懐かしの横浜線 [無断転載禁止]©2ch.net
菊名まで八王子からC58が貨物列車牽いて入ってきて大口寄りの中線で折り返していた
線路際の能率進学教室の二階の窓から機関車が折り返すのが見えた >>20 そんな時代から受験対策学習塾なんかあったのか? >>21
日能研、発祥の地ですな
昭和28年開設だそうで 能開ゼミなんてのもあったな
横浜線沿線は塾の林立地帯なのかや >>13
自分は103が走っていて東急が
ステンレスなのを覚えている。
東急から乗り換えるとボロいなぁと
思った。東急は確か8500。
長津田での比較だが、
205でステンレスになって追いついて
E233で追い越したって感じだな。
東急はいまだに8500が現役。 >>28
8500もなあ。
置き換えの話は10年くらいされてるけど、
実際完了するのはあと10年はかかるだろうな。 でも8500はデビュー当時は綺麗でスマートでそれはそれはカッコいい電車だと思ってた この路線、40年位前までは貨物輸送収入がかなり多かったのでは?
戦車等、米軍関連の輸送があったし。貨物中心で旅客輸送は副業だったわけで。
南武線も同様だが。 >>31
40年前なんて普通に通勤通学客主体、米軍基地むけ貨物は朝鮮戦争頃でほぼ終了、ベトナム戦争当時はメインはトラックに置換済み
横浜線貨物が脚光を浴びたのは、八王子周辺の絹糸や絹織物を輸出してた戦前、戦後は安価で堅牢な化繊が広まり需要激減 昔の菊名は東急と国鉄の連絡通路に改札がなくて便利だった
噴水の横手の青空階段で東横線を跨いで、横浜線八王子方面の相対ホームには
線路の踏切渡って上がる
ホームの裏手には東横線に繋がる貨物線 菊名での東急←→国鉄の乗り換えでいつも感じてたのは電車の掃除の行届き・不行届きだね
なんでこんなに差があるんだろうって。 東急は窓ガラスの美しさが関東大手随一。
きっと丁寧に磨いていたのだろうな
旧形3000一党でも遜色無かった
翻って国鉄は新型も旧形もどっちもガラスが汚かった 3000形も72系も乗れるときにもっと乗って撮っておくべきだったな…(´・ω・`)
根岸線直通は磯子止まりでオイラの住んでいた矢部野までは来なかったんだよね >>39
大船行きの横浜線からの直通電車はいつから誕生したのでしょうか?
また、洋光台行きの横浜線からの直通電車はあったのでしょうか? 大船行きが登場したのは昭和60年3月14日の改正
洋光台行きは定期では1本もありませんでした。 自分の覚えている範囲では
桜木町行きも無かった。
生まれる前のことは知らんが、
根岸線直通は磯子行きから始まって
行き先が増えたはず。
一時期は横須賀線直通の逗子行きも有ったね。 >>42
そうです。
日中だけ毎時2本でトータル12本くらいだったかな 中山行きの中途半端さ
103系の時代になってもまだあった 小机始発が八王子方面のばっかてのが不満だった
東神奈川行きが寿司詰めなのに、反対方向はガラガラ もう一つの他線直通。
相模線直通ってディーゼル車時代にも有ったのかな?
八高線もディーゼル車だっから八王子での
ディーゼル車は珍しくないだろうけど。 相模線ってまだディーゼルじゃなかったのかびっくり
C11が砂利採り列車牽いてたのがDLになったのは知ってる なんで混んでる方向の列車数が少なくて、
反対方向が多いのかいつもふしぎだった 横浜線と言えば、103系の両先頭車が低運、全7両非冷房編成が俺の中で決定版。
昭和53年、54年頃だったかな、夜遅くに小机駅の八王子側退避線で留置される。 いや、決定版の編成は全ウグイス色だよ。
たしか初期番号がほとんど、7両とも山手線からの転入車だったはず。
他の両先頭が低運なのは、ウグイス&スカイブルー混色だからイマイチで、
両方ともクハが揃うのも少なかった。 混成カラーを狙って写真を撮ってたよ
周りからは変わり者と思われた ちなみに決定版の編成は、
八王子 クハ-モハ-モハ-サハ-モハ-モハ-クハ 東神奈川
全ウグイス色で非冷房だけど、この編成が来ると喜んだ。 昭和50年頃の八王子発なんて
日中はへたすりゃ30分近く空いたね。 昭和53年くらいなら東海道〜横須賀も大船区受け持ちは混色編成だらけだったろう。
当時の東神奈川区は京浜東北線も運用あったし(10両)ウグイスもたまに混入していた >>59 その頃の武蔵野線や常磐線取手以北であれば、日中40分位空くようなダイヤだったが。
横浜線の片倉、相原辺りはど田舎だった。 全線複線化と快速運転開始はどっちが早かったか
同時? 実は南武線も立川発はひどいもんだったんだよな。
平日の1215の次は1245だったのは記憶している。 立川は昼間に2本しかない時間帯があったのは覚えてる
区間運転の宝庫だったね 南武線は当時奥多摩からの貨物もあったから本数は制限されてたんじゃない?
立川機関区は跡形も無いけど… >>67
どっちも63.3なら同時です。ありがとうございます。
それまで日中は毎時5本で、全線複線化でいよいよ完全10分間隔かと思ったらまさかの快速設定に驚いたんだった、思い出した 86,87年片倉駅から近い大学(わかると思うけど)に通ってた(中退)
けど当時の片倉駅は何もなかったな。
駅の場所が変わる&複線化なる前に辞めたけど。
あそこの大学は当時はDQNが多かった。
ホームから生徒同士が揉めて1人をホームに落として
電車を止めたとか。(もちろん両人とも退学) >>54-58
東神奈川持ちがオールウグイス色で蒲田持ちが混色とか? >>69
自分も同じ大学通っていたかも。
いままた新しい校舎建設してるけど、昔はまともな食堂もなかったなぁ…なんて思いだしたり 昔は橋本-町田の神奈中バスがライバルだったというのも今となっては信じられん
よほど本数少なかったんだな 磯子駅は上下両方向に引き上げ線があるけど、横浜線直通列車はたいてい大船方の引き上げ線で折り返してたな >>72
武蔵野線と並んで全国版時刻表に全列車掲載の「国電区間」だからな。
もっともこれらに接続する中央線快速等の時刻がわからなかったから。
乗り継ぐときは余裕をとりすぎて・・・長時間の待ち合わせを
強いられる場面もあった、東京338のあの頃・・・。
大回り乗車の予定が最初から立てられるなんて今は便利な時代よのう。 東京338…
当時天王寺車掌区にいたが、何故か関東転入の103ドア上に残っていたのがあって
338…これなんやねん?と同僚が頭捻っていたこと思い出したがな バスは本数が多かったが遅かった
国鉄は本数少ないが速かった バスが急行運転したら面白かったのに
もろもろ互角になるでしょ 最近になって急行運転始めてるよね
地下鉄も
実は市電も戦時中に急行運転という停留所の間引きをしてた 十日市場が開業したときは
何だか分からんがワクワクしたのを覚えてる
町内会長さんみたいな人がチラシ配って回ってた
記念イベントは何をやってたっけなあ 十日市場駅が出来る前までは23系統が十日市場団地中央まで乗り入れてたな >>86
開業初日限定の硬券の入場券を買いに行ったのを覚えている。 開業と言えば、八王子みなみ野すらだいぶ前になっちゃったよな。 >>86
僅かな期間、十日市場に旧形国電が停まる光景が見られた 市バス41系統大口駅ー鴨居駅ってのがあったが
誰得もいいとこだった >>86
それと合わせて土建屋が建売住宅のチラシも
撒いていた
新駅の開業は地元にちょっとしたバブルを
招きますなあ 券売機は子供用のボタンに誤操作防止用のカバー付いてた時代。 指定された価格のしか買えない奴のことか
券面に子供料金の表示がないんだよな そもそも子供用は買えなかった記憶
硬貨が切符の額に達すると自動的にお釣りと共に出てくる
ボタンを押す動作というのがなかった 30円が青で
40円がオレンジだったのは覚えている。 相原あたりは八王子寄り以外は人里とは呼べない秘境レベル
夜になると見渡す限りの漆黒の闇、空は満天の星
蛍が舞っていた 近所のおばさん家が小机に家を建てたんだが、
そのおばさんが野中の一件家に越すのは嫌だと泣いてた。
で、1年くらいして電車で通ったけど、ほんとに野っぱらでびっくりした。 小机は駅北側は申し訳程度の平屋の県営住宅みたいのが数十軒固まって立ち並んで、小机城址の下に農家が数軒
それ以外は鶴見川まで見渡す限りの田んぼ
亀の甲橋まで田んぼ以外何もなかった
駅の南側は今より栄えていたしバスターミナルも機能していた 今では民家でびっしりのこの一帯が、昔はそんなに何もなかったなんて
俄に信じ難い 50年前と大差ないのは矢部駅周辺ぐらいか
相原ですらずいぶん開けた
菊名はホームこそ変わったが実は周辺風景はあまり変わっていない 結論
とりあえず横浜市内区間については
車両が新型にはなったものの
それ以外は田舎を走るところなど
大して変化がない
だがそれがいい >>112
そうですね。
南武線は立体交差工事して高架化されて
走る場所が変わりましたが、
横浜線は複線化だけで変わらないですね。
踏切は道路が上がるか下がるかして
減らして線路の位置は変わりません。 鉄道を高架にするより道路を移設してオーバークロスかアンダークロスさせる方が
なにかと安上がりではないかな スロープ部分がネックになるよ
鉄道ほど勾配条件は厳しくないにしても、交差部までかなりの距離を要するので、
用地の確保が大変。 >>114 場所によりけりだな。鉄道の高架ないし地下化が早急には実現困難な所では、道路の方を移設して立体交差化するわけだし。
高架にすると、騒音や日照権の問題がつきまとう。 町田駅の下り最後尾で試験してるホームドア、開くの遅過ぎ。山手線並みにしろよ。