【あさかぜ】20系固定編成客車スレ05【さくら】
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>>851
>昼間環境は劣悪
いやいやナハネ10、定員60でしょ。ナハ10は88人。そのシート間隔とやらは470で同じだよ
1ボックス8人のところをハネは6人で座席幅は広い。確かに10系、20系のハネの昼間は狭いとは思う
けど、同じころのナハ10やナハ20に比べたら劣悪ってほどじゃないでしょ
個人的には開放ハザよりコンパートメントっぽいハネの方がいいと思うけど、閉塞感あるし、慣れてないから
日本人は開放の方を選ぶんだよな
実際、14系だけど昼行の天北利尻はハネで余計なカネとってたけど、誰も乗らなくてすぐタダになったし よくわからんけど
スハネ30 寝台数54 ベッド520mm、シート間隔470mm(1区画だけ465mm)
ナハネ10 寝台数60 ベッド520mm、シート間隔470mm
ナハネ11 寝台数54 ベッド520mm、シート間隔520mm
ナハネ20 寝台数54 ベッド520mm、シート間隔520mm
オハ61 座席数96 背合わせ840mm、シート間隔485mm(4区画だけ490mm)
ナハ10 座席数88 背合わせ1000mm、シート間隔480mm(量産車は4区画だけ470mm)
ナハ20 座席数64 シートピッチ925mm(回転クロスシート)
3列だと窓側が出ようとした場合、中央の足がずらしにくい >>866
各寝台の寝間着にブルマが置いてあったw 少なくともブルと入力した時点で候補で出る人柄かと
プルだったらよかったのにね 当時の2等寝台の様式の1つであるプルマン式のことだろ?
他にもルーメット式やツーリスト式などもあった筈。 >>643
『大いなる驀進』は、個人撮影フィルムではなく、劇映画DVDが出回っているし、アマゾンプライムビデオでも見ることができる。
これはかなり凄い。1959年撮影、1960年公開ですので、CG合成技術が存在しない時代の作品です。
↓が予告編とワンシーン(当時も、現在も列車防護の方法がほとんど変わらないのは驚き)
https://www.youtube.com/watch?v=VOfaXFcXKsQ
https://www.youtube.com/watch?v=RaSZghmPUGI
国鉄の全面協力は大きく、映ってる列車の車内は、セットではなく実物です。
EF58特急色や山陽本線のC62、東海道本線の80系湘南電車などがゾロゾロ登場するというのも要チェックです
鉄道がメインの交通手段だった時代の記録として本作は間違いなくトップクラスの作品だと思います。
↓がワンカット。↓の画質の映像としてこの世に存在するというだけで見る価値は高い
https://pbs.twimg.com/media/CIMmI5BUEAAT8NQ.jpg
https://pbs.twimg.com/media/CIMmI5HUsAA8z-Y.jpg 江戸東京博物館でやったイベント上映で初めて見られた映画だった。
ちなみにもう1本は鉄道員(ぽっぽや)。 大いなる驀進
BS 日本映画専門チャンネル
10/27(木) 8:50~10:35
11/8(火)9:55~11:35 >>864
>実際、14系だけど昼行の天北利尻はハネで余計なカネとってたけど、誰も乗らなくてすぐタダになったし
14系寝台付は下り天北、上り宗谷。
で寝台は自由席だが、1区画だけ、改造でグリーン席にした。 >>872-873
『大いなる驀進』は、個人撮影フィルムではなく、劇映画
どうやら撮影した会社に依頼したらフィルムなどのメディアが届くらしく
時々、「名画座」という旧作映画をメインの映画館やミニシアターで上映されている >>875
東映配給
ちなみに悪役商会で元東映フライヤーズの八名信夫がチョイ役ででている もう「走るホテル」と呼ばれた理由もわからん人ばかりよ。
昭和30年代なんて庶民は汲み取り式便所に裸電球のすきま風だらけの木造家屋が当たり前、扇風機だって贅沢品で、各家庭にある訳じゃなかった。
アルミサッシに水洗便所に蛍光灯にガス水道電気が完備の公団の団地が近代的な理想の生活とされた時代。
汽車は車内は木製で暗い白熱灯で扇風機もあったりなかったり、隙間から煙は入ってくるし暖房は蒸気だから場所によって効きが違う。
そんな時代なのに、しかも汽車なのに、1等だけでなく全車が電気式の冷暖房完備、蛍光灯で車内は明るいし、内装が木造でもないし、以前より揺れも少なく防音もしてあるんだから、画期的だったことがわかるってもんで。 静寂性は現代の車両をも凌駕する水準だったと聞き及んでいるが真相は如何に? 色々な方がネット上でUPされている様々な車両の走行音を聞いてるけど、20系のものはやたら静かな印象がある。
もちろん20系の現役当時と24系とでは録音機材など条件は違うだろうけど…、静音対策はしっかりしていたのかも。 >>879
それってここで散々され尽くした話だけどな
読んでないの? 東京・名古屋・大阪と大都会だけを結んでいた電車151系と比べると、
20系ブルトレは大都市も走りながらも日豊線・山陰線・東北線・羽越線など
本線を名乗りつつも実態は安全側線と第四種踏切だらけ枕木ボロボロの非電化ローカル単線とか走ってたんだからなんか凄い。
SLが牽引する『はやぶさ』の画像とか見ると「機関車が石炭でヨボヨボと動いてんのに客車はディーゼルエンジンで発電???」と困惑してしまう。 >>885
> 機関車が石炭でヨボヨボと動いてんのに
これは単なる偏見だよ
DD51が出来るまではC61やC62に勝てるディーゼル機関車なかったから そんなことよりシロクマとグリズリーの自然交配の話をしようぜ >>879
細かいようだが20系登場と同時期の公団住宅は、アルミサッシではなくまだ木造窓枠だな。
東京オリンピックの頃から、公団住宅には鉄プレス製窓枠が登場した。
どちらもペンキ塗りが必須で、無塗装で済むアルミサッシが採用されたのは70年代に入ってからだ。 H3前後に通っていた高校、S37~38年頃に建て替えられた校舎だったけど鉄サッシだったな…。東京オリンピックの頃はそれが普通だったんだね。
…ちなみにその高校、まだ建て替えられず現役。さすがにアルミサッシになってるみたいだけど。
スレ違いスマソ >>880
自分は実際に乗ってるが、客室ドアから内部はかなり静粛
その後の車両と比較してもおそらくトップクラスかと
20系のリアルを知ってると、サンライズの騒音は個室内でも相当ひどい
ただし20系はデッキ部分は走行音がし、その音は旧客に近いものだった
(14系や24系とは明らかにちがってた) 20系気動車とは凄い差があるな
どうしてこうなった? 同じ20系どうしだからって
さすがにキハと比較してやるなよw >>896
これがかつてJR北海道で走っていたというディーゼル車+寝台車の夜行かあ・・・
一度乗って見たかったのう・・・ 博多や熊本、大分で切り落とされて折り返しまで車庫に留置されてた所謂付属編成の電源ってどうしてたんだろう?
折り返しの合間の整備では電源が必要なると思うんだけど 博多や熊本、大分で切り落とされて折り返しまで車庫に留置されてた所謂付属編成の電源ってどうしてたんだろう?
折り返しの合間の整備では電源が必要なると思うんだけど 原始的にほうきとチリトリと雑巾で掃除してたんじゃない?
日本海の24系なんかは末期には終着の大阪駅でカニのエンジン切ってたこともあったし… ラジオで誰かが言ってたが、車両基地でブルトレのリネンの交換のバイトをやってたが、窓は開かないエアコンなしの地獄だったと。
切り落としの付属編成も同じではないかと…と思ったが、食堂車の冷蔵庫はどうした?? さすがに食材は入れっぱなしにせず全部積み下ろししてたんでは 食材はクルーごとの管理だろ?
当然クルーと一緒に動く
誰が何時入れたか分からない食材をプロが客に出せないだろ 皿コップ鍋調味料までそのたびに乗せて下ろしていたと、読んだ記憶がある。 東海道ブルトレも終着東京で回送発車までの間に電源車のエンジン切ってたね >>905
そのための業務用扉
台車で大量に積み降ろししてたのは食器もあったからか オシ17の時は食器も積卸していたけど、20系は最初期の数年間以外食器は積んだままになった
単純に始発・終着駅でのホーム待機時間が短くなり、食器まで積み降ろす時間がなくなったため 関ロッジ
ツイート画像見てたら、近年車両全体に掛けられていた青いシートすら
めくれてしまってて、結構ヤバい状態になってる感じやね。 >>914
そのまま朽ちていくんじゃ悲しいものがあるね だよね
オリジナル室に二度か三度ほど泊まったことある
枕木が腐って若干傾いてた。
夜中に半分寝てるみたいなときに人の気配がしたw
遅い時間にチェックインして
自分より早くチェックインしただけかもしれないし
単なる見学者、もしくは単なる巡回だったと思うが
当時少しだけガクブルしたもんだった。
うどん屋の24系も、屋根の有無も大事だけど
木枕木なのが心配だ。
関ロッジに限らず保存車って枕木から駄目になるからね。 20系客車利用のホテルは北海道の冬が寒そうだよな
断熱材が吹き付けアスベストだけ? >>919
見ちゃったよ!
プカプカとタバコは吸うわ棄てるわ
発進してるのにヒョイと飛び乗るわ
最後口笛吹きながら清掃兼見回りするわ
とにかく良い時代だったなww 1960年当時の交通事情
当時の日本は、旅客も貨物も長距離は鉄道と相場が決まっていた。
日本での飛行機の国内旅行はまだ一般的でなく、運賃高額、運休しやすいだけでなく、墜落事故も多発していて「空飛ぶロシアンルーレット」状態だった。
日本の道路は欧米諸国と異なり、馬車交通等を経なかったため、桁外れに劣悪でクルマの増加にインフラ整備が間に合わず、
リアルの戦争よりも交通事故で命を落とす人が多かった「交通戦争」と呼ばれた暗黒時代の真っただ中だった。
1960年の日本には都市間高速道路はまだ存在しない。当時の国道1号線はダート区間が存在していて、国道でさえ、7割〜8割が舗装されていなかった。
こんなんで東京−長崎間をクルマで移動するなんて狂気の沙汰だったろう。
「大いなる驀進」撮影の4年前の1956年、政府が東京 - 神戸間の高速道路建設の調査のために招いた
世界銀行のワトキンス調査団が発表した報告書にはこう書いてあった。
「日本の道路は信じがたい程に悪い。 工業国にして、これ程完全にその道路網を無視してきた国は、日本の他にない。」
by ワトキンス調査団 名古屋・神戸高速道路調査報告書 「日本の道路は信じがたい程に悪い。 工業国にして、これ程完全にその道路網を無視してきた国は、日本の他にない。」
「国家の繁栄と偉大さを決定するものに三つの要素がある。それは、肥よくな土地、繁忙な工場、人と物との場所から場所への容易な輸送である」
「高度に工業化された国において、このように鉄道輸送が全般的に卓越し、道路輸送がひどく遅れた状態にある著しい差異を示しているものは日本のほかにはない。」
「1956年の道路の未舗装率は、一級国道で77%、二級国道で90%、都道府県道では96%に及ぶ」
by 「日本国政府建設省に対する名古屋・神戸高速道路調査報告書」
1956年当時の政府がワトキンス調査団を招聘したのは、大きく2つの理由からでした。
ひとつは当時の戦後復興間もなく、まだ発展途上国だった日本の国家財政では高速道路を建設する資金など捻出するすべはなく、
世界銀行から建設資金の融資を受けるためには東名高速道路、名神高速道路を建設する計画の正当性を国際的に認知してもらう必要があったためです。
そしてもうひとつの理由は、当時の日本には自動車専用道路の専門知識を有する人材が日本にはいなかったからです。
(そもそも1956年の日本には高速道路など全くなかったわけですから当然なのですが) そういうわけで、1958年当時、国鉄が20系客車を作った理由がよくわかります
1958年の日本の交通事情では冷暖房があり発電装置が設置されている20系客車こそが
「当時の日本で妥当なコストで作ることができる最新鋭のハイテク鉄道車両」だったのです 20系を使った急行の格は以下のイメージ
全車寝台車>ナハ21入り>12系と連結 >>925
そう考えたらやはり銀河が急行ブルトレの王者となりそう ナハ21有:十和田、だいせん
12系混結:ちくま、さんべ、かいもん、日南
同じ車両を使っているのに銀河などと比べるとやっぱ格が落ちている雰囲気があった 20系急行でトレインマークが真っ先に絵入りになった銀河はやはり別格なのかもな
しかも20系化された当時はまだ20系が博多あさかぜなど特急で使われてたから余計にそう思う >>928
おがが20系になったときは季節になってるね
57.11で津軽を20系にしたらナハ21じゃさばき切れなくて、おがの14系ハザと編成を入れ替え 20系だいせん、出雲市~大社は普通列車として走ってた時代あったな オール寝台車編成の緩急車はナハネフ22
ナハ21入りや12系混結編成はナハネフ23
とちゃんと分けられていたのが意外だった 横からだが、単体レスだろう
で933の認識内容が少しおかしい、と。 単に西にナハネフ22が多く居て東はナハネフ23が多かっただけの話だけどね。
JR東に移行した分はナハネフ23しか残らなかったし(ナハネフ22 1を除く)、1000番代化されたのにはナハネフ22が多く居るので>>933が言ってる事とは当てはまらない。 >>930
絵マーク制定の動機、
戦後すぐ短期間に存在し、
百關謳カが宮城道雄とのエピを書いた
急行で当時唯一のバックサインが
無関係ではないと思ってる。 製造が5両以下だった20系は下記だけかな
ナロネ20
ナロ20
10両以下というのもありそうだが コロタン・ブルトレ全百科に載っている青森駅に停車中の『ゆうづる』の写真
EF75の次のナハフ20の次にナハフ21が連結されている様に見えるのがあるがナハ20がなんらかの理由で外されてナハフ21が代替のなったのかな
>>939
東日本側にナハネフ23が多かったのはやはり上野と尾久での回送運転が原因かね
電源車側は仕方ないにしても反対側は貫通扉を開けてブレーキ管を繋いだ方が諸々の作業的に都合が良かったとか 訂正:ナハフ21が代替のなっ
→ナハフ21が代替になっ 改造車だがナハネフ20が3両のみ
>>942
ナロ20は1~5と51~54の計9両製造 >>945
> コロタン・ブルトレ全百科に載っている青森駅に停車中の『ゆうづる』の写真
p177にあるED75 1015が先頭の昭和44年8月撮影の写真のことを言ってるならば、ナハフ20の次は明らかに所定のナハ20ではないか?
・ナハネフ21の3位は出入口がありそのすぐ脇はクランク型の通路となっているため窓がないが、写真の車両には客室出入口のすぐ隣にも窓がある
・ナハネフ21の1位は洗面所とその明り取りの窓があるが、写真の車両のそれにあたる部分には窓がない (ナハ20の1位には売店用の物置がある)
ナハ20
ttp://www.jnrsite.net/PC/20k/img/naha2052.jpg
ナハネフ21
ttp://noble-joker.com/nj_home/@5top_pc/pictures/nahanefu21.jpg > ナハフ21が連結されている様に見えるのがあるが
・そもそも昭和44(1969)年8月時点だとナハフ21は全てナハネフ21とナハネフ23 500に改造され形式消滅済である
・ナハフ21の3位は出入口とそのすぐ脇に売店と物置があるため、座席2~3列分の窓がない
ナハフ21
ttp://www.n-sharyo.co.jp/museum/bluetrain/nissha/nahafu21-01.jpg 20系ハザと151系ハザのそれぞれの窓が形を見るに、もしかしたらシートピッチは20系ハザの方が狭かった? シートピッチ
151系 910mm
ナハフ20 925mm 俺の中学時代
ちょうど20系が臨時の特急寝台で使われてた最晩年
もちろん小遣いというか親のカネだが
乗っておいてよかった 新幹線開業前の20系ハザは東海道区間だけでの昼行利用も多かったが、
ロザは全体的に利用率が悪くてロネに改造する案もあったらしい。
その後東北新幹線開業や東北昼行特急増発で20系ハザはハネに改造されたが、
ロザの一部もナハネ20に改造されたとか。 >>954
> 新幹線開業前の20系ハザは東海道区間だけでの昼行利用も多かったが、
> ロザは全体的に利用率が悪くてロネに改造する案もあったらしい。
誰情報? 昼行利用の可能性もロザよりはあった程度でしょうねぇ 電車特急の最終のおおとりが東京駅18時発だから
それで昼行利用は十分な感じはするよね
それでも東海道だから客車1、2両くらいの需要はあったのかもしれないが >>954
東海道の昼間に走っていたことあったの?早朝のこと? >>958
夜行列車じゃないのは全部昼行列車なのよね 「昼行利用」の話が「昼行列車」にすりかわっとるぞ
そうなるとまた意味ちがってくる
最初の話題は
「昼行移動手段として利用可能な区間だけのハザ車利用」
だからニュアンスがちがう >>959
ごめん。言っていることが余計 わからないから、もういいです。 >>954
> その後東北新幹線開業や東北昼行特急増発で20系ハザはハネに改造されたが、
しれっとウソを混ぜるな 959
そもそも『寝台列車』って語や概念はレトロニム
(あとから出てきた語)
まず『夜行列車』について
これは「夜通し走る列車」ていどの意味
夜行列車イコール寝台専用列車でもない
そのことは近年まで能登などの座席夜行もあったから
まだ理解しやすいはず。
で、『寝台列車』の語のほうだけど、
1960年代頃まではそのような呼び名や概念は基本なく、
単に「特急」や「急行」だった
つまり(夜通し走るから寝台車多めの)特急、ってだけ
当時は寝台車主体の列車でも座席車はデフォだった
本当に寝台車オンリーの列車は
「寝台専用列車」などと呼んでたはず
それは初の固定編成として登場した20系の
登場初期においても、まだ同じだった。
結果、ナハという座席車が用意された
(ハザ設備は不要ではという議論はあったらしいが)
で結局、20系使用特急から座席車が外されるようになり
「寝台専用列車」が主流化したことで
『寝台列車』の語の意味が
だんだんとそっちを指し示すようになった >>963
レスアンカー使おうな
あと詩みたいになってるぞ
寝台専用列車って実は寝台だけじゃなくて座席車(指定席)も連結してた レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。