【あさかぜ】20系固定編成客車スレ05【さくら】
>>54
当時の14座席3急行の需要を想えば山陽線内の需要はおして知るべし。特急化後は呉線経由もダイヤ設定も中途半端だった。 >>55
3急行は広島が有効時間帯でなかった。
「安芸」を急行のままなら>>44の唱える広島地区の利便性があっただろう。 山陽新幹線博多開業後じゃ対大阪夜行需要はないに等しいよ、雲仙西海阿蘇くにさきの空気っぷりをみるとね。
むしろ下関あさかぜの広島折り返し分を呉線経由にして対東京需要を狙ったほうがまだましだったかも。
まあ、その場合14系にしないと電源車どうするのかとかいろいろ問題ありそうだが。 50年3月改正では安芸を含めて関西〜九州間の夜行特急、急行群を残し過ぎた感がある。 >>59
夜行バスがほとんどなかった時代だから仕方ないのかもしれないけど 広島発着に短縮しておけばよかった
しかしマル生での労使崩壊により、ほとんど残すしかなかった >>58
そういや下関あさかぜも当初は単に急行安芸の特急化と見られてたらしく
呉線に特急かと沿線は期待したものの…というのは電化前後の呉周辺であったそうな >>62
当時は東京発着寝台特急の需要が逼迫してたのもあるだろう。
「安芸」は153系昼行急行となり、当時の急行「山陽」と共通運用化された。
それでも当時は前面ヘッドマークがあって、格調高かったが。 >>39
>>43
昭和30年代の「あさかぜ」は「動く最高級ホテル」といっても大げさではなかった
理由は新幹線がない・飛行機も高額未発達で安全性も怪しい時代なだけでなく、
高速道路は日本にはまだ存在しない。
必然的に、長距離移動では鉄道が主流になり
どこかで夜をまたいだ 移動が主流になる
当時の道路事情は今のベトナムと大差ない道路で、主要国道でさえ、舗装されている区間は少なかった
舗装区間が劇的に増加するのは昭和40年以降の話
社会情勢が、今と全く違う >>64
観念的なコピペ、書き込んでる本人が社会情勢の違いを理解してない。 自分の親すらも産まれてもいない時代の話にわざわざ首つっこまなくてもいいんだぞ ルーメットは個室内にコンセントが付いてて当時としては極めて画期的だったな
ただあの当時は電気カミソリしか使えなかった
今だったらスマホの充電とかでコンセントの使い道が激増してて通勤型にも設置した事例がある 当時の旅行にまで携帯できる電気製品なんて、それこそ髭剃りくらいだろうしな。
ちょっと他には思い付かない。 >>69
強いて言えば電気ケトルあたりかな。
まともにお湯が沸かせたかどうか疑問だが。 >>68
>電気カミソリしか使えなかった
というか電気カミソリ使わせるためにコンセント付けたんだろ?
T字とか使われて怪我されたら敵わんもんね でも、そのひげ剃り用コンセントはA個室に近年まであったっていうのはね。
今のサンライズが各地に走っていればなあとは思うのは、もはや無理な願いだな。 新幹線も洗面台に付いてたな
300系で付いてたが携帯電話を充電して盗難に遭ったとかも起きてた 20系スレで300系の、しかも洗面所にとか言われてもなあ。 ☆☆☆ 放射能はダークマターで危険なので原発は廃止してください!
★★★ 今、日本の総人口が急減しています! >>73
20系スレでなおも携帯電話の充電を言い出すのがいと可笑し。 100年後には「20系個室で充電するのがステータスであった」とでも書かれるんやろ(適当) スレタイも読めないのが語り継いでいく(w)んだから、そうなると確信してるよ。 20系の食堂車はいつまで使われていたのかな
あけぼの末期でも営業してました? C57・C55(ライトパシフィック)が定期の20系寝台特急を牽引した記録はありませんよね >>80
あけぼの末期は食堂車はナシだよ。
S50.3改正から既に外されてた。というか、北海道連絡寝台はそのくらいに食堂車が外されたんじゃなかったっけ? >>81
うろ覚えだけど、さくらで博多〜長崎辺り牽いてなかったかな? 生まれる前のことなんで見たことないけど。 >>82
20系の食堂車ははやぶさ・富士・あさかぜ・出雲・日本海・あかつき(西鹿児島発着)・彗星(都城発着)を除いて、
1973年11月末で営業休止になったと思う。その後1975年3月になるとあさかぜ2往復だけになった。 >>81
20系化当初の さくら はC57牽引でしたけど程なくC60に変わりました。 >>80
元祖「あさかぜ」が置換えになった1978年1月まで。 正確には2月2日東京着の、上りあさかぜ2号が最終だけど。
食堂車と一緒にナロネ22も運命を共にした。 >>82
確か昭和49年中にゆうづるとあけぼのは食堂車欠車(ハネ置き換え)としてる
瀬戸はさらに早くて48年夏辺りから欠車になったが >>85
なるほど
一般車編成からバトンタッチした辺りの長崎本線が頭をよぎりましたが20系「さくら」を当初からC60が牽引してた訳では無かったんですね
有難うございました >>88
>>82です。フォローサンクスです。
自分的には少なくともS50.3改正時点では既に外れたって意味で書いてたけど、仰る通りそれより前には外れてた認識でいました 食堂車営業休止から欠車(ゆうづる、あけぼのE号車)扱いになって以降盛アオからナシ20(24〜26)同年4月の彗星捻出車(21〜23)が南シナに集結して初期車を置き換えていった。 >68
ホームラジオ。当時のラジオはAC/DC兼用ラジオも多かった >>92
残念でした。昭和30年代は管球式からソリッドステートへの移行期で
プリント基板以前の時代、可搬式のホームラジオなんて大うそでしょ。 >>83
鳥栖機関区のC57がその区間を牽いてたみたいだね。
俺も生まれる前の話で本でしか知らんが。 コロタン文庫22ブルートレイン全百科はここの住人なら必携?
ウチは改訂版(背と裏表紙が青)しか持ってなくてねぇ
穴もあるけど結構色々な事が解るよ >>95
オレもその青いやつを見て育ったよ。子供向けながらかなり濃い内容だったなぁ。各列車の変遷をはじめとして未だに資料として手放せないほど。 93 電池管に積層電池使った携帯ラジオは既にあった。その中にはAC電源のものもあったのかな? 151系の一等車は座席にイヤホンジャックがついていてラジオ聞けたみたいだけど、昼行特急より乗車時間が長い20系のロネになんでラジオサービスがなかったんだろう? >>97
>>93
電池管に積層電池使った携帯ラジオは既にあった。
その中にはAC電源のものもあったのかな?
151系の一等車は座席にイヤホンジャックがついていてラジオ聞けたみたいだけど、
昼行特急より乗車時間が長い20系のロネになんでラジオサービスがなかったんだろう?
こんな感じにしてくれると読みやすくてありがたい >>54-55
14系座席車急行は全席指定化されていたのも影響していたから
急行のまま安芸を走らせていたらそれなりの利用者はいたかも
臨時格下げになってもある程度は臨時として走っていた >>97
ラジオの件だけどNHKしか入らない。
車掌が周波数を調整する必要がある。
1等寝台だけに組み込むにしても、
配線が面倒になる。
まあこんなとこかな。 映画「大いなる驀進」の台風が接近しているシーンで
「さくら」に乗務する三國連太郎扮するカレチ氏が
ラジオで台風情報を聞いているシーンがあったな
21世紀に入った頃に
KBS京都で晩に放送するのを新聞のラテ欄で見つけて
VHSで録画予約したのを仕事が終わってから見て驚喜したものだw
その後DVDに焼いたのがまだ残っている‥はずw 三國連太郎だと作品が締まるけどフランキー堺とか渥美清が車掌だと笑いスタンバイ状態になるよなー この二人20系舞台にした作品がいくつかあるね。
80年代後半にビデオが普及するまでこの手の作品見れるのが唯一テレビ放映頼みで、リアルタイムで映画館に掛かってなかったらそのあと30年位は見たくても見れない時代が長かったですねえ 大いなる驀進は江戸東京博物館のイベントで初めて見られた。
途中駅間の乗車とか、利用方法が様々なのがよくわかった。
こういった生活史はすぐにわからなくなる。
あと、薬品運ぶ看護婦さんが一番美人w 大いなる驀進は国鉄も20系客車のPRを兼ねて全面協力してくれたからな。
あの頃は映画ロケに国鉄が快く協力してくれた良き時代だったし。
だが1970年代の映画やTVドラマは国鉄の労使関係の悪化もあって国鉄の協力は得られず、
結局実物大のセットを購入して乗り切るしかなかったとか(新幹線大爆破とか皇帝のいない八月なんかがそう)。
だが当時のセットはエアコンはなく夏暑くて冬寒かったという。 生まれてもいない時代のことを知ったかぶらなくてもいいんだぞって、何回言ったらわかるんだ? スリとかナイフとか自民党?の代議士とか
製鉄所社長の自殺未遂とか土砂崩れとか1列車に集中し過ぎて乗務員の神経持たんやろ。
まあ何年何十年の間に起こった逸話をまとめてストーリーに取り入れただけなんだろうけどね >>97
006P使用携帯ラジオの話はしとらんのよ。可搬式のホームラジオなんぞは端から
存在しなかったと書いたの、字が読めないのかな。 ナショナル ポータブル電池管ラジオ MODEL UW−115 https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/p612724031
? こういうラジオの事言ってるのよ。格好いい!! やっぱりAC電源にも対応してるからロネの個室で聞いてたりしたんだろうね。多分客層から言って商品相場株式相場の情報を刻一刻と仕入れないと行けない相場師みたいな人もいたんではないだろうか。 ただカニの電源から来た電気は綺麗なものだったのかな。ノイズ塗れの中でかろうじて音声が聞こえたとかだったかも
確かサービス電源は三相400Vだったような気がするがこれをさらにトランス100Vに落としてたのか?トランスもそこそこデカいものだったろう。 このラジオで当日の株式市場の値を聞いて
会社には電報で翌日の売買指示を出していたのか。
当時の最先端情報手段を行使していたのか。 >>109
カヤ21亡き今は保守当時の人にしかわからん話だな >>108
巨大な積層電池入れるとか驚異的だな
昔写真用乾電池とかいって高電圧で巨大な電池売ってるの見たことがある
端子に触れると感電する
トランジスタラジオは省電力になって普通の乾電池でも動作可能になった https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/q251812602
微妙な年代がうろ覚えだったんだけど、20系が登場した昭和33年には
ポケットに入るようなトランジスタラジオは既に発売されていて006P
や単三4本で動いていたから、結論としてはロネのコンセントに頼る
必要はなさそうです。ただしラジオの値段は今で言うと多分10万くらいw
電池管式真空管ラジオはさらに数年遡って昭和20年代後半の話になるのかな。 112氏 とにかく真空管は電池式では70Vとか80Vとか高電圧、しかも綺麗なのを必要とするんで当時の携帯用ラジオは実に涙ぐましいものがありますね。
対して数ボルトの電池にタバコの太さ位のトランジスタのラジオがどれ程画期的だったか。
積層電池はヨドバシでストロボ用として90年代までは売られていたような記憶があります。 碓氷峠を走行する冒険はしなかったな
空気ばねパンクと台枠補強必須だし電源車を横川方に持ってこないと危険
14系は実績があるが20系と24系は実績がない 上越線の崖崩れで「能登」「北陸」が8両制限を受けて信越線を走った事なら有った 昭和30年代の寝台特急は、プロ野球。特に西鉄ライオンズの関係者が「常連」だった
特に九州から東京への移動は100%確実に「あさかぜ」や「はやぶさ」での移動だったようだ。
ちなみに関西遠征のときには特急「かもめ」での移動が多かったという
プロ野球選手という職業を選んでしまったら、シーズン中はずっと超遠距離通勤をすることを強いられる。
かつてのプロ野球選手の長期遠征は鉄ヲタでもやりたくないレベルの過酷さだった。
特に一番西の端っこの西鉄ライオンズが最も過酷だった。
伝説の日本選手権 奇跡を信じて博多駅で 選手見送り・寝台特急あさかぜ(1958年)
http://www.nishitetsu.co.jp/museum/lions/videocollection.html
http://www.nishitetsu.co.jp/museum/lions/image/ANH1958.m4v
昭和30年代の西鉄にとって最大の敵は「遠征」による疲労であり、どれくらい最悪かといえば選手寿命を縮めるくらい酷かった
西鉄ライオンズは本拠地の福岡市から東京や大阪へ移動するのに、新幹線もなければ、当時の日本には高速道路も無い。
飛行機の安全性が極めて怪しくて墜落のリスクが付きまとう時代だったから、必然的に列車による移動しかない。
当時の時刻表だと大阪へ約10時間、東京へは約17時間もかかったのだから、こんな過酷な移動をした後でまともなプレーができる方が不思議だった。
こういった厳しい環境で西鉄は黄金時代を築いたのだから恐れ入る。
ちなみに、現在、福岡に拠点があるソフトバンク、北海道に拠点がある日本ハムは、他球団と比べたら飛行機での移動がケタ違いに多い。
昔と比べたらマシだが、これでも日程はハード。
https://baseballgate.jp/p/46149/
https://baseballgate.jp/admin/wp-content/uploads/2017/03/01194530/distance.png
そして、世界一過酷な遠距離移動を強いられるプロ野球球団は、MLBのシアトル・マリナーズ。
その飛行距離は約5万1,000マイル(約8万2,000km)。プライベートジェットでの移動だが過酷な「時差」に悩まされることになる。
https://www.junglecity.com/mariners/ms-pro/ms-players-flight/
長い道程に耐えうる強靭な体力と、遠征を楽しい旅と思えるようなプラス思考のハートがなければ、とてもプロ野球選手など務まらないと言える。 でも1963年の日本シリーズだと既に飛行機移動になってるけどね >>119
なるほど勝つためにはある程度の移動が必要なんだなw 会社によっては出張旅費で寝台料金が出ない所が多かったようで20系の座席車はそこそこ需要があったな
あかつきのレガートシートやサンライズのノビノビ座席とか廉価サービスの先駆けだったともいえる
普通車は早々に寝台化改造されたが元々の窓に合わせてピッチが広がってた
グリーン車は70年代半ばまで残ってたが車体更新工事で寝台化しなかったのが不思議 >>124
間違えた
ナロ20は車体載せ替えで寝台化されたのある
流石に元の窓を活かして改造はしなかった >>124
>普通車は早々に寝台化改造されたが
つまり需要がなかったんだろ >>126
そんな事はない!
最大の理由は新幹線並行区間で、割安な座席車を残さず新幹線に誘導が目的。 >>125
残ってたのは、いわゆる殿様あさかぜだけよ。ナロ。 寝台幅52センチで3段式は狭苦しかっただろうな
夜行バスの3列シート並か
そもそも寝返りが出来ない >>130
紐使ったり壁使ったりしてその場で体を回転させるんだよ >>130
寝台車だというだけで相当「楽」なんだぞ 昔は今に比べ小柄な体型な人が
平均的だったみたいだしな 改造車ではない初期の座席車であるナハ20等のハ級座席は、シートピッチ925mmの回転式固定クロスシート(おそらくT13系統か)であり、
スハ44みたいなもの
リクライニングシートではなかった
さらにその初期タイプは乗客による回転が不可能であった(後に、乗客による回転ができるよう改造される)
なので、体を伸ばせられ、しかも一人分のスペースが確保されている寝台車の需要は今では考えられないほどあり、
10系改造寝台車が誕生する原因にもなる
20系の場合は、後に座席にも需要があったもののそれを上回る寝台需要があり、更に昼間特急列車の運転が増えていたため、
列車毎の寝台座席分離を行える状況ができたので、やった
出張時寝台料金が出ない規定は昭和50年頃まで「官公庁」にあった
なので、東京−博多間のナロ20だけが残った あかつきのレガートは、1986年11月の改正による急行大削減時に「補填」との意味合いで連結された佐世保発着オハ14が始祖
285系ののびのびは、出雲運転区配置車で運転されていた出雲3・2号に1989年11月から1両だけ連結された3段B寝台が始祖 12系の開閉窓は、
12系の主用途が団体列車や臨時急行であったため、停車駅が多く、食堂車や売店スペースを作っても効率が悪く、
それなら従来通りのホーム売りから購入してもらったほうがいいとの合理性による
ただ、10系・20系の窓構造は悪く、特に落とし窓として開閉の出来る10系寝台車の車体腐食は急激に進んだ
その辺りの詳しいことは↓参照
http://kokutetu.seesaa.net/article/443744698.html >>4 >>5
あの井門が撮影してアップしている
https://train.ap.teacup.com/yoshihiro/1037.html 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63) >>130 >>133
20系でのB寝台サービスアドバンテージは電車寝台で下段がAネと変わらない幅で営業開始した
68年までの10年だけとも言えまいか。さらに数年後70p幅の14系寝台、25型2段寝台と急速に
B寝台のサービスは改善されていく。。 >>140
しかし日中の居住性は、14・24系は寝台幅が仇になって背ずりにもたれにくく。
梯子が窓に固定式とあって、20系の方が勝った。
>>139下の画像からその雰囲気がある。 >>140
1等料金が必要なスロネ30(2段区分室・寝台幅650)全廃から5年後に
同等以上の24系25型ハネが登場したからなあ。
581系電車以降、進化が早すぎたかと。
まあ、特急は45.10あたりで寝台幅700にならんかったんかなとは思う。 >>140
583系ハネの下段って20系プルマンより幅広かったんだぜ 共通
全高4090
床面−下段床355
中・下段床厚各85
天井厚70
スハネフ14・オハネフ24 ともに
レール−床面1230
下段床−中段床下730
中段床−上段床下750
上段床−天井(最も高いところ)785
ナハネフ20
レール−床面1170
下段床−中段床下755
中段床−上段床下735
上段床−天井(最も高いところ)835
発電用エンジンを搭載するため、どうしても60mm上げるしかなかった(スハフ12もレール−床面1230)
14系は分割併合もさることながら、寝台幅70cm化で定員が減少する分を電源車の1両で出来る限り穴埋め
13両(ロネ2両、シ1両、ハネフ3両)+カニ ハネ7×54、ハネフ3×48。B寝台522
14両(ロネ2両、シ1両、ハネフ4両) ハネ7×48、ハネフ4×45。B寝台516 もう一つのifとしてあり得るのは、寝台幅520mmでの固定2段化
これなら車掌補区画が不要になるので1区画増えた40人分
通路上の荷物スペースも余裕ができ、上段は寝台のまま放置になるので、1区画毎にその寝台化に必要なものを置ける
14系寝台車でも食堂車を作ったので、食堂車はそのまま作られるものの、少し先を見越して20系から改造流用ができればいいのだが 座席車ナハフ21改造のナハネフ21は窓割りに寝台区画合わせたので区画ピッチがちょい広い。 ナハフ20から3両改造されたナハネフ20
ナハフ21から6両改造されたナハネフ21
これらは車内だけ改造したため、
2窓1区画化・途中1窓は冷房ダクトのため閉鎖となり、
壁厚が10mm減らされた代わりに、寝台間通路幅は520mmから750mmへ広げられた >>143
ナロネ21の寝台・座席は昼夜ともに二人で使用するのを想定したものだっけ?
だから後の改造ナハ21は4人で座ると窮屈だったとか。
583系の方は昼間は4人席として使うから広くした? >>150
>>143ではないが (mm) 583系(サハネ581)、20系(ナロネ21)
車体幅 583系:2900、20系:2950
外壁厚 583系:85、20系:70
通路幅 583系:610、20系:745
座席幅 583系:1060、20系:1009
ナロネ21=オロネ10 >>151
ありがとう。
やはり583系の広かったのかあ。
ナロネ21の方は飽くまでもA寝台車、583系の方は昼夜兼用で想定する用途が違うし、
登場時期も違うから似たような設備でも差があるんだね。 >>152
583系下段が広くても、三段式寝台で頭上に圧迫感があって、着替えに不自由がB寝台にされた
所以だね。
客車二段式は頭上の圧迫感はないが、寝台幅が70センチ。
幅と高さのどちらかが欠けてたので、B寝台になった模様。 >>153
車両が出来てから
「これA寝台にします?それともB」みたいな会話するわけじゃないからw
最初から2等寝台、B寝台として作られてる訳で
ちなみに583系ハネは下段は幅広いが中断上段は14系、24系ハネと同じく幅70cmだよ