深名線の思い出
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深川と名寄を結ぶ長大路線。1995年9月3日を以て惜しくも廃止。
日本最寒も記録された極寒地帯でもありました。 25年前の今日、旭川の駅前ターミナルに宿をとった。 深名線廃止から今日で25年。
屈指の過疎化地帯にマニアが殺到。
幌加内では大雨に。 幌加内では大雨だったが朱鞠内湖では天候が回復していたあの日。 25年前の深名線最後の日は今日の首都圏の天候に酷似 涙雨降ってたなあ。
25年前の夜。
プライベートを含めて、思い出すだけで、辛い。 大往生だろう
美幸線と赤字日本一を争っていた路線が平成の世まで生き残ったのだから あの日、深川駅に到着して、車掌の感謝のアナウンス。最後に「蛍の光」が
流れたのは悲しい記憶として現在に残っている。 深名線最後の日とバス転換最初の日に立ち会った人はかなりいることだろう。 二股から朱鞠内湖まで歩いて15分、やはり遠い。。。
朱鞠内湖から朱鞠内駅までは歩いて40分。
駅周辺でビールを販売する店はなかった。 確かに見方によっては道路は二股に分かれているが、違う見方をすると三股でもある、と、遠回しに言ってみてやる。 湖畔駅の前に一軒家があったが、今はないのかな?それとも廃屋か? >>725
>>564の事かな?
でも>>724の回答にはなってないと思う >>726
最初からと書いてあるだろ?
それ以前に出ていた話題だ。答えも出ている。 >>727
先輩! 726サンへの教育が厳しいッス そのまま自然に還るだろう
だから、マウンテンバイクで走破した方が良い ∩___∩
| ノ ヽ
/ ● ● | クマ──!!
| ( _●_) ミ
彡、 |∪| 、`\
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∪ ( \
\_) いよいよ雪の季節に入るな
名羽線含めて深名線跡地はもうすぐ雪に埋もれてしまう >>738
特雪443レと特雪440
DD14の背後合わせ重連な 雪に埋もれる冬こそ深名線☃️🎄❄️ 列車が通ってない時間帯に除雪車が出ていたようだけど、キハはよく雪を掻き分けていたよな
車窓からでも天塩弥生-朱鞠内は凄かった記憶がある >>737
西名寄駅跡はライスセンターの倉庫になって、黄色の接近標識が残っていたはずだけど? 朱鞠内からの国鉄名羽線の建設跡地を見に行って欲しいですな 誰も探さないので、雪がなくなる頃までのんびりしてください。 幌加内マイナス32.6℃を記録。
朱鞠内も氷点下30度越え。 >>749
積雪が凄すぎて車窓から見えるのは
連続した雪壁だけ 冬の深名線といえば特雪433列車と特雪430列車だろ
DD14の背合わせ重連を何回も撮影しに行ったのが懐かしい 北母子里から朱鞠内までが、これぞ厳冬期の北海道の光景だと思った
キハ53は雪を掻き分け、唸るエンジンで無人地帯を駆け抜けていく
何度かキツネを見たよ >>752
キハ22でなくキハ53の時代ですか・・ >>752
この期間はワイド周遊券の旅行者でも緊張するよ 冬期間は朱鞠内近辺の国道を車を走るのだけでも難儀な時が多いのに、
鉄道を運行していたのだから、国鉄には恐れ入りますわ。 深名線の特雪は自分も何回か撮影した事があるけど移動は空港で借りたレンタカーだしカメラ手持ち1丁
なので外で待ってる時間はせいぜい10分くらい前でそれまでは暖房の効いた車内で待機してるから厳寒用
防寒儀を着ていればなんとかなったけど外に20分以上居たらヤバイかも知れない。まずい昼休み終ってる もう乗れない、いや、夢でしか乗れないかも。
極寒期の深名線に俺が乗ったとき、垢抜けないひとり旅の女の子が、通しで乗ってたけど、
男子周遊券客は誰も声をかけてなかったみたいだった。
今だったら歳は50を越えて顔も変化して、子供の一人や二人、また孫がいるだろう。 雪女は顔をベールで隠して色白でスタイルは抜群に良い
深名線の乗客には残念ながらいなかったな >>769
ググったら、ずいぶん前に閉館したとのこと。
スレ違いだけど、サロベツのあしたの城はまだあるみたい。 北海道道688号線も雪解けしただろうから、チャリで探索してみるかな >>774
残っているところもあるけどな。
宇摩の手前あたりはわかりやすいかな。 冬の幌加内を車で旅したことある。
人々の生きる強さ感じた。
除雪は24時間行われているから大丈夫。 キハの車内はジャンパー脱いでトレーナー一枚で快適だった Youtubeに深名線最終日の動画がアップされていたが
朱鞠内駅で最終列車を見送る大西食料品店のおじさんが出ていた。
深名線に乗ると大体は朱鞠内で乗り換え又は小休止、
ここか農協支所で食料や飲み物を入手するのがパターンだった。
平成3年暮れに朱鞠内は89戸で1戸平均2人暮らしていなかったが
今は50戸を下回り、人口も100人を割っている。 >>782
それでも、駐在所や郵便局、役場支所があるし、老人ホーム等もあるので、
一応の体裁は付いているが、老人ホームの住人も事実上は
よそ者の気もするし、農協支所も閉店、大西さんも廃業したらしい。
昔は栄えた町だったけど、昭和39年の大火後は地勢も振るわないが、
その朱鞠内以上に寂れたのは隣の添牛内だね。
昔は添牛内が幌加内町の北の中心として、農協や役場支所、駐在所、病院、
日通営業所、学校、郵便局や旅館等が集まっていたが、みんな消えてしまった。
朱鞠内駅前にあった農協事業所も昔は「添牛内農協朱鞠内支所」だったが、
添牛内農協が倒産してしまい(地内の馬鈴薯澱粉工場は設備も旧式で
澱粉垂れ流し状態で非効率的、これらを集約するべく農協主導で1966年に
合理化澱粉工場を新市街に建てたが、馬鈴薯不況で経営は振るわずに数年で閉鎖、
この合理化澱粉工場の件が大きく響いて添牛内農協は破綻した)、幌加内農協との
合併、吸収というかたちで政和、朱鞠内、母子里の各支所は幌加内農協の事業所となり、、
添牛内農協本部も幌加内農協添牛内事業所となったが、実態は店番が1人いるだけだったし、
ついには添牛内事業所さえもが閉店してしまった。
深名線廃止前は郵便局や農協事業所、杉浦商店等、現金消費場所があったが
今の添牛内で現金を消費できるのは郵便局跡の霧立亭くらいでは? 「球聖」と異名をとる私もこの深名線には3回乗った。
廃止当日の1995年9月3日の当日の最終列車にも乗車した。
懐かしい思い出である(゜-゜) 丁度いま幌加内そば(茹で乾麺)を食べているよ。
深名線の沿線、多度志から幌加内、そして、幌加内から
峠を越えた江丹別付近は蕎麦の三角地帯というところかと、
今でこそ日本一のそばの町として有名な幌加内だけど、
昔は全く栽培されていなかった。
国道沿いに広がる見事なそば畑もかつてはじゃがいも畑(主に幌加内以北)、
又は水田だったが、昭和30年代後半からは相次ぐ離農によって過疎化が急速に進み
更に昭和44年からの減反政策のあおりで仕方なく栽培を始めたもの。
稲作には不適当だった幌加内の地理気象が蕎麦にはどんぴしゃりというところで
昭和55年には作付日本一となり、今は土地の集約化が進み大規模な農家も増え
今の時期、幌加内のそば畑の眺めに感嘆する者も多いが、そば農家としては
「最も手間のかからないものを仕方なく作っているんだけど・・・」が本音では。
また、平成の初め頃はじゃがいもやカボチャ、米などもかなり栽培されていて
雨竜郡各町と米出荷量を競っていたし、倒産した添牛内農協を吸収合併した
幌加内農協も事実上倒産していて、この時期、政府の管理下にあった事は
意外と知られていない事実でもある。
平成3年末時点で幌加内農協朱鞠内事業所管内の農家戸数2戸、
添牛内管内が確かゼロで政和も僅か、この組合員数では行き詰まる。
旧添牛内農協管内では母子里事業所が平成初期に真っ先に閉鎖され、
政和、添牛内が続き、最後まで残った朱鞠内事業所も閉店したので、
今の幌加内町政和以北に食料品等の小売店は事実上存在しない。 では、5行くらいでまとめるか
今日の昼食も幌加内そば(藤原製麺)だよ(笑)
多度志は駅が町外れに設置されたので市街地は少し離れていた。石狩沼田発多度志行の北空知バスも一応は深名線に接続していたが、
つい寝過ごしてしまい、着いたのが駅から離れた多度志市街地。歩いても下り深名線には間に合いそうにないので、
バス停前にあった駐在所に駆け込んで事情を説明したら、所長の奥さんが自家用車で駅まで運んでくれて、
辛うじて間に合った経験がある。駅員のいる時代だったら、駐在所から駅に電話・・・
「これからお客さんを連れて行くので汽車を待たせておいて」こんな芸当もできたと思うけどね。 そして、駅がなくなると町は寂れるね。
多度志からはハイヤー営業所や北空知信用金庫多度志支店も撤退したし、
Aコープや駅前の桶谷商店、鎌倉旅館も閉店廃業して、駅裏の多度志中学校も閉校に。
今では旧多度志町エリアの人口も1000人を割ったのでは? 鷹泊は深川だけではなく、幌加内との往来も意外と多く、
上下列車ともに乗降客はまあまあいたし、幌加内から鷹泊行の常備券もあった。
駐在所やホクレンスタンド、郵便局はあるものの、寂れた感は否めないし、
鷹泊駅舎もいつまで持ち堪えられるか・・・そんな状態だよ。
尚、旧鷹泊小学校跡を活用したリフレッシュプラザ鷹泊内に深名線資料室がある。 路線バスなら乗ったぞ
幌加内〜深川はまだ機能してた セコマがない幌加内は、やる気のないAcopeが生命線。 お盆で家にいるので、今日の昼食も幌加内そば(笑)
さて、廃止当時は下り5時10分深川発が始発で、朱鞠内発上り始発は7時55分頃だったと記憶しているが
3台で深川を早朝に発ち、途中の幌加内と朱鞠内で1台ずつ切り離してそれぞれ始発として折り返すし、
車掌からも名寄まで直通する先頭の車に乗る様に促されたので、実質的に始発兼送り込み回送というところだけど、
このダイヤに改められたのは1990年だったかと。その前は深川発下り始発は5時25分頃の発車で、
朱鞠内発深川行の始発は5時55分頃だった。深川から2台の気動車が朱鞠内へと朝早くに回送されていた訳だけど
早朝に走る回送列車が空走りで勿体ないと思っていたよ。朱鞠内や幌加内に車庫がないので仕方なかったけど、
昔は朱鞠内に車庫もあって蒸気機関車も常駐していたし、朱鞠内から深川への始発が5時頃で、深川からの朱鞠内着
最終も23時近くで昭和30〜40年代は上下6往復の定期列車の他に貨物列車も走るし、その入れ替えなどで朱鞠内駅は
かなりせわしなかったよ。 また、名寄発朱鞠内行最終(20時頃着)と深川発朱鞠内行最終(19時頃着)をつなげて
幌加内まで回送した上で、幌加内駅で深川からの最終列車と繋いで幌加内発の
最終列車として運転していたけど、朱鞠内〜幌加内間は乗客も見込めなかったし、
回送も仕方なかったかと。と言うか、幌加内発深川行最終も実質的には回送だった。
また、平成6年1月22日20時過ぎ、添牛内の浄念寺二世住職(75歳)が寺院近くの踏切で
車ごと立ち往生していたところに朱鞠内発深川行の回送列車と衝突して亡くなり、
浄念寺も檀家数の減少に伴い、数年前に廃寺となった。 >>796
始発の深川発名寄行には運転士と車掌が3人ずつ乗務していたのでしょうか? >>798
便乗扱いで乗っていた。
14時過ぎに深川を発つ朱鞠内行の車掌と運転手が翌日の始発に乗務。
前日は14時7分頃に深川を発つ列車で朱鞠内へ、車両は名寄へと直通するが、
車掌と運転手は名寄から来た深川行で戻り、更に深川と幌加内の間を最終列車で
往復後に旭川へと戻り、ここで一泊、翌朝は旭川から回送列車で深川へ、
始発に乗務する車掌は深川から名寄へ直行、更に朱鞠内〜名寄間を一往復して
10時40分頃に名寄へ戻り、急行に便乗して旭川へと戻っていた。
尚、早朝に深川を発ち、更に名寄と朱鞠内の間を一往復した車両は間合いで
運転する事無く名寄で車庫へ入り一休み、16時発の深川行となっていたが、
深川を11時過ぎに発つ列車の車両は留萌本線から直行する事もあった。 深川始発の朝の5時10分の列車に乗るために網走発札幌行きの特急オホーツクの
夜行を宿代わりにしたのを思い出しました( ´〜`) >>800
そして、深川駅前のコンビニで食料等を調達していたのでは?
5時10分発名寄行の3号車は幌加内で切り離して、折返し深川への通学生を乗せるため、
名寄へ直通する1号車は朱鞠内から名寄への通学生を運ぶための回送列車みたいなもの。
朱鞠内に残された2号車は深川行となって8時少し前に朱鞠内を発ち、
8時40分頃に幌加内に着けるが、幌加内中学校※への通学生は間に合わないので
(※朱鞠内中学校は1986年に幌加内中学校に統合、政和と添牛内も昔は小中併置だった)
列車より早い時刻に朱鞠内を出る町民バスで通学していた。 始発と最終を除くと深川を発つ時にはまあまあ混雑していても
(それでも1ボックスに2〜3人だったが)多度志と鷹泊でかなり下車して、
残りも幌加内でほとんど下車してしまい、朱鞠内まではほぼ空気輸送状態。
幌加内から沼牛まで乗る人はいたけど、沼牛から下りに乗る人を見た事はほぼない。
あまりにもダイヤが不便だし、行きは自動車等で幌加内まで送ってもらい、
帰りのみ深名線を使っていたんだと思うよ。
また、3往復しか走らないにもかかわらず半分の列車が通過していた
西名寄はというと、住宅や商店もあったし、近所には市営住宅もあったが
市街にも近く、曙橋を渡るとほぼ名寄市街。少し歩けばバスに乗れるので
さほど不便もなかった様で昭和30年代には早々と無人化されたし、
昭和45年には曙小学校も隣の弥生小学校(昭和53年閉校)ではなく
名寄小学校に統合されているよ。 >>805
>>806
804だけど何か聞きたい事ある? >>807
在りし日の白樺駅、蕗ノ台駅の様子などを知りたいですね。
いつごろから人家がなくなったんでしょうか? >>808
白樺、蕗の台共にかつては交換駅でかなりの木材を積み出していたし
戦後集団開拓団が入地した蕗の台には小中学校もあった。
しかし、気候条件も激しく、営農は振るわずに離農が相次ぎ
昭和37年には蕗の台小中学校が廃校となり、同年開拓団も解散、
昭和39年には蕗ノ台駅が無人化され、昭和47年頃には無人地帯となった。
白樺はホームや線路より高い位置に比較的珍しい左側出入り口の駅舎が建ち、
(蕗の台駅舎もほぼ同じ形の左側出入り口)、同時に開業した宇津内駅が後に
北一已駅の駅舎に転用されたとの資料もあるし、北一已駅が左側出入り口である
事を考えると宇津内、蕗ノ台、白樺各駅は同一設計とみて間違いないと思う。
農業には不適当な土地であったが、一時期は木材の輸送で栄えたものの
昭和30年代に入ると急速に寂れ、昭和36年には無人駅となり、昭和38年頃には
無住地に、そして、昭和52年からは冬季閉鎖となった事は皆さん承知かと。
朱鞠内湖が近いのでたまに釣り人が下車したり、天文ファンや鉄道ファンが
下車するくらいだったが、平成2年の廃止後もプレハブづくりの保線小屋が残り、
(同様の小屋は蕗ノ台にも存在)ストーブや調度品も置かれていた。
また、蕗ノ台駅は深名線撮影の隠れた名所とされていた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています