【あさかぜ】20系固定編成客車スレ05【さくら】
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もう何年も前になってしまったが、関ロッジ、泊りに行っておいてよかった。
指定管理者が変わった1回目は宿泊が保持されてたので、再開業後、数回泊まった。
そして休業、2回目の再再開業時にはすでに泊まれなくなっていた。
(今回の管理者は3回目) >>590
20系が誕生した1958年当時はまともな制御装置が無かったから「ディーゼル発電機を無人で動かす」のが無理だったからな・・・。 (20系を湾岸ポエム風に)
それは・・
夢と希望と狂気が作りあげたマシーン
何のデータもなく
誰もノウハウなどしらない
当時の日本ではあまりにも現実離れした
途方もないその数字
62年も前───
本気でその領域へ・・
夜行列車全編成全区間冷暖房化
ディーゼル発電機12時間オーバー運行
あの男たちは本気でそれを手にしようとした 固定編成って言うから中間は半永久連結器でも使っているのかと思った パンタグラフ付きのカニ22、子供の頃、本で見たときはこれにモーターついているから機関車いらない、列車でなく電車じゃないのか?と思っていた。 その気持ち、分かる
あとは「カニ」という記号の響きだな 今更だしガイシュツかもしれないが、カニ22はDGとSGをそれぞれ別個に搭載するのではなく
動力切替で発電機を共用するのは無理だったのだろうか? カニ22は3軸台車にすれば軸重軽減できて入線可能線区の制約が緩和されたのに
軸重16トンとか大型機関車並
現在だと四季島の先頭車が64トンあってカニ22に匹敵する重さ >>598
当時は技術的にDGとMGを融合させるのも困難だったし
万が一の故障時に於ける冗長性確保の理由も有ったのではないかと >>598
ちょうど昨年出たピクトリアル別冊の20系本にその辺りは出てるがカニ22の計画中は交直流両用な上に
発電機部分を電気とディーゼルで共用する方式も考えたものの重量面や1960年夏までの製作時間的にボツ 技術的には問題ないけど、定置や船みたいに自由度あるならともかく、直列に置くしかない
ような鉄道車輌だと伝達装置を取りまわすより、発電機をそれぞれに積んだ方が面倒ないんだろ まぁ俺が思いつく位だから当時の開発者も当然検討したんだろうが、結果DGMG別搭載の超弩級の電源車になってしまったと。
しかもMGの信頼度がイマイチで、直流区間でもDGを回す事もあったようだ。 @Tamon0703
ピク誌の20系固定編成客車の号を読んでいて思ったのだが、カニ22って何のために造ったんだろうな。
電動発電機とディーゼル発電機の両方を積まなければならないのであれば、機材の初期導入費用も重量も明らかに不利なだけだと思うのだが。
電化区間でDGを動かすのがそんなに問題だったのかな。
@SEI_YASUMA
端的に申しますと、それだけ発電セットの信頼性が低く故障が多かったということです。
DGの場合乗務員を始終張り付けておかねば怖くて運転できませんでしたから。
20系のトラブルはほぼ電源車の発電セット停止に起因するものでしたから、直流電化区間だけでもその心配のまずないMGにしたい、
という当時の技術陣や運輸部門担当者の考えも無理からぬものがあります。
続きは↓のやりとりを参照
ttp://twitter.com/SEI_YASUMA/status/1332282618721619968
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) @SEI_YASUMA
DMF31Sに連なる国鉄制式機関で一応の信頼性が得られたのが、クランク軸受を船舶用大型機関並のトンネル型ころ軸受として制式機関の
業病であった同軸受破損を回避できるようになったDML61ZB以降の話なので、機関の信頼性がマシになったとしても、1960年代も終わりに
なってからの話なんですよ。
なお、20系客車が総数約480両で正規の電源車が38両、新造時点なら1編成に1両は含まれていた食堂車が36両という構成なんですが、
この時点で電源車は定期検査に関係無い故障対応のための予備が少なくとも2両はあったと判ります。
言い換えると、20系電源車は最低でも2両は余計に準備しておかないと危ない、と国鉄自身が判断する程度の、およそ安定には程遠い信頼性、
故障率であったのだとも言えます。
余談ですがカニ22 51、つまり日立製カニ22のトップナンバーは新造後まもなくMGを下して「マニ20・カニ21・カニ22共通の予備車」とされて
いますが、これもまた電源車3形式のどれが何時壊れるか知れたものではなく、そのままでは扱い辛いカニ22を予備車として急遽抽出した
状況の傍証となりましょう。
もし新造が間に合っていればカニ21を予備車としていた筈で、つまり次期予算での新製措置すら間に合わない/待てないほど切迫した状況に
あった訳です。
ttp://twitter.com/SEI_YASUMA/status/1332158539641495553
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 脳内妄想かどうかは本人の他のツイートも参照して判断してくれ でも鉄道雑誌でもこんな内容の記事見たことないしなあ >>609-610
TL読んだが国鉄車両の設計陣の大本営発表とそのつじつま合わせっぷりが垣間見えてすげえ面白かった
そりゃあ電源車に検修係を乗せるだろうしマヤ20が上京してくるわな >>609-610
面白いツィートありがとうございます。
喜劇急行列車だったかフランキー堺の映画で
同じ列車なのにカニ22のパンタがついてたり
外されてたりして苦笑せざるを得なかったんだけど、そういう裏事情があったとは。
国鉄制式の軸受とはどのようなものだったんだろう?中回転高負荷だったろう台車の軸受の技術はあるけど発電機の軸受は多分高回転低負荷
であろうけどそのノウハウが蓄積されてなかった?それ以前にベアリングなのかな?玉の精度に問題あり? 焼き付いて発電機が外れて車体破って外に飛び出しかねない危ういものだったのだろうか? 上のツイートはガチだな
今でこそ日本車は壊れないイメージがあるが、昭和30年代なんて日本車のエンジンは酷いものだった
トヨタや日産は生産技術を積極的に取り入れる事で安定性を含めた性能向上を図ったが、国鉄は自動車ほどの大量生産が求められなかった事もあって、最終的には個体差は職人技で乗り切っていた気配を感じる 他のツイートを見てみたが昔の文献をきちんと調べてるし数々の事件事実とも整合性が取れているとは思った 当初、ナハだのナハフだの有ったらしいが
急行寝台の方が、万倍マシだったんじゃないのか? >>622 昭和36年、オレの両親が福岡で結婚式あげて上京した時は、寝台が空いてなくてナハかナハフだったらしい。途中静岡で降りて伊豆箱根を新婚旅行として廻って、153系準急東海で木造アパート一室の新居へって随分タフだったんだなと感心。 >>622
当時はまだ東海道新幹線開業前だったから東京−名古屋・京阪神といった区間で、
最終列車的に利用する人も多かったらしい。
だが東海道新幹線ができてからはそのような利用が減ったため、ナハ・ナハフの利用者も激減した。 寝台はお金持ちの乗る物
寝台に費やすお金があれば、生活の方に回すのが当たり前の層が沢山居た
斯くなるうちの先祖もそうだった
気合で何とかなる部分は、全て我慢で対応 鋳鉄シューで増圧して強引に110キロ運転したら制輪子の交換が頻繁では? 高砂工場でカニ25
ttp://kokutetu.up.seesaa.net/image/E696B0E9AB98E7A082E382ABE3838B251E6A8AAE9A194.JPG
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その当時、東京〜山陽・九州などの長距離を、一昼夜座席夜行で過ごす旅客は珍しくなかった。 20系は固定編成だったが
末期は2両分割、12系のお供になって、おでこの帯消されて、とても残念だった
急行かいもん&日南 >>631
しかし12系併結改造車は自動ドアになって、車掌はだいぶ楽になったよな。
ナロ20はどの連結列車も利用不振だったんだな。
あさかぜ用3両以外は大掛かりな車体改造までしてナハネ20-500に改造したものの、なんとそれから4〜5年で廃車。
ナハフ21大改造車も同様。
初期の20系は75年以降急速に廃車になったが、この改造が行われたのは既に14系が登場してた71〜72年。
経年と間近に迫る山陽新幹線全線開業の兼ね合いを考えれば、ナロ・ナハフをナハネに大改造する意義があったのかね。
改めて国鉄は金のどぶ捨てが好きな組織だと思う。 ロックピンの所にアイスの棒でも差し込めば走行中でもロックは解除は可能 >>635
それを言い出したらなんでもありだな
Dコックを扱えばドアは開けられると言ってるのと同じ 一時期、wikipediaの20系客車の記事に、
「ドアには走り出すと車速を感知して自動でロックされる機構が備わっている」
というトンデモが載っていて話題になっていたが、
どうやらそれが書かれた原因らしきものに辿り着いた。
鉄道ファン78年1月号が20系客車特集だったのだが、この号には
フランス国鉄の新型客車コラーユの紹介記事が載っていて、
正に、「車速式自動戸閉装置」が装備されていると書かれている。
Wikiの投稿者はこの号のことを、うろ覚えで執筆したんだろうな… >Wikiの投稿者はこの号のことを、うろ覚えで執筆したんだろうな…
どうしてこの結論にたどり着くのか 実際は車掌スイッチでロックする方式のはず
高崎の旧客も同様だがドアを開放固定する電磁石の電源が切れてドアクローザーで自動で閉まる >>640
>どうやらそれが書かれた原因らしきものに辿り着いた。
辿り着いたと言ってるので「結論」
そもそも推測と結論は対語じゃない >>632
ナハフ21じゃなくてナハフ20だ。
大改造杉だろ。
73年から24系、74年から25型投入、山陽新幹線全線開業間もないのに、大金かけて経年座席車をナハネ大改造する意義はって?
改造時期的に、北陸トンネル急行きたぐに火災事故による14系製造中止は関係無い。 映画大いなる驀進見ると発車時20系の折戸
開けたまま白服列車ボーイがずらーと安全監視
してて格好いいんだよな ナハネフ22のパノラミックウインドウから
過ぎ去る線路を見ながら、旅をしてみたかった
見晴らし良さそうだ オハネフ25の金網越しだと寂しいものがあるよね。 初期車の平面ガラス2枚と言うのは渋いが
ゴツゴツしてやはりちょっと格好悪いとも思う。魚飼う水槽も良い奴はガラスが厚くて角が丸くなってて見栄えがかなりいいよ。 >>645
半分は車掌室の仕切りで見えないけどね。客室の窓の高さと同じだから上方への開放感は無いし椅子も無いから居心地はあんま良くない。 >>648
1975年の8月、下り「あさかぜ2号」のナハネフ22展望室から眺めた光景は素晴らしかったですよ
ずっとそこで眺めていたかったけど、親に言われて渋々自席に移動しました
その時まさに11才で、後に乗った時と比べると確かに高さは丁度良かった気がします
157系「あまぎ」との擦れ違いや小田原〜熱海辺りで見えた花火とか、今でも脳裏に
焼き付いてます 初期の20系は、電源車が比較的長生きしたな。
マニ20とカニ22が、冬季の雪のせいだろうが、外板ボコボコになりながら秋田区で80年代近くまで生き残ってたな。 >>649
1979年12月あわかぜ21号乗ったらナハネフ23編成の日
1981年1月下り銀河に乗ったら関ケ原付近で降った雪が窓にびっしり
だったのでちょっと羨ましい
お化粧直しされて三本帯になった貝塚公園の1007を見に行きたいものだ ×あわかぜ21号
〇あさかぜ51号
酷い間違い失礼 運行途中で電源車が故障し途中駅で電源車だけ交換はやろうと思えば出来そうだがやった事例を聞かない
14系だと発電エンジン故障は編成ごと交換になる >>657
カニ22の51が故障に備えた予備で品川から門司に移されてた時期があった >>635
ロックは位置さえ知っていれば俺の太い指でも押さえるだけで解除可能。 >>661
この動画の10:50あたりに出てくる縦に閉めるドア、あれはマニ20?
なんでああいう開閉方式なの?
詳しい方教えてください 家屋のシャッターでもそうだけど、格納部の腐食が懸念される 元祖あさかぜを期待したら、JR化後の臨時あさかぜw
それでも今は全廃なので、貴重かも。
https://youtu.be/lVqHal-En_c >>664
そんなもん戸袋なんか全部に言えることやがな 20系のAREBはその後CREBへ進化してたんだな
1958年 20系特急固定編成列車「あさかぜ」にAS形自動空気ブレーキ装置を採用
ttp://www.tetsushako.or.jp/cgi-bin/museum/list_info.cgi?n=3305
1968年 20系特急客車列車の110km/h化用としてブレーキ率速度制御付AREB形電磁自動ブレーキ装置が採用
ttp://www.tetsushako.or.jp/cgi-bin/museum/list_info.cgi?n=3307
1971年 20系客車にCREBブレーキ装置を採用
ttp://www.tetsushako.or.jp/cgi-bin/museum/list_info.cgi?n=3312 2022年ということで、ナハネフ22型のユニークな大型パノラミックウィンドウに萌え。 こんな動画があった
1958年の日本シリーズで、西鉄ライオンズの選手たちが20系のあさかぜに乗って
博多から東京へ向かうところ
本当に20系が登場したばかりの頃だよね
https://www.nishitetsu.co.jp/museum/lions/image/ANH1958.m4v 昭和36年から昭和39年までの山陽本線広島〜小郡非電化時代。
広島〜小郡、小郡〜下関ではどんな機関車が牽引していたのでしょうか。 >>673
電化済みの下関〜小郡間も含めてC62だったのですね。
ありがとうございました。 朝まだき、ナハネフ22の先頭の小窓を開けてもらって、赤沢トンネルを通過するときの音と光景。
それが最後の年だったようだ。 >>675
オープンリール担いで音鉄する人いたんだな
カセットは当時でもあったが音が悪く会議用くらいしか使い道が無かった 昔はデンスケというのがあってだな。
自分はカセットテープ用のデンスケしか知らんけど。
なおオープンテープの扱い方は知ってます >>675
1976年10月改正で車掌補が廃止され、東京駅発車時点でベッドがセット済みに変わったから、それ以前のレポだな カセットはノイズ取るのにドルビーシステムというのが流行ったなあ。 97年のさよなら20系客車号は昼行で大阪〜岡山のみとか何か物足りなかったな
下関まで夜行で走行しても良かったのに 10年前の蓬莱峡らしい。
http://www.t-net.ne.jp/~taka-q/sy/p/1301/09.jpg >>684
まるでロープウェイにでも乗ってるような景色だ
なかなか凄い所にあるようで >>681
この映像の凄いところは4:06のところで、
スニ20 51とあるところだよな >>681
あさかぜなのに伊吹山が午後の光線とか言ってはいけないw 20系全盛期、カニとナハネフが横並びで写真に納まるって事は絶対になかった? 688見て調べてたらこんなのが出てきた
https://aucfree.com/items/l558121030
もうちょい前なら20系のカニとナハネフの並びになりそうだが
そもそも何で逆向きなのかよく分からない >>689
あくまで想像だけど、大阪では機回しできないと思うのが関係するのでは?
あかつきや彗星は大阪到着後そのまま向日町に回送されるのに対して、日本海やつるぎは大阪到着後、進行方向そのまま北方貨物線を周って上り線に向かう感じになるから、日本海・つるぎ編成は逆になる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています