廃止された年、湖畔駅の待合室内に深名線の歴史を詳しく書いた冊子が有ったのを覚えています
もしかして>>817さんが書かれたモノですか?
当時、オートバイで訪れました
道道528号線(蕗の台朱鞠内停車場線)も走って白樺駅跡や蕗の台駅跡も訪ねました
750ccのオンロードバイクに野宿用品を満載していたので
未舗装の悪路に手こずりながら走ったのが思い出されます
今は通年、通行止めのようです >>821
いや違う。白樺や蕗の台は駅廃止後も保線関係者用のプレハブ小屋が建っていて、
夏は自動車での見回りだったので道路を閉鎖する訳にもいかなかったかと。
湖畔駅付近の三股一帯が朱鞠内旧市街で昔は栄えたが、ここから離れた場所に
朱鞠内駅がつくられ、駅開業と共に自然と人煙が立つ様になり新市街が形成されたが、
隣の添牛内も駅開業によって新市街がつくられた。開拓期の政和や添牛内は
士別方面からの入地がほとんどで、元の添牛内小学校や杉浦商店のあった付近が
添牛内旧市街、現地を訪れると気が付くと思うが、添牛内駅から旧市街にかけては
緩い上り坂が続いている。当時はここが終着駅だったし、勾配を避けて市街から
離れた平坦地に駅をつくったものと思われるが、開業とともに自然発生的に
市街地が形成され、ここを添牛内新市街と呼称する様になったが、昔は駅前に
旅館や雑貨店が建ち、国道沿いから旧市街にかけて住宅や商店が立ち並ぶ大きな街だった >>821
深名線の運行最終日、3分40秒頃から朱鞠内駅ホームで最終臨時列車を
(毎日運転されていた幌加内行回送列車を臨時列車に仕立てた)
見送る禿頭のおじさんが駅前商店(大西食料品店)の大西博春さん
朱鞠内で買い物をした際に会ったり、話をした事のある人も多いだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=4qfBqlsJd-w
朱鞠内駅に降り立ち、駅前左手にあったのが幌加内農協朱鞠内事業所とスタンドで
食料品等も販売していたが後に閉鎖、個人商店となったものの、こちらも閉店している。
そして、この農協事業所は度重なる火災に見舞われた事で地元では少し有名。
1964年5月16日に発生した朱鞠内大火に加え、近所の子供の火遊びでも消失している。
※その後再建されたこの建物は平成初期に曳家して位置も若干動いている。
農協の向かいが大西さん。室蘭に生まれ、戦後朱鞠内へと来たとの事だったが、
蕗の台へ室蘭からの日鋼開拓団が入植した経緯もあるし、そちらとも何らかの関係が
あったのかも知れないが(詳しくは聞かなかった)、朱鞠内の生き字引の様な方だった。
尚、深名線末期に朱鞠内から名寄へと列車通学していた高校生は大西さんの孫である。 >>821
昔の朱鞠内は木工場が立ち並び、国道沿いには住宅や公共施設が密集して賑やかな街だったよ。
しかし、1964年の朱鞠内大火で116戸を焼失、焼失物件には朱鞠内駅も含まれている。
人的被害はなかったが当時の金で5億円以上の損害を出し、急速に過疎化が進んだ。
それでも、昭和末期から平成初期頃はまあまあ町の体を為していたが
(廃屋や空き家も多く、廃業した床屋の腐った建物も目障りだったが・・・)
今は更に人口も減り、施設の統合や集約化が進んだので空き地も目立つね。
昔は駅前の農協支所や商店等で朱鞠内湖名産の淡水魚佃煮や筏焼きが買えたが
今は湖畔の淡水湖漁協やレークハウスで入手するか、通販のみだし、
平成初期に幌加内市街へと移転した武藤組鉄工所も倒産してしまった。 >>823で朱鞠内駅ホームで大西さんと一緒に最終列車を見送る
制帽着用の駅員は平成2年から廃止時まで在勤していたAと思われる。
Aはこの後、札幌駅に移動して改札を担当していた。
また、平成4年に朱鞠内駅助役から駅長に昇格したNは
遠軽駅副駅長などを経て、銀河線置戸駅最後の駅長となった。 添牛内も朱鞠内と同様、市街地から離れた場所に駅がつくられ、
後に周囲に新たな市街地が形成された。今では数える程しか人家もないが、
かつて添牛内新市街には日通営業所、病院、巡査駐在所、役場支所などがあり、
駅前には旅館や雑貨店、鉄道官舎等が立ち並んでいたが全て消えた。
深名線の末期、添牛内駅に降り立ち、左に折れるとまず目につくのが郵便局
(現霧立亭)だった筈、旧市街へと向かって延々と国道を歩くと右手に大きな
2階建ての建物が見えるが、これが添牛内農協で今は個人住宅となっている。
更に旧市街へと向かう途中に行信寺跡の記念碑が立つが、行信寺開基住職の
泰円澄順教は真宗出雲路派の僧侶で得度後に志を立てて福井で医業を学び、
内外科医の免許を取得、多寄で開業していたが招請に応じて明治44年に入地。
説教所を開設して布教と診療に従事、急患あれば風雪の夜道を駄鞍に身を託し、
不幸にして死んだ場合はお坊さんに早変わり、死亡診断書を書いて読経をして、
葬儀万端滞りなく済ませてくれる重宝な方だったので、生き菩薩様とも
尊敬の意味を込めてトラバサミ(嵌ったら出られない)と呼ばれたとの事。
その後、二世住職泰円澄教聴が1969年に遷化、一周忌を経て廃寺となり、
本堂は幌加内市街に移築されて西暁寺(真宗大谷派)となっているが、
例年、お盆の時期になると行信寺跡は有志たちによって丁寧に草刈りが行われている。
、 やっぱり書いてるうちに意味不明な供述を始めやがったじゃねえか 沿線の歴史、興味深く読ませていただきました
ありがとうございます
いずれ消えてしまう5ちゃんねるのスレッドで書かれるよりは、
他の媒体で、貴重な資料てして後世に残る形になさった方が良いかもしれませんね 郷土史家のようだね
このまま5ちゃんに埋もれるのは惜しい 添牛内駅は保存の方向ですが、鷹ノ巣駅は保存活動もなく朽ちていくのでしょうか? 鉄道関係のネタが少ないか?
では、1931年9月に開業した添牛内は1982年3月に無人駅となり、
同時に交換設備を廃止して運転扱いも終了したとの記述が散見される。
かつてはホーム2本を有する交換駅で1982年に無人駅となった事は確かだが、
1977年頃に撮られたとされるこの写真・・・
https://www.facebook.com/soeusinaieki/
塗装の状態からも昭和50年代前半の添牛内駅である事は間違いない。
そして、駅事務室には通票閉塞機が置かれている。が・・・・・・・
駅舎右の信号扱い所にはあるべき筈の信号梃子が存在しない(@_@)
深名線各駅は腕木信号機だったし、ここのみが色灯式に変えたとは考えにくい。
おそらく、とりあえず交換設備等は残すが、昭和50年代前半時点で
添牛内は既に運転扱いを事実上廃止していたものと思われる。 >>828
いや、基本、消えないと思う。
今のところ、富士ぶさ廃止前後(2009年)のスレも、記憶に残る語句でググれば出てくる >>831
鷹泊駅でしたね、最近ボケがすすんでねぇ、ゴホゴホ。 降臨中の郷土史家?の方、宇津内駅についてはどうですか? >>834
運賃が高くても多度志〜深川間は通学、用務はバスが圧倒的に優勢だった。
なぜなら、多度志駅が市街から離れた弥栄地区にあった事に加え、深川の高校も駅からは
遠いのに対し、バスはこまめに停まりながらほぼ学校前まで直通していたからである。
多度志以北は仕方なく通学に深名線を利用していたというところ。
さて、鷹泊は1984年11月に旅客関係の駅員を配置しない無人駅扱いの停留所となったが、
運転関係の駅員配置は1986年3月末まで続けられ、その時点でも1日に3回ほど定期列車の
交換も行われていたし、それ以前はここを始発、終着とする旅客列車も運転されていた。
ある程度の乗降客がいて、遅い時期まで運転交換駅として機能して駅員の配置が
行われていたので出入口や窓枠はアルミサッシに交換されるなど、手入れもそれなりで
残すにも適した駅舎であったと思うが、最近はホーム側庇の崩壊が少し気になる。
また、wikipediaによると「有人駅時代には待合室に水仙とバラの造花が飾られていた」
とあるが、他にも駅本屋の柱には「小鳥さん無料だよ、泊まりなさい」と書かれた
駅員手作りと思われる鳥小屋が飾られ、無人化後も存置していた。 >>835
宇津内駅はダム工事で発生する木材を運ぶために設置された様なもので、
戦中戦後の僅かな時期に駅として機能したのみで、戦後まもなく廃駅となり、
写真は1枚も発見されていない、幌加内町でも幻の駅であるが、
「一已史」によると、留萌本線北一己(当時の表記)駅の開設陳情が実り、
この時点で既に廃駅となっていた宇津内駅の駅舎を解体して現地へと運び
受益たちによって今の北一已駅を建て直したと言うが、宇津内と同時に開業した
白樺、蕗ノ台は共に北一已駅と同じ左側出入り口である事を考えると、
この話は信憑性も高く、旧宇津内駅舎=現北一已駅の可能性は非常に高い。
尚、wikipediaによると北一己駅は昭和30年に開業、昭和35年に業務委託化、
昭和44年に再度直営化とされているが、「一已史」によると北一己駅は
昭和30年に全国初の民間委託駅として開業したが、不便なので陳情により
翌年には直営化されたとあり、多方面において異なる記述がみられる。
1955年に北一己駅が全国初の民間委託駅として開業したとなっているが、 あらら、
先人お二方のブログと比べたら大したことないなあ。。
上のほうのレスで地元民しか知らないようなものすごく掘り下げた記述してたから
少し期待したのに 宇津内駅跡と思しき場所は今では入地さえ困難だし、
ほとんど自然に還っているんだよ(~_~) >>839
道道使って行ってみたいけど、
ずうっと通行止だもんなぁ あそこ 政和も正面側を解体して鉄骨補強の上で車庫兼倉庫に変わったが、
廃用材は沼牛や添牛内の補修に転用する(された)のかな?
新しい用材を使って元の姿に戻す事はできるだろうけど
廃駅舎の用材を使うのが手っ取り早く雰囲気も出るのでは? 天塩弥生と北母子里の間でレールが風連町(当時)を5キロほどかすめていたが、
町内に駅はないので事実上は受益者ゼロ。昔は西風連の連中が天塩弥生を利用していたが、
モータリゼーションと過疎化が進み、しかも、1日3往復では使い道はなかったな。
北部幌加内の住人も自家用車で士別や名寄へ買い出しに出かける事が多かった。 政和や添牛内の開拓者も士別〜温根別方面からの入地だった 幌加内町も空知支庁から上川支庁に移管され、深川署から士別署の管轄に変わったが
JA北空知管内だし、北空知信金支店もそのままで深川地区消防組合にも加入しているし
旭川や士別へのバスはないが深川発着便はあるし、深川との関係はまだまだ続くと思う 旧天塩弥生駅ホームにかなりの大木(種類不明)が立っていたが
駅廃止、ホーム撤去で切り倒したんだろうね
あの大きさだと開業前からあって、残す様にホームを作ったか
開業と同時くらいに植えたのではと思うよ >>846
消防支署も去年から士別地区に移動していた 南北に細長い幌加内町も南と北では生活圏が異なっているが
同様に南北に細長い幌延町も南の問寒別は名寄や天塩中川寄りだし、
幌延本町は天塩や豊富、稚内寄りで元の鞘の留萌は蚊帳の外という感じ。
しかし、幌延が留萌支庁から宗谷支庁へと移った事で留萌本線が廃止されたら、
檜山支庁、日高支庁に次いで留萌支庁も鉄道駅もゼロになってしまう。 国鉄時代の収支係数は1975年頃から全国ワースト2位が定位置で
(大体2000円台後半)昭和56年には赤字日本一になったが
除雪費も毎年10〜20億円くらいかかる、人口は希薄で運賃収入そのものも
少ないし、当時は深川駅と名寄駅で深名線の切符を買ってもそれぞれ、
函館本線と宗谷本線の売上に計上されていたのだから係数は大きくなる。
JR時代の係数は一体、いくら位だったんだろうか? 1981年が2901だったし、100円儲けるのに30倍や50倍はかかっていたと思う。
幌加内駅、朱鞠内駅共に普通は一人勤務だし、
朱鞠内駅事務室には「出務の厳正」と大書きしていたが、
幌加内が上下5往復、朱鞠内が名寄方3往復、深川方が回送含めて4往復、
臨時やラッセルも走るだろうけど正直言って暇なダイヤだったな。 もし、朱鞠内−羽幌の名羽線が開通していたら目も当てられないだろうな。笘竜トンネルは最初から作るつもりはなかったんだろ? 当初は羽幌口の石炭を運ぶつもりだったらしいけど、
昭和40年代半ばには羽幌鉱も閉山したし、
朱鞠内ー羽幌、朱鞠内ー北母子里、北母子里ー天塩弥生の間はほぼ無人地帯
開通しても、おそらく途方も無い数字が出ていたと思うよ 9月3日に運転された朱鞠内発下り臨時最終列車は
毎日運転されていた回送列車を臨時列車として運転したもので
朱鞠内〜幌加内間ノンストップ運転だったが、
添牛内はかつて通過不能の終着駅だったし、政和も開業時からの駅だ。
乗客がいようがいまいが、この2駅くらいは「お疲れ様」という事で
ドアカットが必要だったかも知れないが、最終列車を止めても良かったと思うな。 朱鞠内からの臨時列車を幌加内で連結したので幌加内発深川行最終が10両だったが、
定期列車だったのでダイヤ通りに沼牛や幌成、上多度志を通過して鷹泊と多度志のみに停車した 雨竜線
1924年(大正13年)10月25日に開業
3往復 8.7kmを35分 時速15km 23銭
翌年にはダイヤ改正も入って(夏時間?)
終電が20〜25分遅くなった
地図は1925年7月
https://i.imgur.com/ID5UW8c.jpg
https://i.imgur.com/q5jzpjp.jpg
https://i.imgur.com/7rvq3G2.jpg >>859
多度志や鷹泊には当然、転車台があったと思うが痕跡は見つからなかったな。
それとも、距離が短いので往路か復路どちらかは後進運転だったか?
朱鞠内には転車台があったが。
また、地図では宗谷本線(当時の天塩南線)が問寒別止まりだけど、
昔の問寒別駅は2面3線のホームと広い構内を持ち、木材等の貨物輸送も盛んで
問寒別地区の最盛期の人口は今の幌延町の人口より多いくらいだよ。
今は300人程に減り、寂しい街になったが、それでも、ストアや郵便局、
駐在所、学校などは残り、まあまあの体裁を保っているのが救いか。 1965年朱鞠内駅
転車台がはっきり見える
鷹泊は1965年の航空写真がなかった
https://i.imgur.com/axo9BFz.jpg 朱鞠内駅は大火で一度燃え、
幌加内駅も廃止後に燃えてしまったが
最後まで有人だった駅が共に火災に見舞われて
建築時の姿を失ったのも因縁みたいだね
朱鞠内の転車台は平成になっても残っていたよ
既に使っていなかったし、動くかも不明だったけど >>860
問寒別は1986年秋に宗谷本線の自動信号化に伴い無人駅となり
(正確には1984年に旅客無人化)、程なく赤屋根の駅舎が解体されたよ。
30年くらいしか使わなかったし、窓や扉はアルミサッシに交換されていて、
駅舎は解体しなくても使えたと思うけど貨車駅になった。
昔はここや雄信内から中川商高へ通う高校生がかなり乗り込んだけど
中川商高が廃校になり、スクールバスで天塩へと通う様になって利用者も激減、
それでも、まあまあの市街地があって利用者もいるし、駅が残るだけマシか。
南北に細長い幌延町の南端に位置し、幌延町が留萌支庁から宗谷支庁へ移る前から
生活圏は留萌は全くの圏外で幌延や稚内よりも名寄や音威子府、天塩中川寄り
北母子里や朱鞠内の生活圏が深川よりも、名寄や士別寄りだったのと似ているね。
しかし、音威子府以北の宗谷本線ダイヤも特急・普通各3往復では使えない...
末期の深名線か大正時代レベルの不便さだよ。 まあ旭川以北、以東は道路整備で注力して鉄道は諦めたほうがいいと思うよ
道路輸送だけだと無理な区間以外は鉄道は廃止の方向で行かないと北海道は無理だよ 大沢秀了元剣淵町長が深川市多度志町幌成の国道でバイク事故死した事がある。
大型バイク愛好家としても知られ、町長を36年続けた僧侶町長だったが。 幌加内そば祭りは2年連続中止だったよ
例年、丁度深名線が廃止された頃に実施されていた。
深名線が走っていた頃は幌加内蕎麦もそれほど有名ではなかったし、
駅前松家食堂の太い蕎麦が鉄道マニアの間で少し有名だったくらいだけどね。 そばで有名になった幌加内にはそば屋も新しく増えたけど
深名線が廃止された頃でも町内のそば屋といえば
駅前の松家食堂と国道沿いのあじよし食堂くらいだったし、
更にその昔、幌加内では蕎麦は全く栽培されていなかった。
皮肉にも蕎麦は米作には不向きだった土地の減反と離農の副産物だけどね。
松家食堂は閉店したが、あじよし食堂の息子が添牛内で霧立亭を経営している。 >>871
大体、政和〜雨煙別以南のそば畑は元は水田、政和以北はいも畑か牧草地だったよ
朝もやがかかり、寒暖差の大きな幌加内の気候は水稲栽培には不向き、
更には自然条件の悪さも相まって昭和30年代から離農が相次ぎ、北部幌加内は
特に過疎化が進み、添牛内農協の組合員数も著しい減少をきたした。
その様な中で昭和41年に農協主導で添牛内に建てた合理化澱粉工場が
再生の切り札どころか大赤字続きで逆に経営を圧迫する様になって
昭和47年には閉鎖され、翌年には添牛内農協も倒産!
この頃からそばの作付けを始める様になり、
離農地を集約するかたちで大規模なそば畑が生まれる様になった 昔、添牛内には役場支所や駐在所があって
旅館や雑貨店、病院等が軒を連ねていたとは思えない程に寂れた >>876
それで何で町になったのが昭和34年なんだろうな?
人口のピークも昭和15年辺りなのに >>879
戦前、北海道の二級町村の財政負担を北海道庁が負う代わりに保護監督的規制を行っていたため
北海道の町村には自治権が大幅に制限されていた。 >>880
でもそれ戦前の話でしょ?
昭和34年って遅すぎね? >>879
1940年頃にピークだったのは雨竜ダム工事や
砂白金採掘で一時的に増えていたせいもある >>877
数日前に食ったが
深名線の走っていた頃はネットもなかったし隔世の感があるね そんなことないぞ
音響カプラでパソコン通信繋いでたころに深名線は走ってた >>881
申請するかは自治体が決定する
町に移行するかどうか、現在なら住民投票など
人口だけでなく官公庁施設もないと駄目 >>876
サンクス
地図でなんとなく往時の想像はできた
これまでは幌加内北部の当時の中心は朱鞠内でも政和でもなく添牛内だったと聞いたときは信じられなかったけどね
現在でもなんとか集落を維持している政和や朱鞠内と違って、添牛内はもう集落とも言えなくなっていたからね 7月16日 Amazonサービス開始(米)
8月25日 マイクロソフトWindows95発売(米)
9月4日 深名線廃止(日) >>884
平成7年頃我が家にネット環境は無かった(笑)
>>886
北部幌加内の開拓は深川方面からではなく士別方面から添牛内経由での入地者が
ほとんどで朱鞠内・政和方向への分岐点だし次第と人が集まったというところか。
早い時期に電話や電気も通ったし、大正時代には郵便局や駐在所も建った。
この地図上の建物で残っているのは農協(今は個人宅)と共販(杉浦商店)に駅くらい。
その農協も倒産したし、杉浦商店も閉店、そして、駅も・・・ 素晴らしい景色の深名線だったが、唯一、禁煙区間でなかったところだけがマイナス心証だった。後は文句のつけようがない。 >>878
添牛内駅の引込線に止まっているのは木材輸送用のトラ型貨車か?
近くの天塩川木材工場からの専用線も敷設され、
ここを始発とする木材満載の貨物列車も運転されていたというし、
昔はここや朱鞠内も木材の駅だったんだろうね 名羽線も石炭よりも木材輸送線だったら良かったよね? 路盤も50%くらいは完成していたし、
沿線に資源はわんさかだけど、乗客は熊くらいだろうね。
開通していたら、羽幌〜名寄は朱鞠内でスイッチバックした筈。
留萌炭田の石炭も表面を削いだくらいで、実際にはまだまだ埋まっているし
森林資源も豊富だが、共に輸入品に押されて国内産では採算が合わないのが実情。 おいしいかどうかよりも店があるかどうかという以下略 昔、倶知安駅ホーム上にあった立ち食いそばはマジ旨かったよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています