【あさかぜ】20系固定編成客車スレ05【さくら】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
朝まだき、ナハネフ22の先頭の小窓を開けてもらって、赤沢トンネルを通過するときの音と光景。
それが最後の年だったようだ。 >>675
オープンリール担いで音鉄する人いたんだな
カセットは当時でもあったが音が悪く会議用くらいしか使い道が無かった 昔はデンスケというのがあってだな。
自分はカセットテープ用のデンスケしか知らんけど。
なおオープンテープの扱い方は知ってます >>675
1976年10月改正で車掌補が廃止され、東京駅発車時点でベッドがセット済みに変わったから、それ以前のレポだな カセットはノイズ取るのにドルビーシステムというのが流行ったなあ。 97年のさよなら20系客車号は昼行で大阪〜岡山のみとか何か物足りなかったな
下関まで夜行で走行しても良かったのに 10年前の蓬莱峡らしい。
http://www.t-net.ne.jp/~taka-q/sy/p/1301/09.jpg >>684
まるでロープウェイにでも乗ってるような景色だ
なかなか凄い所にあるようで >>681
この映像の凄いところは4:06のところで、
スニ20 51とあるところだよな >>681
あさかぜなのに伊吹山が午後の光線とか言ってはいけないw 20系全盛期、カニとナハネフが横並びで写真に納まるって事は絶対になかった? 688見て調べてたらこんなのが出てきた
https://aucfree.com/items/l558121030
もうちょい前なら20系のカニとナハネフの並びになりそうだが
そもそも何で逆向きなのかよく分からない >>689
あくまで想像だけど、大阪では機回しできないと思うのが関係するのでは?
あかつきや彗星は大阪到着後そのまま向日町に回送されるのに対して、日本海やつるぎは大阪到着後、進行方向そのまま北方貨物線を周って上り線に向かう感じになるから、日本海・つるぎ編成は逆になる。 >>690
ああ、そういう事情があるのですね
ご回答有り難うございます ttp://img.aucfree.com/l558121030.1.jpg
1974年9月16日だと日本海・つるぎは共に青森持ちの20系だが整備は宮原だったはず
何らかの理由で宮原が使えず向日町整備になったんだろうか カニとナハネフが横並びになるとしたら、1965年10月から1975年3月までの鹿児島車両所構内だろう
品川持ちのはやぶさ・あかつきと富士が逆向きで西鹿児島を発着してたから >>693
>>692の画像を別のサイトで見て「大ミハか大ムコで20系時代もこんな並びが実現したかも」と思ったんだが、
鹿カコで『はやぶさ』『あかつき』『富士』があったか。
一瞬それなら『かいもん』『日南』も・・・と思ったが両者にはカニもカヤもなかったね。 >>694
> >>692の画像を別のサイトで見て「大ミハか大ムコで20系時代もこんな並びが実現したかも」と思ったんだが、
後出しにも程があるだろw
こういうのは最初に書いといてよ >>692
日本海・つるぎ、20系時代は向日町整備でしたよ 日本海・つるぎ、宮原整備になったのは昭50年3月10日ダイヤ改正からです >>696
ならば所定の整備ですね
フォローThx >>697
1975年3月改正だと、日本海とつるぎの運用が分離となり、つるぎは主に品川から転属してきた宮原持ちの20系に置き換え、
日本海は広域運用で有名だった早岐の14系に置き替え、加えて季節列車として宮原の14系座席車による2往復体制になった
のでなかったかと
なお、この当時の早岐の14系の整備は、あかつきから日本海に化ける関係で宮原ではなく向日町だったと記憶してます >>699
通常の他の早岐14系あかつきは新大阪行でしたが、日本海とあかつきで広域使用される早岐14系1本だけは大阪行あかつきで新大阪手前で左へ曲がりそのまま宮原整備→日本海でした
50年3月10日改正で宮原配置になった20系はつるぎ25形化後は銀河に使用されましたね 少し補足です
宮原整備で青森行 日本海になる大阪止まり早岐14系は「あかつき+明星」でした
青森から戻った日本海は宮原で整備され大阪発あかつきで九州へ戻ります >>700-701
そうでしたか
>>699を書き込んだ後、早岐14系の日本海の編成の向きがオロネが大阪方になっているのに気づき、向日町整備だと矛盾が生じるので
関係資料を調べてるところでした
お手数をおかけしました 余談ですが
早岐14系は15形置き換えで53年10月改正「北星」「北陸」用に尾久転属になりました
その際、上記の大阪止まり早岐14系「あかつき+明星」が大阪から全てそのまま(愛称方向幕・牽引機・リネン類)で、尾久転属の為に日中の東海道を上り品川まで回送されました
思い出が蘇りましたw
長々とすみません >>703
青森経由で日本海→ゆうづるを経て早岐から尾久へ転属した車両もありましたね あけぼの24系化で状態の良い20系を下関・熊本へ転属させる時も、最後尾ナハネフ22は "あけぼの" 表示のまま熊本まで行ってたし、
北星14系化された時も20系 "北星" のまま東海道線を転属移動してたしw
昔は転属時に愛称や行先表示は、そのままの方が多かったからね
転属先に行った20系の愛称板って後で返却とかになったんですかね? 細かいことを誰も指示しないから、営業運転最後の時のままだったりして。
>>706 晩年の20系臨時の明星(手書きマーク)に、昔のつるぎ裏面が使用されてた画像はネットで見た事あるw それにつけてもナハフ20一派の優美さに比べてナハフ21族の武骨な外観よ。
九州の末端区間とはいえ特急の最後尾を飾る顔として役目を担うんだしスハネフ14の様に折妻で丸みがあるデザインにしても良かったのではないかしら? 「固定編成」客車だし分割前の編成としての一体感を求めたのでは 後世の感性で当時の車両に文句をつけるヤツはアホだと相場が決まっている ま、確かにナハフ20のセンスに対してナハフ21も実用的過ぎるよな。
また急行に格上げ運用で使われてたナハネフ22はなんか非常に勿体なく見えた。
ナハフ20やナハネフ22の車掌室側ってのは特急でこそ映える物なんだなと。 懐かし車両ヲタは現実に存在した物以外の話を忌み嫌うからなー >>720
本来の用途としては付属編成分割または切り落とし後の短区間用だから仕方がないよ
上りは機関車と繋がれてるし >>722
そうなんだろうなー。
後に本当の最後尾として使用される事は想定されてなかったのも致し方なしか。
それでも貫通扉くらいは車体と同じ色に塗装しておいてもと思うが・・・。 >>723
少し前までのKATOの模型が理想的だったんだな…
(車体色のまま、塗り分けられたのは最近) かっこよかったろ、ナハネフ23
オリエントの時に一番目立ってかっこよかったのがオニ23。もう片方もなぜあれにしなかったのか >>725
日本式ヨーロピアンスタイルの魅力が最も引き出され&モノホンに最も拮抗した共演だった、
みたいなことを当時の雑誌で書かれてたね。
>>723-724
たしかに貫通扉に関しては列車全体のデザインとしてはそうだったかも。
ヲタ視点でなくともデザイン視点でも。 ナハフ21やナハネフ23のスピリッツは国鉄末期に食パン顔面に受け継がれた的な? 20系客車による九州寝台特急全盛期でナハフ20やナハネフ22が見られなかったかった区間は熊本以南、大分以南くらいか?
長崎や佐世保はマヤ20付の付属編成とは言え片方はナハフ20やナハネフ22だったろうし。 オハネフ25などは25形として24系と区別されるのに、
ナロネ21、カニ22、ナハネフ23などは21形〜23形として20系と区別されないのは鉄道省三大七不思議の一つよな。 それ、系列と型式の区分でしょ?
25形は24系25型だから24系系列の車両でその中で24型と25型に分類されるみたいな。 >>732
40年ほど前の小学低学年の頃、24系には24型と25型があって寝台段数などの違いもあり区分されるもの(混結は可能)と認識してたけど、20系は形式名に20〜23はあれど区分はせず=型で分類しない、と子供なりに当時の自分は理解してたけどなぁ。 以前の国鉄時代と言う本にパンタ付きのカニ22がはやぶさで運用されて鹿児島本線に入っていた写真が掲載されていたらしいが、この場合は速度制限掛かって遅延状態になるんじゃないのかね? カニ22でも51はパンタ付きだけどMG装置が外されている異端車(パンタ撤去は1963年頃) >>739-741
じゃあ先行してMGだけ撤去したってことか?
であればパンタを存置した意味は何だ? >>742
その時点ではMG再搭載の可能性があったから >>742
当時の20系のディーゼル発電装置の信頼性が想定以上に低く、予備車確保のための緊急措置 鉄ピク別冊の20系特集にある記述
鹿児島特急の電源車はマニ20形式を使用するため予備車が不足する.そこでカニ22形式の新製は「さくら」用3両の他に「はやぶさ」用1両を加えて
カニ22 1,22 2,22 51,22 52の4両を発注した.「はやぶさ」用は熊本以南の牽引定数に触れるため,落成後一時的にMG装置を撤去して換算重量を
6.0から5.5に下げる処置を行い,DG専用のカニ22形式に変更する.このため7月12日にはMG取り外し要領が作成され,同月2日に落成した日立製の
カニ22 51は大船工場でMG関係機器を取り外しDG電源車に変更された.これは山陽本線全線電化時に両用電源車に復帰できるように配線類は仮
留めされてMG休止扱いになる.
(中略)
カニ22形式が落成すると予想以上に重たい車体になっていた.空車で59t,積車では63tを超えて64tに近かった.これは重量軽減が思うようにいかず
台枠や鋼体の補強に重量が嵩み,MGやCO2消火装置などの追加機器も加えて予想を超えてしまった.このため3線級の軸重が4軸で63tに制限されて
いるため,荷物室の積載量は3tの能力を持ちながら使用を2tに抑えた.ただしカニ22 51はMG撤去のため荷物室は設計通り3tのままにして,マニ20
形式と運用が組めるようになっている.これで通常のカニ22形式は熊本以南および佐世保線には向かない客車になってしまった. なお、その後「みずほ」用として増備されたカニ22 3と53は従来車の実績を元に徹底的な軽量化と様々な改良が加えられている
その一方で前述の文献には、「みずほ」の運用開始で「4特急の電源車は使用9両に対して予備車は3両になり,検修率は一時厳しい状況に入った.」
との記述があり,依然として20系のディーゼル発電装置は信頼性に難があったことが伺える
1963年6月「みずほ」運転開始時点の20系電源車 計12両
マニ20 1・51・52
カニ21 1・51・52
カニ22 1・2・51・52・3・53
ちなみに編成反対側のナハフ20の当時の配置は9両でナハネフ22は未登場 ナハフ21は予備が3両あったため、ナハフ20の代わりにナハフ21が連結されたこともある 落成した直後に工場に取り込んで新品のMGを取り下ろしてマニ20と共通運用としたこと自体が異常だわな
設計陣がDG設計の失敗を認めたくなかったのかという疑念しかない おちつけ
カニ22は、MG専用のオニ22では荷物の積み替えが必要になるため、DGとMGをまとめてその分燃料を減らした車両として作られたもの
単純に一部荷物室のオロネニ22を作り、荷物室なしのオヤ22で下関(作られた当時は広島)以東・荷物室があってもほとんど使わないマニ20で下関以西のコンビで運転すればよかった
いわばオニ22のコンセプトを間違えて作った車両
また、架線電流の給電量も間違えて計算したため、架線を溶断寸前にしたケースも発生し、長時間停車する可能性がある番線の架線は太い架線へ張り替えられた
そうこうしている間に「全てDGによる供給のほうが架線停電しても編成には電力供給が続けられる」との事でカニ21へ集約されてしまった
カニ22も東京−博多間へ割り切れば、DG区間は1964年8月から下関以西になるため燃料は700リットルだけでよく、5t満載しても線路規格による制限は受けない(強化区間のみの走行)ことから大いに使えた ここは「ぼくのかんがえたさいきょうのにじゅっけい」を披露する場ではないんですがね
時代考証からして滅茶苦茶だし突っ込む気すら起きない >設計陣がDG設計の失敗を認めたくなかったのかという疑念しかない
ここは「ぼくのかんがえたさいきょうのにじゅっけい」を披露する場ではないんですがね
時代考証からして滅茶苦茶だし突っ込む気すら起きない >>745
熊本以南または佐世保に乗り入れるには車両側の軽量化か、軌条の教科が必要だった訳ね。 >>749訂正
ほとんどの区間で架線下走行になることから、昭和35年夏前後で投入する荷物電源車は架線利用を本格検討
最初に生まれた案が交直流MG荷物電源車だけど、交直切替時一時停電になることが嫌われ廃案
次に交直流MG荷物電源車と非電化区間だけDG荷物電源車を連結する重連案。非電化区間の連結重量が増えることから廃案
最後に残ったのが、DG・交直流MGを1つにまとめたシロモノ
始めのコンセプトが全架線下運転による牽引重量の営業客車比率向上であったけど、最後は迷走してマルチ化し、それがカニ22の命運を決めた
重量オーバーが確実視されたため、直流MG荷物電源車と交流・非電化区間だけDG荷物電源車を連結する重連案が再び出されたものの、竹下の留置線長さ不足で廃案
この亜種として荷物室付二等寝台車と直流MG電源車/DG荷物電源車があったけど、「将来寝台特急には荷物を載せない」方針になったため、廃案
下関駅に地上3相600V送電ジャンパを設置し、機関車・電源車付け替え時に荷物室付二等寝台車の専用受電口へそれを接続して一時停電阻止
結局、交直機器と交流設備を外したDG・直流MGを1つにまとめたカニ22が作られた
カニ22投入時昭和35年7月は上郡までしか電化なされておらず、姫路でDG/EGを切り替えた
(同年10月からは岡山で切り替え。広島切り替えは昭和37年になってから。あいすまぬ) >>753
交直切り替えのわずかな停電がそれほど影響するのかな? 日本語として意味を成さないコピペ返しとか、想像以上に頭が悪すぎる奴だった 電車でやってたことが客車だと不可ってのもおかしな話だな 伸びてると思ったら自分語りの香ばしいヤツが沸いてるのかorz 皆さんありがとうございます。
ということは国鉄時代に掲載されてた鹿児島本線熊本以南を走るパンタつきのカニ22はMGだけ取り払ってパンタを残してたのはMG問題もあったのですね。
参考になりました。
感謝します。 >>760
当時のDGはそれ以前の信頼性しかなかったわけだが >>760-761
信頼性云々よりもDG電源車の一番最初がマニ20だったことで様子を見てみた節もあったのでは? ただ国鉄で、と言うか日本で初めての電源車ってマニ20で合ってるよな? 客車での集中電源方式自体最初
まだほとんどの路線で蒸気機関車が使われていたから、どうしても重量軽減が優先された
それなら、当時は最高速度95km/hなので、荷物室を外して作ればよかった >>765
後は線路等級が今よりも低い路線も多かったしな。 カニ22で思い出したが、実は新幹線開通の1964年10月改正より白紙改正した翌1965年10月改正まではあさかぜにも使ってたが、ここで1つの疑問が生じた。
何で新聞輸送などで結構な荷物を積む必要があるあさかぜ(実際荷物需要は多くて5t積のカニ21でも足りなかったぐらいだ)に積載量の一番少ないカニ22を回したのが疑問。
これで荷物の積み残し続出したんじゃないか? 東京−下関間全線直流電化
下関−竹下間さえディーゼル回せばよい
それなら軽油も少しだけ積んで荷物1t追加確保
or
全線16.8t許容だから全備状態+1t荷物追加で64t状態にて運転
カニ21の1個燃料タンク車5両に燃料タンクを増設したのはいつだっけ?
たぶんその関係であさかぜにカニ22が回されたと思う 1964年10月改正
山陽本線全線電化、はくつると富士が運転開始
電源車の予備をカニ22からカニ21へ方針変更、長距離対応としたカニ21 2~6 を新製、品川へ配置
品川客車区
マニ20 1 51 52
カニ21 1 2 3 4 5 6 51 52
カニ22 1 2 3 51 52 53
使用列車
マニ20 富士(x2)
カニ21 はやぶさ(x3) はくつる(x2)
カニ22 あさかぜ(x2) さくら(x2) みずほ(x2)
予備 カニ21 x3 マニ20 x1
カニ21 2・3 長距離対応(燃料タンク増設)、
カニ21 4~ 長距離対応(燃料タンク増設)、寒冷地対応
当時の富士は大分発着 当時の発電装置はまだまだ信頼性が低く、他の車種よりも予備車を多く抱えざるを得なかった事情もある 訂正
カニ21で最初から燃料タンクが1700リットルx2で落成したのは4~
2と3は当初は1700リットルx1で落成し、1964年度中に1・51・52と共に1700リットルx2に増設
したがって落成時は
カニ21 2・3 寒冷地対応、
カニ21 4~ 寒冷地対応、長距離対応(燃料タンク増設)
が正当
なお、マニ20は当初から1700リットルx2、カニ22は1700リットルx1 肝心の福岡向けの荷物輸送はどうだったんだ?
あさかぜがカニ22だと>>767のような状況になるのだが。 そもそも当時が新聞輸送であふれるというその根拠を先に出すべきでは?
今のところは個人の想像でしかないようだが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています