【あさかぜ】20系固定編成客車スレ05【さくら】
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新得のは内部は有料公開だからなあ。
画像あるけど、出しにくいよね。 おい!
20系客車のフリーランスの特集!
良くあんな基地外でもやらない「ふざけたバックサインや行先表示や列車名表示」のものをよくも掲載してくれたな!
おまけに行先やバックサインに至ってはおふざけの入った説明すらない!
なんだ!
一体特急「ごうもん」冥土発生き地獄行きがっかり号とは!
今時こんなふざけた列車名は猿やガキでもしねーぞ!
この作者も掲載したRMMも世の20系客車ファンを全員敵に回してくれたな!
お前らが生き地獄を味わって冥土に消えて拷問受けてがっかりな想いして来いや!
みんなもそう思うだろ?
以前の14系の記事でもバックサインをがっかりとする醜態をやらかしたのにそれを掲載しまくっていたのだがな…。<RMM あんなの、しばらく見てないや。
わざわざ真面目に見る必要ないもんな この空間で相席があるなら勘弁だな。
1950年代の4人用ロネでは相席があったらしいが
そちらの方がまだましだな。 母親らしい、あの写真の女性は。
出典は今は亡き某サイト。 あれ? 高校三年だかでお母さんと一緒に
ロネで旅したっていうあのサイトなくなっちゃったの?貴重な室内画像満載だったんだが 食堂車スレだったかな、20系の関西-九州とか、東京-東北はオシ16のような形が
良かったんじゃないかというのがあったけど、営業時間帯を考えれば
同意できるところがあるね。 >>15
あのサイト、殆ど書き込みが途絶えた掲示板以外は軒並み消えている。 >>16
実際に東海道筋よりメニューも少なかったしね。 >>19
内装の目立った変化の最初はホリデーパル用になった700番台のシート地が青系からオレンジ系になったこと。 オイ!!オイ!!爺さんが頑張らないとこのスレ過疎るばかりだぞ… >>19
オレが急行あおもりで見たクルマは、カーテンが、黒地に柄の入った、ちょっとシックなヤツになっていた >>21
20系は1997年まで持ったから中年層にも馴染みあるから大丈夫だ。
157系とかと違ってな。
ただ157系は既に事実上の形式消滅となっている割には現役を知らない若年層の愛好者も多いのだがな。 20系は国鉄末期に定期運用がなくなったからなぁ
見ることは何度かあったが、乗ることはできなかった >>27
臨時運用はあったけど急行に格下げられたりだんだん減ってきていたからな 座席車があったとはね。
いつくらいまであったんだろう。 >>30
50.3改正で、殿様あさかぜ(下り1号・上り3号)のグリーン車が廃止されるまで。
但し、実際にいつまで連結していたかはわからん、すまぬ。
(改正より少し前に編成変更した事例が結構あるため) ナロ20は「十和田」あたりで余生を送ってほすかった >>31
新幹線博多開業前でも、殿様あさかぜは上り2号だったよ。
上り3号は14系あさかぜだった。 >>34
そやったか、すまぬ。
>>35
すまぬ、
博多あさかぜが2本になった際、上りはラッシュ前に東京に上っていた。
50.3寸前は下関あさかぜがその時間だったんだな、
そのあたりから来る勘違い、補足忝い。 >>31
昭和50年3月7日 改正前日の下り1号からナロネ20とナロ20を抜いた改正後編成になりました。 >>37>>38
この新幹線博多開業時を以て20系時代が終わったと言って言いだろう。 >>39
しかしこの改正で3本の20系寝台特急が急行格上げで登場したという。
「安芸」「北陸」「北星」
いずれも急行時代とあまり変わらぬ所要時間、設備が少々マシになったくらい、
しかし幅52cmの狭い3段寝台という基本は変わらぬまま。
安芸は完全にボッタクリ特急で、すぐに24系25型になるも長く持たず廃止。
ただ、北陸がJR化後も長く走ったのは意外だった。 短距離夜行なんか所要時間短くしてもしょうがないだろ
こいつはいつも外れたことを言うんだよな まるで鉄道誌でのT本M照のような発想だよな。
視点がズレてる。まさに現代ヲタの発想。
T本当時も生きてたはずだが。 ナロネ20は戦前の特急富士の1等寝台車の流れを汲む最後の車両だったからな。
ただ、戦前の富士は1等寝台車の隣にラウンジ車というべき1等展望車が連結されてたのに対して、
20系の殿様あさかぜのナロネ20の隣にラウンジの連結がなかったのは1等と2等の違いが表れてる。 >>40
「北陸」なんて「安芸」の次に逝くと思ったよ。
「能登」「越前」があり、所要時間が変わらないのに高い特急・寝台料金を取る妥当性がなかった。
国鉄が高い料金を取りたいがために意地で残した感じ。
JR化後にB個室も含めて乗れる、企画切符で乗れて人気になったなw
>>41
特急料金を取る妥当性がないだろう 同じベッドがある似たような部屋で、かたや田舎の古ぼけた商人宿、かたや築数年のシティーホテル、さて、どちらが高いのかな。
急行と特急の違いが所要時間だけだと思ってる輩にゃ言うだけ無駄か。
まあ国鉄の増収策だといえばそれも正しいが。 >>45
>かたや田舎の古ぼけた商人宿、かたや築数年のシティーホテル
20系と10系ではそこまでの差は無いな。
20系とて基本設計は昭和30年代前半だし、当時特急B寝台が幅700が主流になっていく中、
所要時間があまり大差ない(短縮する必要が無い)寝台急行の特急格上げは、
さすがになりふり構わぬ増収策ととらえられていたわな(当時)。 (当時)はまだあさかぜだって20系だっだし特急にしてくれって地元の請願もあったりしたのに
所要時間だの幅だの、なんでこう近視眼的なんだろうね
妥当性とやらより自分の狭い視野と思い込みをなんとかしろよ 窓が開く(老朽化して希にすきま風が入る)のと、固定窓で完全空調(ほぼ密室)ではどちらのグレードが高い(当時)のか、一目瞭然だわな。
窓の開く車輌を知らないなら言うだけ無駄だが。 >>50
185系が出た頃は。座席もリクライニング化が進む中、新快速並みの転換シートで
やはりどうよこれって言われていた。 まあ概ね、50年3月改正以前を知っている世代と知らないとで20系に対する見解が違ってくるようだ。 >>44
安芸は急行のままで残して後に12系+20系の編成なんかにしてたら、少なくとも86.11改正ぐらいまでは残ってたと思う。
急行のままで座席車を連結して京阪神−広島の夜行需要に応えた方が良かったのではないかな。 >>54
当時の14座席3急行の需要を想えば山陽線内の需要はおして知るべし。特急化後は呉線経由もダイヤ設定も中途半端だった。 >>55
3急行は広島が有効時間帯でなかった。
「安芸」を急行のままなら>>44の唱える広島地区の利便性があっただろう。 山陽新幹線博多開業後じゃ対大阪夜行需要はないに等しいよ、雲仙西海阿蘇くにさきの空気っぷりをみるとね。
むしろ下関あさかぜの広島折り返し分を呉線経由にして対東京需要を狙ったほうがまだましだったかも。
まあ、その場合14系にしないと電源車どうするのかとかいろいろ問題ありそうだが。 50年3月改正では安芸を含めて関西〜九州間の夜行特急、急行群を残し過ぎた感がある。 >>59
夜行バスがほとんどなかった時代だから仕方ないのかもしれないけど 広島発着に短縮しておけばよかった
しかしマル生での労使崩壊により、ほとんど残すしかなかった >>58
そういや下関あさかぜも当初は単に急行安芸の特急化と見られてたらしく
呉線に特急かと沿線は期待したものの…というのは電化前後の呉周辺であったそうな >>62
当時は東京発着寝台特急の需要が逼迫してたのもあるだろう。
「安芸」は153系昼行急行となり、当時の急行「山陽」と共通運用化された。
それでも当時は前面ヘッドマークがあって、格調高かったが。 >>39
>>43
昭和30年代の「あさかぜ」は「動く最高級ホテル」といっても大げさではなかった
理由は新幹線がない・飛行機も高額未発達で安全性も怪しい時代なだけでなく、
高速道路は日本にはまだ存在しない。
必然的に、長距離移動では鉄道が主流になり
どこかで夜をまたいだ 移動が主流になる
当時の道路事情は今のベトナムと大差ない道路で、主要国道でさえ、舗装されている区間は少なかった
舗装区間が劇的に増加するのは昭和40年以降の話
社会情勢が、今と全く違う >>64
観念的なコピペ、書き込んでる本人が社会情勢の違いを理解してない。 自分の親すらも産まれてもいない時代の話にわざわざ首つっこまなくてもいいんだぞ ルーメットは個室内にコンセントが付いてて当時としては極めて画期的だったな
ただあの当時は電気カミソリしか使えなかった
今だったらスマホの充電とかでコンセントの使い道が激増してて通勤型にも設置した事例がある 当時の旅行にまで携帯できる電気製品なんて、それこそ髭剃りくらいだろうしな。
ちょっと他には思い付かない。 >>69
強いて言えば電気ケトルあたりかな。
まともにお湯が沸かせたかどうか疑問だが。 >>68
>電気カミソリしか使えなかった
というか電気カミソリ使わせるためにコンセント付けたんだろ?
T字とか使われて怪我されたら敵わんもんね でも、そのひげ剃り用コンセントはA個室に近年まであったっていうのはね。
今のサンライズが各地に走っていればなあとは思うのは、もはや無理な願いだな。 新幹線も洗面台に付いてたな
300系で付いてたが携帯電話を充電して盗難に遭ったとかも起きてた 20系スレで300系の、しかも洗面所にとか言われてもなあ。 ☆☆☆ 放射能はダークマターで危険なので原発は廃止してください!
★★★ 今、日本の総人口が急減しています! >>73
20系スレでなおも携帯電話の充電を言い出すのがいと可笑し。 100年後には「20系個室で充電するのがステータスであった」とでも書かれるんやろ(適当) スレタイも読めないのが語り継いでいく(w)んだから、そうなると確信してるよ。 20系の食堂車はいつまで使われていたのかな
あけぼの末期でも営業してました? C57・C55(ライトパシフィック)が定期の20系寝台特急を牽引した記録はありませんよね >>80
あけぼの末期は食堂車はナシだよ。
S50.3改正から既に外されてた。というか、北海道連絡寝台はそのくらいに食堂車が外されたんじゃなかったっけ? >>81
うろ覚えだけど、さくらで博多〜長崎辺り牽いてなかったかな? 生まれる前のことなんで見たことないけど。 >>82
20系の食堂車ははやぶさ・富士・あさかぜ・出雲・日本海・あかつき(西鹿児島発着)・彗星(都城発着)を除いて、
1973年11月末で営業休止になったと思う。その後1975年3月になるとあさかぜ2往復だけになった。 >>81
20系化当初の さくら はC57牽引でしたけど程なくC60に変わりました。 >>80
元祖「あさかぜ」が置換えになった1978年1月まで。 正確には2月2日東京着の、上りあさかぜ2号が最終だけど。
食堂車と一緒にナロネ22も運命を共にした。 >>82
確か昭和49年中にゆうづるとあけぼのは食堂車欠車(ハネ置き換え)としてる
瀬戸はさらに早くて48年夏辺りから欠車になったが >>85
なるほど
一般車編成からバトンタッチした辺りの長崎本線が頭をよぎりましたが20系「さくら」を当初からC60が牽引してた訳では無かったんですね
有難うございました >>88
>>82です。フォローサンクスです。
自分的には少なくともS50.3改正時点では既に外れたって意味で書いてたけど、仰る通りそれより前には外れてた認識でいました 食堂車営業休止から欠車(ゆうづる、あけぼのE号車)扱いになって以降盛アオからナシ20(24〜26)同年4月の彗星捻出車(21〜23)が南シナに集結して初期車を置き換えていった。 >68
ホームラジオ。当時のラジオはAC/DC兼用ラジオも多かった >>92
残念でした。昭和30年代は管球式からソリッドステートへの移行期で
プリント基板以前の時代、可搬式のホームラジオなんて大うそでしょ。 >>83
鳥栖機関区のC57がその区間を牽いてたみたいだね。
俺も生まれる前の話で本でしか知らんが。 コロタン文庫22ブルートレイン全百科はここの住人なら必携?
ウチは改訂版(背と裏表紙が青)しか持ってなくてねぇ
穴もあるけど結構色々な事が解るよ >>95
オレもその青いやつを見て育ったよ。子供向けながらかなり濃い内容だったなぁ。各列車の変遷をはじめとして未だに資料として手放せないほど。 93 電池管に積層電池使った携帯ラジオは既にあった。その中にはAC電源のものもあったのかな? 151系の一等車は座席にイヤホンジャックがついていてラジオ聞けたみたいだけど、昼行特急より乗車時間が長い20系のロネになんでラジオサービスがなかったんだろう? >>97
>>93
電池管に積層電池使った携帯ラジオは既にあった。
その中にはAC電源のものもあったのかな?
151系の一等車は座席にイヤホンジャックがついていてラジオ聞けたみたいだけど、
昼行特急より乗車時間が長い20系のロネになんでラジオサービスがなかったんだろう?
こんな感じにしてくれると読みやすくてありがたい >>54-55
14系座席車急行は全席指定化されていたのも影響していたから
急行のまま安芸を走らせていたらそれなりの利用者はいたかも
臨時格下げになってもある程度は臨時として走っていた >>97
ラジオの件だけどNHKしか入らない。
車掌が周波数を調整する必要がある。
1等寝台だけに組み込むにしても、
配線が面倒になる。
まあこんなとこかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています