種村直樹と宮脇俊三
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20世紀の二大鉄道ライター種村直樹先生と宮脇俊三先生についてのスレ 鉄道ライターっていうと軽い気がする
川島や徳田と並べられてしまうわ 種村がレイルウェイライターというジャンルを確立したから宮脇も作家になれた もともと大手の新聞、出版のプロであるところが
この二人の特徴だな
後になかなか同様の人はいないね 啓文社の鉄道シリーズで写真と解説をしていた 南正明さんは? >>8
頸文社・南正時の間違い?
南正時さんはまだ御存命 種村が亡くなった3年前、古巣だった毎日新聞の訃報欄には、鉄道作家という肩書だったな。 おい、あんたいったいどこ行きたいの?行き先も分からないのに電車乗ったの?
それにあんた、目的地までの切符持たずに電車乗って、これ、キセルだよ?警察呼ぶよ?
とか怒られた宮脇 俺の場合
宮脇俊三の本は一度読み終えてもまた読みたくなる。
種村直樹の本は一度読み終えたらもう十分と思う。
で、種村直樹の本はかなり古本屋に持ち込みました。 確かに。
宮脇さんの文章には含蓄がある。
種村氏には、妙なトゲがあるんだよな。
読後感が善くない。
東大と京大
編集者と記者
の違いより、出自の差か?
戦前のお金持ちの息子と庶民 謎のセレブ臭をプンプンさせている
広岡友紀みたいに下品な金持ちもいる >>10
西山事件で毎日が潰れかけたあたりでやめたんだっけ dxだけはゴミでも出れるからな
全国ネットで一番出演難易度低いといえる 種村は何度もテレビで見たことあるけど宮脇は見たことがない >>19
このまえNHKの再放送みたら出てた
大夕張や夕張の廃線後探訪で もともと出版社の方だもの、テレビよりは書籍でしょ。 種村直樹氏&荒川好夫氏(カメラマン)コンビがRJ誌上で活躍していた頃、
松尾定行氏は1人でカメラ抱えて頑張っていたんだけど、有名にはならなかった。 宮脇俊三氏が世に出てきた頃、「時刻表の鬼」と評されたのは、
宮脇氏と石野哲氏だった。だが石野氏は有名にならなかった。
種村氏の場合は、「鉄道に関する書き物で食べていこう」というものすごいことを考えた初めての人でした。
宮脇氏の場合は、最初の著作の「2万キロ」は「引退の花道」程度にしか考えていなかったのが、同世代のサラリーマン諸兄から人気を得たのが大きかった。
石野氏(JTB時刻表編集部)の場合は、若い頃にフリーになれば大成したかもしれないが、敢えてそれを選ばなかった。最終的には編集長までのぼりつめる。
松尾氏(RJ社編集部)の場合は、後フリーにはなったものの種村氏を超えることはできなかった。
・・・というところでしょうかね。 >>24
いや、メジャーな出版社といわばコネがあったことも大きいと思う。種村氏は実業之日本社、宮脇氏は新潮社。
日本交通公社出版事業局や鉄道ジャーナル社だけでは、どうしても部数その他が限られてしまう。 そういえば、RJ社には、佐藤礼子さんという若い女性カメラマン(現年齢は60くらいか)がいたが、
彼女はその後どうしたのだろうなあ?
鉄道に関する知識はからっきしだったものの、種村氏はかわいがっていたそうな。 >>24
自宅住所を公開し、質問があれば答える。そのやりとりを雑誌に出して、さらに単行本にする。そんなことを考えつくのもすごい。個人ではできないよ。 >>27
当時の感覚だと本の著者が自宅住所を公開するのはたいしてすごい話でもない。
もっと有名どころだと王や長嶋も公開していたわけで・・・。 >>29
豚双六雑誌でプロ豚双六選手の住所、家族の名前年齢が当たり前のように晒されていましたね。
あと甲子園に出場した選手の住所なんかも。 何度か質問の手紙を送りました。回答は簡潔でしたが、汽車旅相談室には詳しく回答されてました >>32
さすがにプロ入団当初の定岡や江川クラスは
「球団気付」だったけどね。
昔は個人情報にもわりと緩めで、
電話帳をみると時の総理大臣の住所や電話番号も平然と掲載されていましたな。 >>34
>さすがにプロ入団当初の定岡や江川クラスは
>「球団気付」だったけどね。
だって寮だもん >>33
独特の字体が印象的だった。
返信の封筒は、氏名などを印刷したオリジナル品。
切手は、ファン好みの列車図柄。 >>36
解読するのが大変だったけど、
今思えばマメな人だったですよね。
それにしても昭和50年に葉書が10円→20円、封書が20円→50円に
値上がりしたときは大変だったでしょうな。 >>36
部屋を整理していたら2002年10月8日付けのお返事が見つかりました。お病気だったのに以前と変わらない書体で、まだまだお元気にやっていけると思っていたんですが。年頭の挨拶くらいは書いておけばよかったと思います。読んでいるうちに涙がこみあげてきました 宮脇は以前は住所公開してたけど近所に知らない男が居座るようになったので非公開にしたとどこかで書いてたね 中曽根総理大臣に公衆電話から執拗に悪戯電話をかけて逮捕された高校教師がいたな。
もちろん電話帳に公開されていたからそういうこともできたわけで。 小5の時に買ってもらった「鉄道旅行術」。
今でもとってある、マチは手垢だらけw あと継ぐような人、出てこないね…
昨今の鉄事情では、国鉄時代のような鉄旅できないから仕方ないけど、、 >>43
今は需要がないんだよね。
今や全員が「情報発信者」の時代だから・・・ 発信方法の問題であって、質の高い情報なら需要はあると思うよ
新幹線のルポやブツ切り路線の乗り潰しじゃないだろうけどね もしJRが国鉄時代の路線を保持していて、種村や宮脇氏がファンサイト開設してルポ連載したら(有料でも)需要あっただろう
現役やOBのウテシやパイロットのブログでも需要あるからな >>45
12月11日の【のぞみ34号】の同乗記なら需要あったぞ >>46
それはないでしょう。
切手と封筒と便箋とわざわざ用意しないと彼とコンタクトがとれなかったから
重要顧客を今よりは楽に選別できたわけで、
ネットが簡単に利用できる時代になると、それほどコアなマニアを選別するのも難儀だし
だいいち1人1人全員を相手にすることも物理的に不可能になる。 >>48
ネットで簡単に情報収集できてしまう今時のファンが
そこまでしてコンタクトとる人はいないんじゃない?
>>44さんの言ってるような結果になってしまいそう
古き良き時代のやり方には、こだわらない方が賢いと思う
お二方が御存命ならどうしただろうなあ・・・ 宮脇氏の場合は、サラリーマンを卒業した後の趣味の延長ですから、今でも当時と同じだったと思いますが、
種村氏の場合は、30代のころに脱サラしてそれで妻子3人を養っていたわけですから今の時代だと、
脱サラそのものを思いとどまる公算が高いものと思われます。
種村氏の場合は、読者との手紙のやりとりが重要な生活の糧だったわけですから。 種村氏の辞めた時点で後の活動形態は想定してなかったと思うよ
あくまでフリーのライターとして独立したんだろ? 毎日新聞在職中に書いた「周遊券の旅」がそこそこ売れたこと、
鉄道担当記者として伝手の多さが独立、鉄道ライターを目指す
きっかけじゃなかったかな? >>52
一番大きいのは毎日新聞の経営危機だろうね >>51
確か、ライター開業日が武蔵野線の開業と同じ日で、
そのときは、初期親衛隊がいて、手紙のやりとりはこまめにしていたみだいだよ。 あと、種村氏の場合は、国鉄とのパイプがあって、
民間国鉄スポークスマンという地位が確立されたのも大きいね。
国鉄がJRになってから迷走し始めたのも、それがなくなったからだろう。 >>28
王さんは直接家に行ってもサインしてくれたらしいね 種村氏の娘さんの名前が【ひかり】【こだま】でしたかね。たしか。 >>57
山陰旅行に行こうとしているときの京都駅でサボ窃盗犯の現行犯で逮捕され、
それでもめげずに旅行に行き、鳥取砂丘で知り合った娘さんと交際し、後結婚。
2人の娘がうまれて、「ひかり」「こだま」と名付けました。 >>16
禿同
何か忘れたが著書で「その世代にしては
自分は長身」みたいなこと何度も書いてた
あんたの身長なんてどうでもいいわ 今思えば、二人とも良い時代に生き、良い時代に亡くなったと思う
1960年代以降の国鉄全盛期を経験し、2000年代以降の衰退期に亡くなった
現代の北海道の惨状を見たくはなかったろう >>43
長距離鈍行とか座席夜行ザコ寝とか、種村氏が提案した汽車旅の影響は大きかった。
今思えば、そんな旅ができたのは千載一遇のことで、氏は時代に上手くはまったように思う。 >>60
それはちょっと違うな。お2人とも戦争を経験している。宮脇さんは生きるか死ぬかの思いをしてるし、種村さんはそこまでじゃないけどひもじい思いをしている。あの時代は地獄じゃない。 >>61
これは納得、もっと旧型客車に乗っておけばよかった。 時刻表昭和史なんかは、宮脇氏の世代しか書けなかった代物。
氏の食に対する想いも、これを読んだらなんとなく解った。 良スレ発見!
宮脇先生追悼の雑誌まだ持ってる。
付録の肉声CDは当時何か本当に悲しくてとうとう聴けなかった。
そして今も聴く勇気が無い・・・
もう何年たつんだろう・・・
終戦(敗戦)の時の事を「予告された歴史的時刻」と表現したのは素直に感動したなあ・・・
久しぶりに著作を読み漁ろうかな? >>13-15
宮脇氏の場合は万人受けする文学作品なのに対して
種村氏の場合は人を選ぶ文体だったからなあ
人間性と言うか、東大卒の名家の子息と、田舎育って京大卒の叩き上げという、出自の違いなのでは
独特な棘がありつつ一度でいいと思いつつも、それでもまた読みたくなる何とも言いがたい味のある人だった
好みの問題になると思うけど
>>57
種村氏の孫娘はのぞみちゃん、という名前だったはず >>67
種村だって結構良い家の息子だろ
師範学校の付属通ってたし、家にお手伝いさんいたんだから
文学関係の編集者と新聞記者の違いだろう >>68
だが東京近郊の名家の坊ちゃんの宮脇氏と滋賀の片田舎から身1つで上京した種村氏とじゃ如何ともしがたい差があるだろ
宮脇氏も出自を辿れば西日本(愛媛県か香川県のどっちか)らしいが…… >>69
>だが東京近郊の名家の坊ちゃんの宮脇氏と滋賀の片田舎から身1つで上京した種村氏とじゃ如何ともしがたい差があるだろ
それって最早出自じゃないじゃん
種村が東京出てきたの何時か知ってて言ってんのか? >>70
大津市膳所だから田舎でも何でもない
京都までも電車で10分ちょい >>64
終戦時でも羽越本線は普通に走ってたか
今の方がすぐに運休してしまうイメージ >>30
久々にその本読みたくなった
地元の図書館にあるかな? >>57 >>58
種村氏の娘さんたちも幼い頃は「○○子」といった普通の名前に憧れてたらしい。
まぁあの世代だとまだ「子」が付くのが普通だったからな。
だが、こだまさんが孫娘に付けた名前は「のぞみ」だったけどな。 >>79の訂正
× 孫娘
○ 娘(種村氏からみれば孫娘) 宮脇さんが擬人法を用いて各鉄道路線に好き勝手に喋らせる箇所が大爆笑モノだった。
東海道新幹線は東海道本線さんの隠し子で戸籍がないということで、座談会は欠席して
いた。年季の入った路線は一人称を「ワシ」と言っているのに対して、昭和47年生まれの
路線は「ボク」と称していたり、見かけとは裏腹に相当お茶目な先生とみた。 宮脇俊三は、存命中、宮崎空港線だけを乗り残していたが、同線が開業した頃には、
もう乗りつぶしをやめていたのか、体力や年齢、気力などから宮崎空港線開業というニュース聞いても、
乗りに行く気にもなれなかったのだろう このスレ、由々しき事態であり、ぞっとしない、という種村さんのAAがないでんな。 >>83
ローカル線が人格を持っていて座談会をする噺だったかな?
たしか鉄道ジャーナルに載っていたような記憶がある
小学生だった当時、面白く読んだ記憶がある 種村直樹は「特急列車図鑑」みたいな本も多く出してるけど、宮脇俊三氏は「旅の終わりは個室寝台車」という
紀行文ふうの作品や「関東1500キロ」、「近畿1300キロ」などといった国鉄の駅や路線の沿線風景を図鑑ふうと
紀行文ふうに書いた作品が多いな >>83
時刻表ひとり旅の歌志内線と宮古線?
あれは面白かった
あの本、久々に読みたいな
まだ売ってるのかな? いい旅チャレンジ20000キロの生みの親は時刻表2万キロの生みの親 宮脇俊三 >>69
おそらく香川かな
高松市内に宮脇という地名もある
宮脇書店発祥も高松 おくにはどちらですか?
カガワです。
ああ、神奈川ですか。 >>83
>>86
>>88
手もとにその本ありますよ〜。
良かったら、座談会の議論の内容をこのスレに書き込みますが。
ただ、28ページにまたがるから、書き込んでも、回数を何回もわけて、何日かかけないとなりませんが、それでもキボンな人〜 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています