昔の上越線を語れ 2番線
佐渡号の思い出
廃止直前の頃は編成も短くなっていて
グリーン車もなく往年の威容は消えていました
最終日には見に行くことができず鉄友が新潟駅で撮ってくれた写真が
手元に残っています
時を同じくして上越・東北新幹線の都心乗り入れ「グリーンラインが北国へ!」の宣伝がにぎやかに。
時代の変わり目を体感しました。 サロは最後まで連結していたし
編成も12両とか13両が10両編成になっただけだから
駅撮りの写真だとあまり違いはわからないレベルだと思うなあ
サロはサハシの間違えかな? 165系は地元の浦和や大宮で何度も見たが、新潟車だけがクモハが下り側で独特な雰囲気だった。
あとカーテンがどれもこれも茶色と化しててやたらボロく感じた印象が強い。
K1編成は保存するはずが雪害か大雨の浸水で断念した…って何かで見た気がするが本当なのかな。 >>カーテンがどれもこれも茶色と化しててやたらボロく感じた印象が強い
ううう、良く分かるw
破れてたり、お茶かコーヒーの染みもあったし、うらぶれていたよ >>41
改正直前ならグリーン車が連結されていない可能性はある
特急鳥海が583系で一時運行されたのもダイヤ改正の関係 ゴメン、ニュースというよりトピックと言った方が適切だね
訂正する >>45
著書っつう著書にはあるべきするべきうるさい冷蔵庫さんが「必要ないんです」とは珍奇だな。
『列車本数が激減した今こそ、単線化して交換設備を復活し地上ホームに集約すべきである』とは吠えないのか。 東武伊香保軌道線の線路の一部は高崎の石屋の敷地に残ってたけどいつのまにか駐車場になってた >>37
食堂車がなくなっただけでも格落ち感は確かにあった
正直味は望むべくもないが快適なグリーン車ともども非日常を感じられる空間だった 佐渡号に格を感じるか‥‥?
言っとくがこれは煽りではない
気を悪くしたらスマン >>51
ゆけむり+草津と違って全部が遠い新潟まで行くってのが、えもいわれぬ重要列車感があったな。
自分が見慣れた頃にはサハシは無かったし、上に書いたように茶色カーテンのクタビレ車ばかりだったが。 それもあるんだろうがなんと言っても、田中角栄全盛期が大きいだろうな旧新潟3区の長岡市以外の駅と東京や首都圏をこまめに直結していたことに意味ある。
川島冷蔵庫比べては失礼だが宮脇俊三が赤谷線と魚沼線両方に乗ってかつときはとき小千谷止まってくれないので不可能嘆いていたがまさにその頃のイメージ。 >>53
あー、西小千谷から徒歩で小千谷駅に行き、延々と普通列車で夜の11時過ぎにに帰宅したエピがあったね。
クルマで青海川から小千谷へ抜けたとき「ここが宮脇さんの歩いた“長い橋”かあ」と思い出したものです、ハイ。 越後川口前後は複線化でルート変更されてるけど、切り替え前の写真や映像はあるかな?
既に電化されてた路線としてはそこそこ大規模な変化だよな。 >>52
わかる。
遠くまで行く列車の方が格上という感覚は子供心にあった
この発想、どこから来たんだろう・・ >>56
長い・大きい=エライ
子供心なら何でもそうなんだよね。
まあ、歳をとってカッコつけた言い方をするなら、
「トーキョーからずっと離れた故郷の想いをのせているからさ」 水上駅で阿藤快さんが何かの旅番組のロケをしてるところに偶然出会した
「なんだかなあ〜」を連発してた(笑) 水上駅はキオスク今もあるのかな。
昔は普通列車しか停まらないような駅でもキオスクがあったような。 >>59
今月頭に水上駅行ったけど、キオスク閉店してましたな。
昔は、キオスクだけでなく駅そばもあったのに、余りの凋落ぶりに愕然とした
近くにコンビニもないから、食料の調達も出来なかった >>60
無くなってしまったんですか!?
確かに駅そばありましたね。
定期特急も駅弁もみどりの窓口もなくなり水上の凋落っぷりはハンパない。 一日に数本と決まってて、いずれもわずかな乗り継ぎ時間じゃソバ喰うこともできないよね。 >>60
駅前にデイリーヤマザキだかが有ったけどそれも無くなりましたか(゚Д゚;)
水上の聚楽がリニューアル中だけどそんな状況ではお客来ないか?
いや、みんな車で行くのか… >>63
キオスクの跡に、近くのコンビニの案内の紙が貼ってあったけど、水の紀行館(だっけか)の方まで行かないと無いみたいで、駅から歩いて10〜15分くらい掛かるようで。
デイリーヤマザキがあったのって相当前の話かと >>64
水紀行館の近くに
なんかローカルなスーパーが有りましたが、
水上ICの方にセブンが有るそうですが。
駅周辺では飲み物と土産物屋のお菓子くらいしか買えませんねぇ(>_<) 上越線で駅弁販売している駅も高崎、越後湯沢、長岡だけで寂しい。
それからキオスクと言えば土合駅に売店らしき跡があるが季節営業でもしていたのであろうか。 新幹線開業前は通過待ちのできる中線がある駅が沢山あったなぁ。
八木原、群馬総社、敷島、岩本、後閑、土合、土樽、塩沢、五日町、越後堀之内、小千谷、越後滝谷と。 >>67
2線化で中線を取っ払っちゃったところや一部残して保守重機線にしちゃったところもある。前橋手前の井野もあった。
土合は壁面に沿ってホームだったのを中線を潰して拡張して曲げたためにホームに入る線型が変なシケインに。
清水と新清水トンネル内の土合と土樽の真ん中辺りの途中に信号所があったがどっちももなくなった。
清水トンネルは土樽側から入ると最初バラスト路盤が3/4辺りから突如コンクリート路盤に変わるが、
信号所のポイントがあった所だけバラスト路盤になってる。新清水トンネル内に信号所も同じ。 水上のデーリーヤマザキがまだ元気だったころに食糧調達のために入店
しかし商品棚にはライバル社のパンがズラッと・・・あれ?記憶違いかな
お盆休みの頃だったので夜中も客が引きも切らず食べ物系は飛ぶように売れてた >>69
あれデイリーヤマザキじゃなくてYショップな スキーヤーは板や靴を担いで電車に乗り込んでたのでしょ大変だね
そりゃクルマに流れるわ >>72
まだ関越道も無い頃だぜ。
トラックも行き交う17号254号を群馬やさらに三国越えしてまで、貧相な冬タイヤのクルマで行けたもんじゃない。
だから北群馬や湯沢・石打は鉄道が頼りでそれも1泊コースだった。
荷物ウンザリってだけじゃなく、関越トンネル開通でクルマ事情が鉄道に勝ったのだよ。 >>32
EF58に比べると地味さが拭えないがよくまとまった好ましいスタイルの電気機関車のひとつ
昔から水上撮影地の写真が鉄道雑誌によく載せられていた 清水越えでEF64あたりと組まされると憤慨してたw 冬の撮影は寒さは当然として融雪溝に落ちたり急な運休でお目当てに逢えなかったり
苦労した記憶しかない EF55のラストランを渋川で見送れた
ホームに居た同好の士と一緒に感泣した 旧客を10両くらい引き連れて敷島→渋川の鉄橋を一気に駆け抜けるとこなんか絵になった>EF55 >>80
あれ長大編成だから様になるけど
車庫で一両ポツンとしてるのを見ると意外と格好悪かったりする 末期国鉄は動く骨董品の陳列をなぜに上越線で実行しようとしたの? 2004年10月に都内から新潟へ出かけたついでに石打に降り立った
人影も車両も無く、上越線産みの親の銅像と無駄に広い駅構内配線が上越線華やかなりし頃を想像させた
かつてここに181・165・EF16・EF58が忙しく出入りしてたのかと思いながら、
物思いに耽ってると目前を足早に駆け抜けて行く681はくたかの姿
しかし速いだけでは物足りなく感じるのが鉄chanの性だろうか
その翌週末、中越地震発生 越後川口〜越後滝谷は復旧後も地震で傾いてしまった架線柱がそのまま現役で残ってた
復旧後の徐行運転で車窓から目の当たりにした被害を前に言葉が出ず、法面の応急措置も痛々しく見えた 今年の西日本豪雨や北海道胆振地震を取り上げるまでもなく
自然災害は鉄路に致命的なダメージを与えますな あれだけ強く揺れても在来線は一両も脱線しなかったのは奇跡 >>88
あちこちで急停車はしたろうが、土砂崩れに巻かれたり乗り上げも無かったのはホントに奇跡的。
急行佐渡の落石事故みたいなことがあってもおかしくなかった。
新幹線ときの姿が何より衝撃だったから、在来線の無事は取り挙がらなかったよね。
東日本も津波さえ無ければ…。 今は完全復旧を簡単にあきらめて廃止検討がデフォルトでしょうに 昨日雲霧の中越後湯沢から上り線に乗った、人生二回目だが初回はあけぼのBソロで寝て通過記憶無し
電車だとすいすい登り降りしますな、湯檜曽ループは小さいなと思った。昔人の峠越えの工事の労苦が忍ばれました >>83
ネットで調べると現役末期の主戦場は高崎線らしい。
高崎線で現役引退、上越線で現役復帰(その後本当に引退)。 オリエント急行88も上越線に来たな
バブル景気真っ盛りの頃。
鉄道がメディア主導のイベントに巻き込まれるようになったと嘆息する向きも多かった あの時のフジテレビは飛ぶ鳥を落とす勢い
どんな企画でも確実に当ててた 土合駅のトイレの流し先を考えたら夜も眠れなかったことがある >>93
バブル景気時代は、カネを儲けることも大事だが
それよりもカネを使うことに値打ちがあるみたいな風潮 >>93
wikiには上越線内で連結器が外れる大事故が起きたと書かれてるが
どこだったんだろ >>84
煙も吐かないし走行音も控え目だし、五感に訴えかけるものに欠けるというところじゃない? どうみても訴えかけるものが微塵もない荷電クモニ83 昭和55年くらいで物流の主役はトラック輸送に取られて荷電は下火
それでもときおり通常の電車に1両連結されていたし
稀に通常の電車につなげずに単独で5〜6両連結するとなかなかの壮観
写真に残さなかったのが悔やまれる >>86
土砂崩れに電車機関車が飲み込まれなかったのが奇跡
でも不幸にも国道側では・・・
地震は本当に嫌だ 荷電なんてよほどのマニアしか気づかないw
クモニ83は115系と組成すると雨樋の位置が揃って格好良かった
惜しむらくはカボチャツートンの塗り分け位置も揃ってれば言うことなかったんだが
逆に兄弟で組成すると雨樋が凸凹するというww そういやカボチャだのサンドイッチって、本当に高崎の高校生どもが言い出したのか?
107や115の引退に際して突如出てきたから、また鉄ファン誌あたりが創ったのかと思ったんだが…。 カボチャツートーンの前の、
黄色と赤茶色の組み合わせは「リンゴツートーン」などと呼ばれてました。
どれもみんなマニアの間で使われ始めた呼び名で現場従事者にとっては耳馴れないものであったそうです。 聞いたこと無いオイラはマニア呼ばわりはされないな、よかった。
いつ頃から誰が言い出したのか、Pトップだのパックだの、1118がゲッパなんて語源からして解らんわ。 高崎駅で荷物の積み降ろし光景を見たことがあるが、
機械はおろか台車さえ使わず、職員のバケツリレーで片付けていた
機械にまかせられる仕事を何人もの人間にやらせてるわけは、
機械化は合理化につながるので労組が反対してるという話だった でも結局の所合理化すると人が余る訳だろ?
国鉄の場合新規事業とか難しいから
余った人遊ばせとくしかないじゃん
そうしたら合理化になってないよな
だったら人がやるのが合理的だ そりゃ合理化ネタと言えば駅務よ
駅の中にある庭の盆栽を手入れすることだけが任務の人も居たって話だからな
こんなことしてたら人件費だけで儲けがぶっ飛んで赤字になるのはあたりまえ
小千谷のような地方都市の玄関駅だと軽く20人以上が常駐してたのでは? 町の中心駅でも何十人も職員がいそうな雰囲気はあったな
今や駅長もいない業務委託駅みたいな感じ 質問させて下さい。長年の謎です。
私は昭和43年生まれですが、幼稚園か小学校低学年の頃の話です。
父親に抱っこされて、六日町に住むばーちゃんの見送りに大宮駅のホームにいました。
急行佐渡が入線してきました。
はっきり覚えています。少し錆の浮いた、佐渡のヘッドマークを…
で、ここからが質問なのですが、佐渡に乗りこんだばーちゃんが、つり革につかまって私に手を振っていました。ちょうどドア袋の辺りかな?記憶では。
佐渡につり革ってあったのでしょうか? ばーちゃんは既に亡くなっています。
私はあんまり鉄道には詳しくないんですが、湘南カラーで佐渡のヘッドマークはハッキリと記憶しています。たぶん165系だと思います。
客室出入り口付近だけ、つり革仕様の佐渡ってあったのでしょうか…? >>116 駅の売店で着脱可能なつり革売っていて、デッキまで満員の長距離列車では役立ったよなあ。それ使ったんじゃないの? 売店で売っていたつり革、一本人気がリコ式のだった。上越線急行の車内で、地下鉄丸ノ内線に乗って通勤している気分を味わうのがブームになっていたからなあ。トンネルを抜けるとそこは後楽園だった、という気分! かつての上越線の写真を見ると、新潟側の架線にツインシンプルカナテリー区間があって、運転密度の高さを感じさせる。 でも、普通列車は日中1時間に1本位か。新前橋辺りはもっと多いけど。 土合駅の地下の待合室で駅寝したヤツがいたけど、冬は意外と暖かったらしい 外よりはヌクイって事じゃないの?
土合駅の地下待合室で一晩過ごすの怖くて嫌やな。。 土合の地下待ち合い室は空気が生暖かくて気持ち悪かった >>123
勝手に入り込めたなら無人化されたここ30年くらいの話だよね?
それでも深夜にも列車が来ればうるさくてしかたないだろうけどなあ。 76年頃の181系「とき」の乗車ルポを読むと、151系由来の181系の上越線での乗り心地は
かなり悪かったらしい。
老朽化する前の181系の上越線での乗り心地はどんな感じだったんだろう? 豪快に汚物を撒き散らしながら高速走行する「とき」「いなほ」「佐渡」等は「こっちは特急(急行)だ!文句あるか!」みたいでカッコよかった。 戦後混乱期はともかく世情が落ち着いたら黄害問題は優先的に解決されても良いテーマだと思うのだが・・ >>134
してたよ
はくたか、新雪もな
季節停車だが リンゴ2トーンは長野電鉄で聞いたことがある
(2000系やOSカー)
いずれにせよマニアの造語が、
恰も本当に現場で通用してるかのように思われてたから始末が悪い 今の上越線はE129だけだろ意味あるの
大雪で運休立ち往生語る悪趣味な奴以外 夏に大雨が降れば地球温暖化のせいと言うが、
冬の大雪は何の理由にするんだろ やはりそうか、ワイのデスクトップPCのスピーカーから音が出なくなった。
これも地球温暖化が原因だな。 つり革のエピソードは相棒でお馴染みの六角さんも語ってた 水上駅で、1番線の反対側に夜電車停まっているけど、あそこ0番線ホームでいいん? 長野電鉄は窓回りがクリームなんだな
リンゴと呼びたいならせめて黄味を帯びてないとな りんごも品種によっては身がクリームっぽい色してるものもある 屁理屈言ってないで当時のオタどもは言葉の用法誤りを認めなよ >>3
土合って階段の隣にエスカレーターの用地を準備してる形跡はあるんだよね
いつかエスカレーター造るのかな? >>17
115のクロスシートより165のクロスシートの方が幅が広い >>154
...は言葉の用法誤りを認めなよ
⇒「言葉遣いを正せ」で良いんじゃね!?
ごく普通の日本語的には、、、、、(^。^)y-.。o○ >>72
水上スキー場ってすいじょうスキー場では無いんだね。 国鉄時代の上越線を知らぬ「中年児」が醜い口喧嘩するだけの糞スレだな、ここは。
彡 ⌒ ミ ♪ 彡 ⌒ ミ 彡 ⌒ ミ ♪ 彡 ⌒ミ ♪
(´・ω・`) (´・ω・`) ♪ (´・ω・`) (´・ω・`) ♪
( つ つ ( つ つ ( つ つ ( つ つ
(( (⌒ __) )) (( (⌒ __) )) (( (⌒ __) )) (( (⌒ __) ))
し' っ し' っ し' っ し' っ >>115
あの幅広さは乗ってみると実感しますね
隣人との間に小さな鞄くらいは置けるし
それと窓側の肘掛けが有難かったな 越後中里駅の中線ホームに立ち食いソバ屋があったとか。
全然知りませんでしたが、どこかに画像ありますかね? 水上付近でEF16がEF64と組んで長い貨車を牽いてのっしのっしと走っていた
一枚だけスナップ撮れてた 乗ってもらわないと維持できないのよ
撮るだけじゃだめ 撮影ポイントの最寄りまでは鉄道を利用します
決してクルマ・バイクは乗りませぬ 効率悪そう
まあ、撮ることだけが楽しみではないと言う意見も分からなくもない 他スレで、快速ムーンライト(えちご)の車内消灯サービスが
ありえない、ボケ老人の勘違いだと認定してくる奴が発生してて
閉口してるんだが、どうすればいい? 減光を消灯と表現するボケ老人だと言われてるだけだ
気にすんなと言ってるだろうが なるほど、減灯という誤表現を消灯だと訂正されて
それを素直に認めることができない連中が
老人云々とマウント取ってるつもりってだけか。笑 >>173
むしろ消灯の方が誤表現なんだけどな
灯りはついてるんだから
マウント取りとか言い始めている時点で何だかなあって感じw >>173
読んでみたが、そんな感じだな。言い方とかは別にして内容はアンタが正しいよ。 >>176
> 内容はアンタが正しいよ
みんなが同じ事象について語ってるんで173だけが正しいってわけじゃないな
そもそも最初は電車が交直セクション通過する時のように客車でも消灯があるかどうかって別問題だし >>170
その通りで、効率は正直悪すぎです
昔はみんなそんな状態でした
特急や貨物がメインの人はまだいい
普通列車を撮るときが、効率が極めて悪い
最寄りの山中駅に停車する数少ない普通に乗ると、撮影できる普通列車はさらに減ります
でも、そういうものだと思っていました 車で移動するようになって、移動途中で沿線の駅々を見物するのがこんなに楽しいものかと新鮮だった
列車移動だとどうしても下車して立ち寄れる駅の数は限られる 昔の上越線は特急も来るしELも来るしそれなりの撮れ高が見込める路線だった
毎時最低でも1本特急がやって来てくれるなら御の字 >>180
学生の時に撮影等で行った地方に、改めて家族で行って、とても新鮮
いわゆる観光地等に当時は全く立ち寄らなかったから
マジレスです 上越線は、将来新幹線開業するとわかってたら新清水トンネルは作らなかったよね。 >>182
東京近郊でバラエティかつ撮れ高が見込めるのは常磐線だよ 上越新幹線がなかったら上越線は今頃どうなってただろうか 特急ときが走ってる
ただし新型なので鉄ヲタは“ついでに”しか撮らない >>190
いなほ号が上野(東京)発秋田経由青森行き
急行天の川も残っているかな 水上もここまで寂びれなかっただろうな。いや、鬼怒川のあの惨状を見ると たいして変わらなかったか。 新幹線出来た後も水上発着の特急は吾妻線の特急と同等に運転されてたんだぜ なりつつあるというより完全になってないか?
新特急の呼称廃止って2002年だよね?