懐かしの横浜線 [無断転載禁止]©2ch.net
十日市場が開業したときは
何だか分からんがワクワクしたのを覚えてる
町内会長さんみたいな人がチラシ配って回ってた
記念イベントは何をやってたっけなあ 十日市場駅が出来る前までは23系統が十日市場団地中央まで乗り入れてたな >>86
開業初日限定の硬券の入場券を買いに行ったのを覚えている。 開業と言えば、八王子みなみ野すらだいぶ前になっちゃったよな。 >>86
僅かな期間、十日市場に旧形国電が停まる光景が見られた 市バス41系統大口駅ー鴨居駅ってのがあったが
誰得もいいとこだった >>86
それと合わせて土建屋が建売住宅のチラシも
撒いていた
新駅の開業は地元にちょっとしたバブルを
招きますなあ 券売機は子供用のボタンに誤操作防止用のカバー付いてた時代。 指定された価格のしか買えない奴のことか
券面に子供料金の表示がないんだよな そもそも子供用は買えなかった記憶
硬貨が切符の額に達すると自動的にお釣りと共に出てくる
ボタンを押す動作というのがなかった 30円が青で
40円がオレンジだったのは覚えている。 相原あたりは八王子寄り以外は人里とは呼べない秘境レベル
夜になると見渡す限りの漆黒の闇、空は満天の星
蛍が舞っていた 近所のおばさん家が小机に家を建てたんだが、
そのおばさんが野中の一件家に越すのは嫌だと泣いてた。
で、1年くらいして電車で通ったけど、ほんとに野っぱらでびっくりした。 小机は駅北側は申し訳程度の平屋の県営住宅みたいのが数十軒固まって立ち並んで、小机城址の下に農家が数軒
それ以外は鶴見川まで見渡す限りの田んぼ
亀の甲橋まで田んぼ以外何もなかった
駅の南側は今より栄えていたしバスターミナルも機能していた 今では民家でびっしりのこの一帯が、昔はそんなに何もなかったなんて
俄に信じ難い 50年前と大差ないのは矢部駅周辺ぐらいか
相原ですらずいぶん開けた
菊名はホームこそ変わったが実は周辺風景はあまり変わっていない 結論
とりあえず横浜市内区間については
車両が新型にはなったものの
それ以外は田舎を走るところなど
大して変化がない
だがそれがいい >>112
そうですね。
南武線は立体交差工事して高架化されて
走る場所が変わりましたが、
横浜線は複線化だけで変わらないですね。
踏切は道路が上がるか下がるかして
減らして線路の位置は変わりません。 鉄道を高架にするより道路を移設してオーバークロスかアンダークロスさせる方が
なにかと安上がりではないかな スロープ部分がネックになるよ
鉄道ほど勾配条件は厳しくないにしても、交差部までかなりの距離を要するので、
用地の確保が大変。 >>114 場所によりけりだな。鉄道の高架ないし地下化が早急には実現困難な所では、道路の方を移設して立体交差化するわけだし。
高架にすると、騒音や日照権の問題がつきまとう。 町田駅の下り最後尾で試験してるホームドア、開くの遅過ぎ。山手線並みにしろよ。 わずか10年のうちに民家で埋め尽くされるとは誰が想像し得たか 新横浜も鴨居も駅できる前は田んぼだらけ
菊名は50年前と駅前がほぼ不変 205系が登場した時は山手のお古103系を延々宛がわれ続けるのだろうと思ったが、
横浜博を機に一挙置き換わるとは思わなかった >>5
やっぱり茶色だったよね。
そんな記憶残ってたんだよね。
あれを見るとコーヒー牛乳飲みたくなったけど子供ゆえ禁止されてたの思い出した。 >>5
自分は72年生まれだが、
生まれた当時は茶色の電車しか走っていなかったのか。
車両の真ん中に有るポールが印象に残っている。
205の6ドア車両で復活したときは
懐かしかった。 国鉄末期かJR初期か忘れたけど
みかんのシール貼ってる電車あったね
なんか恥ずかしかった >>127
ミカンだけじゃなくグレープフルーツとかイチゴとかキウイフルーツとかも貼ってあったんだぜ 茶色の旧国、扉が片扉、床から天井にのびるつかまり棒
油で拭いた板床、消毒液の匂い、冷房なし、窓全開可、扇風機つき
橋本か小机で貨物列車と交換待ち 小田急には全開する窓有ったな。
2段上昇窓というのかな。 >>133
101系とか103系初期車とかの画像ググってみ。
気持ちいいくらい全開できてたのがわかるよ。
ちびっ子なら簡単に転落できるレベルだったなw >>135 旧型国電で窓全開できるかという話してるんだけど。
横浜線の73系、撮影は79年8月10日、二段窓だが全開にしているものはない。
他の旧型国電の写真も見たが、全開にしているものは見当たらなかった。
http://tsurikakedensha.blogspot.jp/2016/02/ >>136
おいおい>>135は>>133へのレスだよ
二段窓でも構造上無理ということはないって例だよ 103は方向幕のとこ以外は全開できたな
よくやってた >>140
× 雨
○ 風
あー 歳がバレちまうぜww >>140
俺は「雲にガラスの向こうは風の街」と聞き間違えてた >>130
航空写真的にはそうと分かるんだけど・・
2Dで見たいな 原町田→町田に駅名変更した直後の方向幕、
「原」の部分を塞いで急場をしのいでた 小田急は新と原を隠したんだろうか?
10年ぐらい前までは切り取られた縦型の駅名標が小田急に残っていた。 >>130
見た目原野でも駅が出来上がる頃には原野の権利者が…… 横浜線沿線住民なのに、今の今まで、このスレの存在を知らなかった・・・・
廃止になった路線ばかり追っ掛けていた・・・・・ いつから耕作地が原野になったのか。元和偃武の頃じゃあるまいし。
いやその頃既に土地利用がなされていただろう。 長津田の乗り換え案内の「こどもの国線」のアナウンスが子供心を擽ってなあ…
横浜線に乗って長津田を通るたび親に
行きたい!乗りたい!、
とせがんでいたらしい >>150
乗り替え案内あったかな?
あったとしても「東急線は乗り替えです」くらいしかなかったと思う
こどもの国なるキーワードを聞いた記憶がない >>153
今の自動放送には入っているよ。
205以前の車掌放送時代は覚えていない。 >>153 >>154
205系時代だと案内は車掌によりばらばら。
基本は「東急田園都市線、こどもの国線は乗り換えです」。
バリエーションとして:
・「東急線は乗り換えです」
・「東急線、こどもの国線は乗り換えです」
・「東急田園都市線、横浜高速鉄道こどもの国線は乗り換えです」
まあ束だからね。案内放送に対する車掌裁量が大きいのは国鉄時代からの伝統。 ぶっきらぼうな言い方の車掌もいた
あまり気持ちのよいものではない >>156
発車後と到着前の2回(へたすると発車後はなしで)、「ガチャ・・橋本・・」と駅名だけボソッと放送するのがデフォでしたね。
現在の英語まで流れる自動放送や
ピンポンーピンポンーピンポンーとしつこいドア閉め警報
よりはマシだった気がする自分はもう老人なんだろう。 警告音が多すぎてかえって注意換起の妨げになってるという‥‥ 警告音と言えば、ホームで電車が進入するときに流れるのもあるね。
川崎で聞いたけど、JR西日本かと錯覚した。
ATOSの機能かは知らんが横浜線は未導入かと。 いや〜、懐かしいですね。
このスレを見て私も昭和54年(1979年)9月30日(日)に運転された旧型国電さよなら運転を
その年の4月に開業した成瀬駅に写真を撮りに行ったのを思い出しました。
本当は乗車したかったけど、その日は高校の学園祭で残念なことに乗車は叶わず、やむなく
途中で学祭を抜け出して最寄りの成瀬駅で写真だけ撮ったんですね。
雨の中、クモニ13のテールがやけに赤々と輝いていたのを憶えてます。。。 >>162
茶色の電車は1979年まで走っていたんですね。
自分が5歳ぐらいに乗った記憶が有るから納得です。
スタンションポールが印象深くて、
205の6ドアで復活した時は懐かしかったです。
そんな横浜線もワンマン化の為にE235への交換予定です。
2024年度以降らしいですが、車両交換のスピードが速くなってます。 もう新型が入るのか
最近の話題にはすっかり疎い
懐かし時代はお下がりだけだったのにね
新車で205系が来た時の乗り心地は良かったな 気が早いけどE233引退のときはどうするんだろうね。
205引退の時は103の横浜線プラカードが復活。
混色にラッピングも良いけど、
転用先考えるともったいないような。
駅スタンプ復活ぐらいか? >>162 72系引退、南武線より1年数ヶ月遅いんですね。青梅線の1年半後。今や、横浜線の方が新車が優先的に入る感じだが。 毎日のように乗っている横浜線だけど知らないことが多すぎる(´;ω;`)
このスレで少し勉強しよう、っと。 原町田の駅に貨物の係留線?みたいなのがあって
そこでSL見たことがある。 昔は小机から北は単線だった。
新横浜では、新幹線もハマ線もそれぞれ勝手に走っており、
こだまで新横浜に着いてハマ線のホームに行くと、
東神奈川方面の電車は出たばかりで接続が悪く、
かなり待たされた記憶がある。
中古の茶色い電車の時代、 新横浜のホーム上屋はほんの一部
見える建物はエンペラーだけ 国鉄の頃には乗り換え接続の便を考慮しようかんてことは微塵もなかったんだろうね 新横浜駅には無料駐車場があったんだよ
それが有料になり駅ビルたてるときの駅前大改造であえなく消滅 >>175
「乗せてあげてる」意識だからそれは仕方ない それ、スゴイよね笑
客も、国鉄はこんなもんと、諦めてたのかもしれない
その反動がいまのカスタマーハラスメントに繋がってるのか >>175いまだって無いよ。
横須賀線で大船に着くと、下りの東海道線は目のまえで発車する。 かけこみ乗車防止のためわざと接続させないと聞いたことがある 京浜東北線下りで東神奈川の1番線に降りて
隣りの島式ホームに停まってる下りの横浜線に階段上り降りして飛び乗る
これ結構余裕で乗れたけどな 東神奈川は駅の判断で出発を遅らせて接続すること有るね。
国鉄時代は知らんが。 国鉄時代の、東神奈川駅のホームの立ち食いソバ屋は、
便所の隣で、アンモニア臭と言うか、すさまじく臭かった。 午後にあったクモニ13付きの4+1両
何回か見て撮っていましたが、いわゆる国電なのに荷電があるって不思議でした
積んでいたのは新聞でしたね
一度クモニ13に乗ってみたかったですが、さすがにそれは無理でした 橋本店(横浜線)が熱いよ
分厚い粉々感の残るかき揚げ
どうすりゃあ、こんな風に
作れるのか…
ぬるい蕎麦つゆ
湯切りの足りない麺で
更に味がボケてる
新人BBA店員を恫喝する
古狸オヤジ
イラっしまいませー連呼の
デブ女店員
早く潰れてくださいまし 懐かしい話ならもう思い出になってるだろう
よかったよかった E233も遠からずここで語られるようになるのかー
つい先日205から置き替わったばかりだと思っていたら 数年前、小机で189系の展示があったのは何のイベントでしたっけ?
ポスターの女の子がかわいかった記憶があります そうえいば20年前、バイクの免許で鴨居自動車学校に通ってたとき
土日の教習中は、必ず午前中にあさま色189系「はまかいじ」が
横浜方面に通過していたな >>188
2018年なら開業110周年のイベントかもしれんとおもったが、
2017年2月4日開催のハマ線レールフェスタだね。
プレスリリースは見つけられなかったけど横浜線のFacebookに
紹介されてた。
https://ja-jp.facebook.com/yokohamalinejp/posts/1326898447369000:0 >>190
ありがとうございます
この絵は誰の描いた絵か気になりますね まあ時代そのものが異様だったのでしょう
駅に近い農地を持ってるだけで億万長者みたいな感覚にさせられたのは
あの時代しかない
勘違いした地権者が多かったのが、この沿線かも 昔の駅弁ガイドみると、長津田にいなり寿司と書いてあるんだが、今も売ってるの? い〜なり〜♪と歌いながら
自分のおいなりさんをニギニギするサブ北島 >>195
崎陽軒のいなり寿司なら売ってるかもね。でも崎陽軒有るのは東急の縄張りだけど。 京樽とかしぶそばとかいなり売ってそうなの東急ばっかりだなw 中山にもその昔いなり寿司の駅弁が時刻表に載っていたが家族曰くこちらは駅前で営業していた蕎麦屋が用意していたという
長津田も同じような感じでは >>200
閉店したが、階段下に蕎麦屋が有ったな。そこの事かな? 103系全盛時代先頭車に掲げていた「横浜線」の看板が2、3パターンあったように思う。 路線名の表示板を付けて走る例が近畿圏や中京圏のJR各線には見られない >>207
近畿圏でも国鉄時代には関西線(現在の大和路線)が
大阪環状線に乗り入れていたけど
路線名の看板なんか付けてなかったような。
中央線も青梅線が乗り入れてくるが路線名の看板ではなく
種別(特別快速)の看板だった。
今はLED化のお陰か路線名を表示する例が増えてるね。 103系の色が塗り直されて統一されるまで'【中央本線】と書いてあった写真を見たよ。 >>208
関西線と言えば、20年位前に夕方の天王寺駅ホームで、元ハマ線のクモハ103‐48が先頭の、
快速奈良行きが、ハマ線当時と同じ鶯色のままの姿で入って来たのを見て、
つい懐かしくなって、衝動的に奈良(地平駅時代)まで乗ってしまったことがある。
自分は根岸線沿線民だけど、ATC化以前のガキの頃、ハマ線直通の電車が来ると、
なぜかクモハ103‐48の編成に当たることが多くて、特別な親しみを感じていた。
なので、先頭に【横浜線】の看板を取り付けてしまいたい衝動にかられたよ。 >>210
調べたら関西線の大阪環状線乗り入れは路線名ではなく
ヘッドマークで国鉄の私鉄対抗の意味があったみたい。
車両が大阪環状線とは違ってた。
横浜線は青色の車両もあったし
根岸線と同じような車両で
誤乗車防止に徹してた。
今でも東神奈川で照明の色を変えて誤乗車対策してる。
今は車両は同じ(番台が違う)だけど帯の色が違うから
それで充分という判断でしょうね。先代の205も同様か。 >>211
昔は根岸線沿線民だけでなく、通勤や通学、買い物などで根岸線を利用する人達は、
ハマ線=茶色のボロ電車、京浜東北・根岸線=近代的な103系と言うイメージを持っていたので、
103系のハマ線には、先頭車に【横浜線】のバカでかい看板を掲げていたのだと思う。
勿論、当時のハマ線の103系は、漏れなく混色編成だったと言うこともあったけど、
悪い事に本家の京浜東北・根岸線にも、山手線から転属した鶯色の混色編成が時々あったので、尚更。
尚、茶色い旧国の、ハマ線からの根岸線乗り入れ電車には、【横浜線】の看板を掲げてなかったので、
この推測はかなり当たってると思う。 混色編成の中に、常磐線普通の濃い緑色、中央線のオレンジよりも濃い色のがあった編成が好きだった。
あまり長い期間走っていなかった気がする。
あと、京浜東北線と同じ青色一色もあった。
先頭車の「横浜線」がステッカーだったかな。
懐かしいな。 国鉄時代、103系にはウグイス、ブルー、イエロー、オレンジ、エメラルドグリーンの5色あったけど、横浜線ではイエロー以外の4色を見掛けたな
オレンジで異彩を放ってたサハ103-31(だったかな)をはじめ関西からの転入車だったのか、「吹田工」の検査表記の車もあったっけ >>124
わかる
1972年当時の茶色がたまらなく好きでな
その影響からコーヒー牛乳、チョコレート、キャラメルに異常な執着を持つようになった >>215
その後グリーンガムやうぐいす草餅、メロン、スカイブルーはソーダのアイスに反応するようになった >>214
茶色とウグイスとブルーは覚えてるんだが
オレンジなんか走っていたんか。
八王子で中央線と間違えられそうだ。(その為の「横浜線」だが) 上野の隅っこに緑だか訳のわからない色の103系かあれ
あの電車の沿線には住たくなかったのを子供心でも思ってた 6/7が冷房車の時代でもここまでの混結があったのか >>222
今だったら塗装し直して色を揃えるだろうに。
205末期に横浜線から南武線に行った車両があったけど
横浜線の色でなくて南武線の色になってたね。 >>224
ネットにつながってるんだから、ググれば見つかるだろ。 町田にデゴイチが保存されているが、あれは横浜線を走っていたわけではないんだね 菊名に法隆寺って名前の踏切が今もあるが
名前が奈良チックで印象に残る >>230
長津田からバスで行けるが
横浜には奈良が有るよ。 横浜線や南武線の踏切は電車が通過する遙か前から遮断、通過後かなり時間が経ってから開放される
その点、東急や小田急は機敏でJRとは対照的だった 法隆寺あたりは、今は
「住宅街のこんなとこに高速の出入り口(馬場インター)あんの!?」
というような場所だな
計画がある頃から、どんな感じでインターなんて出来るんだろう?と
思ってたな
馬場なんかもインターの名前になるような感じでもないしな
また、法隆寺の交差点は俺が数少ない霊現象的なものを味わったところ
ここは、今でこそ法隆寺から内路は首都高・横浜北線の開発で森が伐採され明るい感じだが、
昔はここを通ると異様なヒンヤリ感を感じたものだ
もしかしたら工事関係者も不慮な事故の死者とか出てるかもな
法隆寺から内路を通っている103系、205系、走行音が懐かしいな >>236
俺的にはめちゃくちゃ見づらかった記憶がある >緑地に白文字 方向幕の色を変えたのは
京浜東北線(根岸線)との誤乗車を防ぐためだっけ? 横浜線にふさわしい
そしてまだ決して使われていない色がきっとあるはず
それにしよう 紫色が使われてなさそう。
地下鉄だと半蔵門線、谷町線と使われてるが、JR東日本で使ってたっけ? いいじゃん、ハマ線はウグイス色+グリーンのいまのやつで・・・
先代の205系はそれで最初から最後まで通したんだからさ
紫なんか使うくらいなら、いっそぶどう2号にしてほしい 色より駅間距離をどうにかしてくれ
せめて2q間隔にして欲しい 新駅作るとしたら、どこに作るかねぇ・・・
菊名−大口 間に一個あってもいいかな
ちなみに昭和40年生まれの俺にとっては、
成瀬と十日市場は俺が中学のときにできて、
古淵は大学生のときにできて、
八王子みなみ野は社会人になってからできた駅なので
こいつらはいまだにすっげえ新しい駅っていう感覚・・・ >>249
横浜線沿線は車社会で、かつ町田街道やR16と併走していて、意外と駅勢圏は狭い。
ついでに、電車を使う層は駅周辺住民以外バスで拠点駅(町田、淵野辺、相模原、橋本など)へ直接出るから
中間駅をこれ以上作る意味が希薄。