古き良き時代の近鉄電車 3号線 [無断転載禁止]©2ch.net
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引き続き、古き良き時代の近鉄電車を語るスレです。
今回で3号線となります。
前身会社や関連会社、乗入会社の話題も可能でございます。
前スレ
古き良き時代の近鉄電車 2号線 [転載禁止]©2ch.net
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1447780164/ 8000の試験塗装についての記述のある文献ですが
私の手許にあるものは鉄ピク1981年12月臨時増刊号通巻398で
p217の藤井信夫氏の記事の中で昭和42年11月に竣工した6連化に備えての
中間車モ8200・サ8700が肌色とあります。900に関する記述も含めて他の箇所は
ベージュとなっています。
>>507氏が昭和43年と書かれている事ともほぼ合致します。
ただ、「ピンク」と書かれていた文献は手許にはなく、ソースも失念してしまったので
ほら吹きと呼ばれても仕方ない面もあります。
ショッキングピンクのような際立った色ならともかく、記述や写真がない(少ない?)のも
ベージュと大差ないような色だったからではないかと想像します。 肌色=ベージュ≒光線の加減でピンクやん
あんたオモロイわ 8000って8060F辺りからマルーンレッドになったんだっけ? >>524
「avって機種依存文字使うなよ…。お陰で携帯から見た時その部分文字化けしていただろうが。
PCで見て何とかわかったがな。
それはともかくこのサイト見たら1201と1410が試験塗装だったらしくそれを模型で再現していた模様。
http://www20.tok2.com/home/kt2251ex/model-HO_1.htm
個人サイトだがな。 >>511
ひかりよりも広報きんてつの方が読み応え的には面白い。 >>526
8060と8219までがベージュで8069アルミ車から赤。 肌色=ベージュ=光線の加減でピンク
全部同じ色やんけ >>529
>8060と8219までがベージュ
正確に言うと8068Fまでがベージュだ。
8060-8068までは塗装と車体のマイナーチェンジとの過渡期であった関係上ラインデリアなのにベージュ塗装だったしな。 俺子どもの頃額田に住んでたけど、母親が「お母さんが若い頃は緑色の電車が
走っててんで」とか言ってて、マルーンの近鉄電車しか知らなかったから「そんなん
走ってるわけないやん」と信じなかったんだが、今思えば昔奈良線を走ってた400系
とか600系の小型車のことだったなと分かる。
昭和30年に郷里の小豆島から大阪に出てきて、枚岡に住んで毎日奈良線で
上六→市電乗り換えコースで通勤してたらしい。 >>533
この時代の吊掛駆動の一般車は一部を除き基本的にダーググリーン。
1回目の東京五輪前後にマルーンレッド化。 >>532
8060と8068の間違いです。
6次車までがベージュで、塗り替え前に中間車の7次車を入れました。 >>532
>>536
と言うことは早い話がアルミ試作車以降がマルーンってことでおk? 気になって手持ちの文献をもう一度よく調べてみたのですが、
8000の塗装試験車についての記載見つかりました。
鉄ピク1992年12月臨時増刊号通巻569号p239〜240の三木理史氏の記事で、
以下が当該部分の原文のままです。
『なお、8031Fと8054Fが昭和42年にピンク色の試験塗装で約1ヶ月間使用された』
>>524に挙げた記事の肌色はご指摘の通りベージュと同義ということになります。
時期的にほぼ一致する点と新造車という事で早合点しました。
訂正すると同時に深くお詫び申し上げます。
1ヶ月という短期間、それも既存車を塗装し直しての試験。
色については推測の域を脱し得ませんが、どなたか実際にご覧になった方がおられれば
お聞きしたいです。 ピンク色と過去記事そのまま引用している三木大先生は試験塗装車を見ていないようだな。 しかしこのスレ資料的価値高過ぎだな。
鉄道考古学者の集団だと思ったわい。 ちゃんと資料的価値のある書き込みがあるからな
ただ事実の羅列だけ書き綴るところが多くてな それは違うな、俺は本にも原稿や写真を提供してるよ。 文献引用の書き込みと思ってるのならそれは勘違いだな。
他府県の執筆者よりも地元民ならではの資料もあるからね。 どんな会社であっても地元の方が資料入手し易い分アドバンテージ=逆に取ると他所者はその分ハンデキャップがあるってことだ 地元民だと土地の提供者やルート選定の経緯の
詳しい話を聞けたりしたからね。
そういうのは基本的に本や資料等にも表面化しない。 でもそれも自分の足で調べに行くことと聞く相手方との信頼関係や人と話すことが苦手でないことも必要だから並大抵のものではないよな。 奈良に関しては考古学関係者が周囲に沢山いるし、
近鉄縁の関係者も寺社仏閣に従事してたりするし。
電車本に書かれた資料を見聞きしてるだけと勘違いしてたら大間違い。 八千系試験塗装桃色説否定者皆無不思議皆無知説得力無 >>555
台湾語で書くんじゃないw
>>554
近鉄の場合は鉄道以外にも沿線の開発事業とか熱心だもんな。
だからそれとセットで聞く人も多いと聞くが実態はどうだろうか? >>556
こかに繁体字で書いたら、化けまくるわw 大昔に2610系で上本町6時発だかの快速急行で鳥羽まで乗り鉄やったけど、さすがに中川あたりで
飽きてきて特急に乗り換えたw。 特急の補完的な役割だろうけど、名張あたりはほぼ
各停状態なのはかったるいな。つくづく近鉄の特に中〜長距離って特急本位なダイヤだ。。 2610系で上本町6時発だかの快速急行
中川あたりで 飽きてきて特急に乗り換えた
しょうもない作り話すんなや 大昔は6時50分が特急の初発で快速急行には追い付かなかったのでは >>559
上六6:10の快急鳥羽は、1978年の改正以来、長年名古屋線の間合いであっただろ
当初は2680系、1980年頃からは2610系で >>561
へぇー1980年ごろからは2610系に変わってたんだぁーはつみみぃー
2680系と2000系と5200系しか知らなかったぁー
めっちゃくわしいんだね! >>559
朝熊と池の浦に停車するのがそんなに嫌だったの? >>558
JRだったら中長距離は特急しかないだろ
特急を使わないようにしようと思えば何度も乗り換えが必要で、それも階段を使った乗り換えが必要であることが多い
JRは中長距離になると特急料金がなくても運賃だけでも関東民鉄の有料特急並み運賃だし。 大阪から鳥羽行き快速急行に乗って伊勢中川で特急に乗り換えて鳥羽ってw
特急待ちの間に快速急行は伊勢市到着するからアホだなww 急行鳥羽行きではなく、鳥羽行き急行じゃないのか?
昭和50年頃の朝一は鳥羽行き急行だった気がするが 急行鳥羽行き
鳥羽行き急行
どこがどう違うの?
使い分ける意味教えてください 意味は同じだろうけど
近鉄では案内放送等で○○行き急行と言ってるね
阪急とかは急行○○行きだけど >>331
中学の修学旅行のとき11400+10400の7連貸切だったが 今年もあの日が近づいてきたか
あれから46年
そういえば、トンネル火災からちょうど30年経ったんだな
確か9/21だったか >>559
>>561
2610ではなく2600な
その後5200となり2014年から2610または2800のL/Cカーに変更 近鉄の駅前にはマルーンとベージュとエメラルドの昭和カラーの奈良交通のバスがいつも待機。
三扉車や青地に白抜き文字の大型方向幕に萌えたわ。 >>582
茶色と黄色だっけ。
車内の金属製ポールが阪急バスのそれと違って、
丁寧に丸められていて、今で言うバリアフリー?
の先駆だと幼心に思った。 >>524
>ベージュと大差ないような色
大差あり過ぎるどころか全く違う色だぞ >>582
1999年までは直営だったからあながちスレ違いとは言い切れないねぇ。 >>570
関西私鉄は昔全部
行き先+種別で案内していたんだよ
阪急も京阪もそうだった
南海は違うかも
それを最後まで墨守しているのが近鉄 >>589
俺の記憶に残る限り、阪急は
「種別」+「行き先」 >>480
ラビットマークの作者は岡本太郎じゃなくて吉原治良というのは
だいぶ前に明らかになっているはずだけど?
ここ、本当に社員の関係者居るの?
「ひかり」にもその記述があるはずだけど >>590
キミの記憶って
せいぜい35年ほどだね
てか、ちゃんと史料で示さないとね
昭和53年以前は阪急も近鉄式だったのさ
キングレコードの阪急編聞いたら分かるよ 初代ビスタカー10000系と同期の名古屋線用特急車6431系
派手で一時は近鉄一番の最優秀車として君臨したが、変化著しい時代の規格化(座席定員)
の過程で弾かれ異例の短命に終わった10000系と地味ながら端正ではあるが、そう遠くない
将来降格する定めを、生まれたときから以ていたが、落ちぶれた後地味ながら普通に天寿を
全うした6431系 どちらが、機械しては幸せだったのだろうか?
養老線の木造車鋼体化車5000系が南大阪線から同じ木造車鋼体化車の5800系に取って代
わられたのは、各部の痛みより収容力と車体のデザインの古臭さが災いしたかからだろうか? >>591
>ラビットマークの作者は岡本太郎じゃなくて吉原治良というのは
>だいぶ前に明らかになっているはずだけど?
ソースたのんます >>594
鉄道史料123号
「ひかり」13巻1号
ここって自称会社関係者や自称社内資料を持っている人間が常駐しているんじゃないのか? 近鉄が直系の大軌は勿論 買収で傘下に収めてきた外様各社まで社史記録に努めてきた理由は何故に?それでも一般企業同様 社内で社史を作成したヒトは、やはり閑職の人々だったの? >規格化(座席定員) の過程で弾かれ異例の短命に終わった10000系
ソースたのんます(嘘が多いwikiは無しで) さっきからソースたのんますって言ってる人
本当に知りたいのなら少しは自分で調べてみればいいのに
そしてwikiに調べたソースを呈示して編集したら >>596
近鉄の社史も名古屋鉄道の社史には劣ると思うよ。
名岐と愛電は対等という姿勢を守るし、美濃電や三河鉄道もページを割く。 >>596
大鉄全史は
大鉄時代に社長が中心になって編纂したものを戦後発刊しただけ
信貴生駒と奈良は
戦後合併会社社員の融和を目的として刊行
三重交通は
広報課長の徳永さんの努力の賜物
社史の編纂なんて
閑職に飛ばされたアホではできんよ
>>600
名鉄と近鉄では会社形成のプロセスがぜんぜん違うのだから
近鉄が勝者の視点で作るのと
名鉄が名岐・愛電融和対等の視点で作るのと差が出て当たり前だし
美濃電や瀬戸電や三河に対する目線は近鉄の被合会社と同じ目線だよ
被合併会社の社史を出した近鉄はもう少し評価されても良いと思う 社史持ってんのか?
実名掲げて知ったかぶりの嘘吐くなよ スレチだけど
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link903.html
の上から四枚目のモ430形の写真の右に少しだけ頭を出しているのはどこの会社のバスだろう
当時の奈良交通とも違うようだし、ツーマン仕様の路線バスなので奈良にやって来た観光バスでもなさそうだし
どなたかご存知ですか? >>602 古本屋をマメに漁れば手に入るダロ。
懐かしい板の住人の癖に発言レベル低過ぎ。
奈良電引継1200改め680系?は、種車確保都合もあるが2連なのに何故に予備特683系?
は、3連だったの?(多客用だからキャパ容量を大きくとった?の)
そもそも 奈良電1200、1350が、合併後も奈良電時代の無料特急で走った期間はどれ位?
すぐに820や800が流れてきて一時花形特急から降板? 追伸 社史って His story (勝者)の歴史だから基本 自社に不都合な事(見方)は
書かないんだよな。
佐伯みたいな我の強い経営者の居る企業の場合は特に・・・。
朝日や毎日新聞、報知を読むようなスタンスじゃないとイカンよなっ。 >>607 妻乱!無理に背伸びしてハナシに加わらないでイイから聴いてなさい!! >>604
683が3両だったのは、680とクロスの席数を合わせるためと読んだ気が…
ピク誌か決定版近鉄特急か、キャンブックスか何だったか、忘れた 683って、マルーンになってから遠足輸送してるのしか、走っているところ見たことがない。 >>604
合併が38年10月
有料特急の運転開始が39年12月なので
合併直後に入場改造だろうね
一月くらいは走ってたかもしれないけどね
奈良電と信貴生駒の社史の件は徳永氏がハッキリ融和目的って言ってたなぁ >>609
683が3両だったのは主電動機の出力の都合
モ680は110kw 1M1T
モ683は75kw 2M1T
コレで出力に遜色ない 吉野鉄道(吉野線)連絡を巡り 大鉄(大阪鉄道→南大阪線)と競った大軌(大阪線)が、
吉野鉄道は買収後比較的早く吸収したのに、ライバルだった大鉄の吸収合併が、買収後
もかなりかなり後年(戦時統合の一環?)になったのは、旧ライバル企業に対する扱いに
苦慮(職員融和が進まなかった)したから? 句読点を正しくつけてください。
アホな人の文章にみえます。 ネタ投下する様で失礼だが30年以上昔の1984年頃に駅窓口の特急券売場に掲示されていた「特急列車にサーフボードは持ち込めません」と言うのがあったな。
一般列車の場合は荷物券(現在は手回り品切符に改称)さえ支払えば持ち込み可能だったのだがこの差はなぜ?
しかしバブル崩壊以後は伊勢志摩地区でサーフボードをやったり急行や普通列車でもサーフボードを持ち込んだりする客がほぼいなくなったよな…。 820系以外で近鉄が全車に方向幕の搭載を完了したのはいつ頃? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています