懐かしの横浜線 [無断転載禁止]©2ch.net
大船行きが登場したのは昭和60年3月14日の改正
洋光台行きは定期では1本もありませんでした。 自分の覚えている範囲では
桜木町行きも無かった。
生まれる前のことは知らんが、
根岸線直通は磯子行きから始まって
行き先が増えたはず。
一時期は横須賀線直通の逗子行きも有ったね。 >>42
そうです。
日中だけ毎時2本でトータル12本くらいだったかな 中山行きの中途半端さ
103系の時代になってもまだあった 小机始発が八王子方面のばっかてのが不満だった
東神奈川行きが寿司詰めなのに、反対方向はガラガラ もう一つの他線直通。
相模線直通ってディーゼル車時代にも有ったのかな?
八高線もディーゼル車だっから八王子での
ディーゼル車は珍しくないだろうけど。 相模線ってまだディーゼルじゃなかったのかびっくり
C11が砂利採り列車牽いてたのがDLになったのは知ってる なんで混んでる方向の列車数が少なくて、
反対方向が多いのかいつもふしぎだった 横浜線と言えば、103系の両先頭車が低運、全7両非冷房編成が俺の中で決定版。
昭和53年、54年頃だったかな、夜遅くに小机駅の八王子側退避線で留置される。 いや、決定版の編成は全ウグイス色だよ。
たしか初期番号がほとんど、7両とも山手線からの転入車だったはず。
他の両先頭が低運なのは、ウグイス&スカイブルー混色だからイマイチで、
両方ともクハが揃うのも少なかった。 混成カラーを狙って写真を撮ってたよ
周りからは変わり者と思われた ちなみに決定版の編成は、
八王子 クハ-モハ-モハ-サハ-モハ-モハ-クハ 東神奈川
全ウグイス色で非冷房だけど、この編成が来ると喜んだ。 昭和50年頃の八王子発なんて
日中はへたすりゃ30分近く空いたね。 昭和53年くらいなら東海道〜横須賀も大船区受け持ちは混色編成だらけだったろう。
当時の東神奈川区は京浜東北線も運用あったし(10両)ウグイスもたまに混入していた >>59 その頃の武蔵野線や常磐線取手以北であれば、日中40分位空くようなダイヤだったが。
横浜線の片倉、相原辺りはど田舎だった。 全線複線化と快速運転開始はどっちが早かったか
同時? 実は南武線も立川発はひどいもんだったんだよな。
平日の1215の次は1245だったのは記憶している。 立川は昼間に2本しかない時間帯があったのは覚えてる
区間運転の宝庫だったね 南武線は当時奥多摩からの貨物もあったから本数は制限されてたんじゃない?
立川機関区は跡形も無いけど… >>67
どっちも63.3なら同時です。ありがとうございます。
それまで日中は毎時5本で、全線複線化でいよいよ完全10分間隔かと思ったらまさかの快速設定に驚いたんだった、思い出した 86,87年片倉駅から近い大学(わかると思うけど)に通ってた(中退)
けど当時の片倉駅は何もなかったな。
駅の場所が変わる&複線化なる前に辞めたけど。
あそこの大学は当時はDQNが多かった。
ホームから生徒同士が揉めて1人をホームに落として
電車を止めたとか。(もちろん両人とも退学) >>54-58
東神奈川持ちがオールウグイス色で蒲田持ちが混色とか? >>69
自分も同じ大学通っていたかも。
いままた新しい校舎建設してるけど、昔はまともな食堂もなかったなぁ…なんて思いだしたり 昔は橋本-町田の神奈中バスがライバルだったというのも今となっては信じられん
よほど本数少なかったんだな 磯子駅は上下両方向に引き上げ線があるけど、横浜線直通列車はたいてい大船方の引き上げ線で折り返してたな >>72
武蔵野線と並んで全国版時刻表に全列車掲載の「国電区間」だからな。
もっともこれらに接続する中央線快速等の時刻がわからなかったから。
乗り継ぐときは余裕をとりすぎて・・・長時間の待ち合わせを
強いられる場面もあった、東京338のあの頃・・・。
大回り乗車の予定が最初から立てられるなんて今は便利な時代よのう。 東京338…
当時天王寺車掌区にいたが、何故か関東転入の103ドア上に残っていたのがあって
338…これなんやねん?と同僚が頭捻っていたこと思い出したがな バスは本数が多かったが遅かった
国鉄は本数少ないが速かった バスが急行運転したら面白かったのに
もろもろ互角になるでしょ 最近になって急行運転始めてるよね
地下鉄も
実は市電も戦時中に急行運転という停留所の間引きをしてた 十日市場が開業したときは
何だか分からんがワクワクしたのを覚えてる
町内会長さんみたいな人がチラシ配って回ってた
記念イベントは何をやってたっけなあ 十日市場駅が出来る前までは23系統が十日市場団地中央まで乗り入れてたな >>86
開業初日限定の硬券の入場券を買いに行ったのを覚えている。 開業と言えば、八王子みなみ野すらだいぶ前になっちゃったよな。 >>86
僅かな期間、十日市場に旧形国電が停まる光景が見られた 市バス41系統大口駅ー鴨居駅ってのがあったが
誰得もいいとこだった >>86
それと合わせて土建屋が建売住宅のチラシも
撒いていた
新駅の開業は地元にちょっとしたバブルを
招きますなあ 券売機は子供用のボタンに誤操作防止用のカバー付いてた時代。 指定された価格のしか買えない奴のことか
券面に子供料金の表示がないんだよな そもそも子供用は買えなかった記憶
硬貨が切符の額に達すると自動的にお釣りと共に出てくる
ボタンを押す動作というのがなかった 30円が青で
40円がオレンジだったのは覚えている。 相原あたりは八王子寄り以外は人里とは呼べない秘境レベル
夜になると見渡す限りの漆黒の闇、空は満天の星
蛍が舞っていた 近所のおばさん家が小机に家を建てたんだが、
そのおばさんが野中の一件家に越すのは嫌だと泣いてた。
で、1年くらいして電車で通ったけど、ほんとに野っぱらでびっくりした。 小机は駅北側は申し訳程度の平屋の県営住宅みたいのが数十軒固まって立ち並んで、小机城址の下に農家が数軒
それ以外は鶴見川まで見渡す限りの田んぼ
亀の甲橋まで田んぼ以外何もなかった
駅の南側は今より栄えていたしバスターミナルも機能していた 今では民家でびっしりのこの一帯が、昔はそんなに何もなかったなんて
俄に信じ難い 50年前と大差ないのは矢部駅周辺ぐらいか
相原ですらずいぶん開けた
菊名はホームこそ変わったが実は周辺風景はあまり変わっていない 結論
とりあえず横浜市内区間については
車両が新型にはなったものの
それ以外は田舎を走るところなど
大して変化がない
だがそれがいい >>112
そうですね。
南武線は立体交差工事して高架化されて
走る場所が変わりましたが、
横浜線は複線化だけで変わらないですね。
踏切は道路が上がるか下がるかして
減らして線路の位置は変わりません。 鉄道を高架にするより道路を移設してオーバークロスかアンダークロスさせる方が
なにかと安上がりではないかな スロープ部分がネックになるよ
鉄道ほど勾配条件は厳しくないにしても、交差部までかなりの距離を要するので、
用地の確保が大変。 >>114 場所によりけりだな。鉄道の高架ないし地下化が早急には実現困難な所では、道路の方を移設して立体交差化するわけだし。
高架にすると、騒音や日照権の問題がつきまとう。 町田駅の下り最後尾で試験してるホームドア、開くの遅過ぎ。山手線並みにしろよ。 わずか10年のうちに民家で埋め尽くされるとは誰が想像し得たか 新横浜も鴨居も駅できる前は田んぼだらけ
菊名は50年前と駅前がほぼ不変 205系が登場した時は山手のお古103系を延々宛がわれ続けるのだろうと思ったが、
横浜博を機に一挙置き換わるとは思わなかった >>5
やっぱり茶色だったよね。
そんな記憶残ってたんだよね。
あれを見るとコーヒー牛乳飲みたくなったけど子供ゆえ禁止されてたの思い出した。 >>5
自分は72年生まれだが、
生まれた当時は茶色の電車しか走っていなかったのか。
車両の真ん中に有るポールが印象に残っている。
205の6ドア車両で復活したときは
懐かしかった。 国鉄末期かJR初期か忘れたけど
みかんのシール貼ってる電車あったね
なんか恥ずかしかった >>127
ミカンだけじゃなくグレープフルーツとかイチゴとかキウイフルーツとかも貼ってあったんだぜ 茶色の旧国、扉が片扉、床から天井にのびるつかまり棒
油で拭いた板床、消毒液の匂い、冷房なし、窓全開可、扇風機つき
橋本か小机で貨物列車と交換待ち 小田急には全開する窓有ったな。
2段上昇窓というのかな。 >>133
101系とか103系初期車とかの画像ググってみ。
気持ちいいくらい全開できてたのがわかるよ。
ちびっ子なら簡単に転落できるレベルだったなw >>135 旧型国電で窓全開できるかという話してるんだけど。
横浜線の73系、撮影は79年8月10日、二段窓だが全開にしているものはない。
他の旧型国電の写真も見たが、全開にしているものは見当たらなかった。
http://tsurikakedensha.blogspot.jp/2016/02/ >>136
おいおい>>135は>>133へのレスだよ
二段窓でも構造上無理ということはないって例だよ 103は方向幕のとこ以外は全開できたな
よくやってた >>140
× 雨
○ 風
あー 歳がバレちまうぜww