古き良き時代の近鉄電車 3号線 [無断転載禁止]©2ch.net
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引き続き、古き良き時代の近鉄電車を語るスレです。
今回で3号線となります。
前身会社や関連会社、乗入会社の話題も可能でございます。
前スレ
古き良き時代の近鉄電車 2号線 [転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1447780164/ 2610系で上本町6時発だかの快速急行
中川あたりで 飽きてきて特急に乗り換えた
しょうもない作り話すんなや 大昔は6時50分が特急の初発で快速急行には追い付かなかったのでは >>559
上六6:10の快急鳥羽は、1978年の改正以来、長年名古屋線の間合いであっただろ
当初は2680系、1980年頃からは2610系で >>561
へぇー1980年ごろからは2610系に変わってたんだぁーはつみみぃー
2680系と2000系と5200系しか知らなかったぁー
めっちゃくわしいんだね! >>559
朝熊と池の浦に停車するのがそんなに嫌だったの? >>558
JRだったら中長距離は特急しかないだろ
特急を使わないようにしようと思えば何度も乗り換えが必要で、それも階段を使った乗り換えが必要であることが多い
JRは中長距離になると特急料金がなくても運賃だけでも関東民鉄の有料特急並み運賃だし。 大阪から鳥羽行き快速急行に乗って伊勢中川で特急に乗り換えて鳥羽ってw
特急待ちの間に快速急行は伊勢市到着するからアホだなww 急行鳥羽行きではなく、鳥羽行き急行じゃないのか?
昭和50年頃の朝一は鳥羽行き急行だった気がするが 急行鳥羽行き
鳥羽行き急行
どこがどう違うの?
使い分ける意味教えてください 意味は同じだろうけど
近鉄では案内放送等で○○行き急行と言ってるね
阪急とかは急行○○行きだけど >>331
中学の修学旅行のとき11400+10400の7連貸切だったが 今年もあの日が近づいてきたか
あれから46年
そういえば、トンネル火災からちょうど30年経ったんだな
確か9/21だったか >>559
>>561
2610ではなく2600な
その後5200となり2014年から2610または2800のL/Cカーに変更 近鉄の駅前にはマルーンとベージュとエメラルドの昭和カラーの奈良交通のバスがいつも待機。
三扉車や青地に白抜き文字の大型方向幕に萌えたわ。 >>582
茶色と黄色だっけ。
車内の金属製ポールが阪急バスのそれと違って、
丁寧に丸められていて、今で言うバリアフリー?
の先駆だと幼心に思った。 >>524
>ベージュと大差ないような色
大差あり過ぎるどころか全く違う色だぞ >>582
1999年までは直営だったからあながちスレ違いとは言い切れないねぇ。 >>570
関西私鉄は昔全部
行き先+種別で案内していたんだよ
阪急も京阪もそうだった
南海は違うかも
それを最後まで墨守しているのが近鉄 >>589
俺の記憶に残る限り、阪急は
「種別」+「行き先」 >>480
ラビットマークの作者は岡本太郎じゃなくて吉原治良というのは
だいぶ前に明らかになっているはずだけど?
ここ、本当に社員の関係者居るの?
「ひかり」にもその記述があるはずだけど >>590
キミの記憶って
せいぜい35年ほどだね
てか、ちゃんと史料で示さないとね
昭和53年以前は阪急も近鉄式だったのさ
キングレコードの阪急編聞いたら分かるよ 初代ビスタカー10000系と同期の名古屋線用特急車6431系
派手で一時は近鉄一番の最優秀車として君臨したが、変化著しい時代の規格化(座席定員)
の過程で弾かれ異例の短命に終わった10000系と地味ながら端正ではあるが、そう遠くない
将来降格する定めを、生まれたときから以ていたが、落ちぶれた後地味ながら普通に天寿を
全うした6431系 どちらが、機械しては幸せだったのだろうか?
養老線の木造車鋼体化車5000系が南大阪線から同じ木造車鋼体化車の5800系に取って代
わられたのは、各部の痛みより収容力と車体のデザインの古臭さが災いしたかからだろうか? >>591
>ラビットマークの作者は岡本太郎じゃなくて吉原治良というのは
>だいぶ前に明らかになっているはずだけど?
ソースたのんます >>594
鉄道史料123号
「ひかり」13巻1号
ここって自称会社関係者や自称社内資料を持っている人間が常駐しているんじゃないのか? 近鉄が直系の大軌は勿論 買収で傘下に収めてきた外様各社まで社史記録に努めてきた理由は何故に?それでも一般企業同様 社内で社史を作成したヒトは、やはり閑職の人々だったの? >規格化(座席定員) の過程で弾かれ異例の短命に終わった10000系
ソースたのんます(嘘が多いwikiは無しで) さっきからソースたのんますって言ってる人
本当に知りたいのなら少しは自分で調べてみればいいのに
そしてwikiに調べたソースを呈示して編集したら >>596
近鉄の社史も名古屋鉄道の社史には劣ると思うよ。
名岐と愛電は対等という姿勢を守るし、美濃電や三河鉄道もページを割く。 >>596
大鉄全史は
大鉄時代に社長が中心になって編纂したものを戦後発刊しただけ
信貴生駒と奈良は
戦後合併会社社員の融和を目的として刊行
三重交通は
広報課長の徳永さんの努力の賜物
社史の編纂なんて
閑職に飛ばされたアホではできんよ
>>600
名鉄と近鉄では会社形成のプロセスがぜんぜん違うのだから
近鉄が勝者の視点で作るのと
名鉄が名岐・愛電融和対等の視点で作るのと差が出て当たり前だし
美濃電や瀬戸電や三河に対する目線は近鉄の被合会社と同じ目線だよ
被合併会社の社史を出した近鉄はもう少し評価されても良いと思う 社史持ってんのか?
実名掲げて知ったかぶりの嘘吐くなよ スレチだけど
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link903.html
の上から四枚目のモ430形の写真の右に少しだけ頭を出しているのはどこの会社のバスだろう
当時の奈良交通とも違うようだし、ツーマン仕様の路線バスなので奈良にやって来た観光バスでもなさそうだし
どなたかご存知ですか? >>602 古本屋をマメに漁れば手に入るダロ。
懐かしい板の住人の癖に発言レベル低過ぎ。
奈良電引継1200改め680系?は、種車確保都合もあるが2連なのに何故に予備特683系?
は、3連だったの?(多客用だからキャパ容量を大きくとった?の)
そもそも 奈良電1200、1350が、合併後も奈良電時代の無料特急で走った期間はどれ位?
すぐに820や800が流れてきて一時花形特急から降板? 追伸 社史って His story (勝者)の歴史だから基本 自社に不都合な事(見方)は
書かないんだよな。
佐伯みたいな我の強い経営者の居る企業の場合は特に・・・。
朝日や毎日新聞、報知を読むようなスタンスじゃないとイカンよなっ。 >>607 妻乱!無理に背伸びしてハナシに加わらないでイイから聴いてなさい!! >>604
683が3両だったのは、680とクロスの席数を合わせるためと読んだ気が…
ピク誌か決定版近鉄特急か、キャンブックスか何だったか、忘れた 683って、マルーンになってから遠足輸送してるのしか、走っているところ見たことがない。 >>604
合併が38年10月
有料特急の運転開始が39年12月なので
合併直後に入場改造だろうね
一月くらいは走ってたかもしれないけどね
奈良電と信貴生駒の社史の件は徳永氏がハッキリ融和目的って言ってたなぁ >>609
683が3両だったのは主電動機の出力の都合
モ680は110kw 1M1T
モ683は75kw 2M1T
コレで出力に遜色ない 吉野鉄道(吉野線)連絡を巡り 大鉄(大阪鉄道→南大阪線)と競った大軌(大阪線)が、
吉野鉄道は買収後比較的早く吸収したのに、ライバルだった大鉄の吸収合併が、買収後
もかなりかなり後年(戦時統合の一環?)になったのは、旧ライバル企業に対する扱いに
苦慮(職員融和が進まなかった)したから? 句読点を正しくつけてください。
アホな人の文章にみえます。 ネタ投下する様で失礼だが30年以上昔の1984年頃に駅窓口の特急券売場に掲示されていた「特急列車にサーフボードは持ち込めません」と言うのがあったな。
一般列車の場合は荷物券(現在は手回り品切符に改称)さえ支払えば持ち込み可能だったのだがこの差はなぜ?
しかしバブル崩壊以後は伊勢志摩地区でサーフボードをやったり急行や普通列車でもサーフボードを持ち込んだりする客がほぼいなくなったよな…。 820系以外で近鉄が全車に方向幕の搭載を完了したのはいつ頃? 大昔から志摩でサーフボードはやらへん
志摩でサーフィンは今でもやってる >>617
単なる筆頭株主にすぎない大阪電気軌道が
上場企業の大阪鉄道を
何で勝手に吸収合併できると思うの?
大阪電気軌道自身、昭和一桁の時期はほぼ無配の状況だったのに
株買い占め資金は誰が出すの?
資金を出した人はどのようなリターンが見込めるの? >>624
スンマソンサーフィンの間違いでしたな…。 >>626 目黒蒲田電鉄の五島慶太は、この手のやり方で玉川電気鉄道、池上電気鉄道
を手中に収め 身内の東京高速鉄道の為に強引に東京地下鉄道を縁組させたのだが
・・・マア 被買収各社が当時上場企業だったかは知らないが・・・ >>626
>>628
時期的に戦時統合では?
上場企業云々言うなら関急は同じ上場企業の南海も合併などしないよ。 >>629
>>617は戦時統合が合併のきっかけと理解しているよ
戦時統合は陸上交通事業調整法という法律が後ろに控えているから
一応は任意合併の形はとっても法的に強制できるから上場企業同士でも合併は簡単
>>617は大軌が大鉄の筆頭株主になったのは1930年前後で、戦時統合まで何故吸収しなかったのかと疑問を呈したから
>>626が大軌は大鉄という上場企業の単なる筆頭株主にすぎないし、大軌自身に余力もメリットもないと答えている
陸上交通事業調整法は昭和13年の法律
筆頭株主になって10年近く後の話 >>631
昔南大阪線沿線に住んでたけど、越年特急が夜通し15分毎に運転してた >>632
伊勢特急も越年号走ってたな。自分は阪急沿線だったけど、
よく伊勢までの長距離を走らせることができるな=って感心しきりだったさ。 昔の終夜運転は今の「しまかぜ」の停車駅のやつが主力だったな >>633
運賃以外にも特急料金を払ってくれるんだから
他の電鉄の終夜運転よりずっと利益率が高い タクシーなら普段から22時以降は2割アップなんだけど 大阪市立中央図書館で鉄道ピクトリアルの近畿日本鉄道特集(1981年12月臨時増刊号)を借りてきた
(20日頃返却予定)
技術研究所のあゆみのコーナーでは大和西大寺駅のテレビモニター式行き先案内が紹介されていて
幕やパタパタ式が普通の時代にすごい先進的だったんだな
当時から南海難波や東武浅草にはモニター式の行き先案内があったけど
近鉄のは停車駅もスクロールして表示できるものだった。
今、人工知能が話題だけど、「今後の研究課題」の項目にも「人工知能」があり、36年も前から人工知能という言葉があったのにも驚いた。 >>637
今でこそモニター式が当たり前ですけど、あれとか東武のクイズダービーと呼ばれたのとか、自分はだっせぇと思ってましたねぇ。
何故かパタパタの方が先進的に見えたものでした。 >>638
東武のことは知らんけど、南海難波駅はクイズダービー→パタパタ
近鉄の各駅は幕→パタパタ 南海難波がクイズダービー式からザ・ベストテン式(パタパタ)に変わった頃に
近鉄上本町は幕式からクイズダービー式に変更でしたね
幕式時代の上本町は長距離ターミナルの風格があって好きでした
柱の色は今の薄青ではなくクリーム色でホームの真上は現在は都ホテルの宴会場ですが
その前はボウリング場でした。 1988年12月の鉄道ピクトリアル近鉄特急特集も大阪市立図書館で借りてるけど
12000系が登場時には垂れ流し便所だったのも初めて知った
10100系が1969年に黄害対策でトイレを移設していて、12200系には黄害対策工事の記述がないから
12200系は当初からタンク式だと思われる。 >>639
阪急沿線住みだったけど、南海の幕が巻き取られるときに上下逆さまの時があるのがおかしかった。 >>637
人工知能という言葉は古くて昭和30年代からあるよ。
当時は電子頭脳という言葉の方がメジャーだけどね。
鉄腕アトムなんて人工知能そのものだし、エイトマンなんて
クールダウンの為煙草(に見える冷却剤)を吸う。
ちなみに昭和35年製阪急2300系の愛称がオートカー(電子頭脳電車)、
いわゆるクルーズコントロール的な機能を備えていたからだが。 >>642
幕が巻き取られる時に上下逆さまの時があるのは当然でしょ。
自分が見ている反対側の表示用。近鉄でもそうだったし。 >>644
それが阪急のには無かったんでござるよ、ニンニン >>644
上の人も書いてるけど、すくなくとも「当然」ではないよ。 >>644
阪急河原町も梅田も地下鉄堺筋線も逆向きにはならなかったし
国鉄阪和線天王寺駅は逆向きだったな >>645
阪急は二つあった。列車の方向幕と同じような順表示方法。
昔の梅田、三宮、西宮北口がそれだった。
あと逆向き表示が可能なもの。塚口がそれだったが・・・
>>647 >>644
逆向き表示が可能なのは一本の幕で両面に表示するように
しているから。星光製のがそれ。
近鉄はそうだし、国鉄でも天王寺、上野、仙台(改札)は
そのタイプ。関西の他関東私鉄にも採用されていた。 >>648
なるほど。
逆向き表示にならないものは幕が二本ある構造なのかな?
僅かな時間かも知れないけどその方が早く表示の切り替えができるのかも
メンテナンス上どちらがいいのかはよく分からないけど。 >>641
初のタンク装備特急車が18400だったから相前後して登場した12200も1本目からその可能性はあるよな。 >>650
その理由で10003の運転台を撤去して跡地に便所新設。
一方で10004の便所を撤去はせずに閉鎖。 >>635
利益率高いのは同意だが一方で昭和末期当時の終夜運転の伊勢方面行特急は22〜23時台の列車は京都発着を除き約10〜20分間隔と言う大盤振舞だったぞ。
だからこの時の山田線は1時間に片道10本以上の特急が宇治山田あるいはそれ以遠に向かってたと言う平日朝でもさすがに有り得ないぐらい特急を過密に走らせていたな。
しかし当時は伊勢自動車道が久居までしかなかったしその先は国道23号も渋滞することがあったからそれでも結構乗っていたんだよな…。
今では終夜運転での上六と名古屋の宇治山田方面行最小10分間隔運転と山田線の特急過密時間帯もこのスレタイの如く「古き良き時代」になってしまったよな…。 >>634
今と異なり列車によりバラバラだった。
終夜運転が乙特急のみとなった今とは異なり昭和末期には甲特急もあってその停車駅は宇治山田行の場合は上六発は鶴橋と伊勢市のみ、名古屋発も伊勢市のみと言うものが中にはあった。
なお昭和最後の1988年度の終夜運転には同年デビューした早速ULも上六発にも名古屋発にも投入され終夜運転での上記の停車駅での甲特急運用に入ってた。
しかも(少なくとも当時は)この時に限りULが上六の地上駅を発着すると言う激レアな光景も見られたから上六にはUL目当ての今で言う撮り鉄が大量に襲来していた。 >>653
その時代は運転本数以上にの乗客が多く集中してたから頻発時間帯でも満席になってた便もあった。 戦前製の2200系も万博前にトイレタンク式にして
サ3000に移設してるよな。
モ2200の片目はその為解消してしまったが。 >>653
>>655
1988年、89年、90年と3年連続で終夜運転特急で大阪から伊勢神宮に参拝しました。
当時高校1〜3年生の私は1年目と3年目は残りあと1席をかろうじて確保し、
2年目もあと10席程度しかなかったのを確保した思い出がありました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています