なつかしの山陽電車 その2 [無断転載禁止]©2ch.net
関東人が山電の最大の謎だと思っている、「団急」幕は、こういう列車に使っていたのですかね。 図工の授業で神社仏閣のスケッチのため鶴林寺まで。
学校の最寄駅から山電で行ったのは覚えてるが、
下車したのが尾上の松か浜の宮かがはっきりしない。
駅からもかなり歩かされ、喉が渇いて水筒のお茶を
飲み干してしまったのだけは覚えてる。 139の最寄り駅が何処かも分からずして書くが、
マニア的には高砂で国鉄高砂線に乗り換えて鶴林寺駅、と考えてしまう
おそらく寺のスケッチなどどうでも良くなってると思うw 小学校の社会見学は高砂のキッコーマンだった。
山陽電車で荒井まで行ってそこから歩き。
ウチとこが山陽使ったのはそれだけで、神姫バスが定番だった。
神姫バスで遠足で車両が足りず、俺のクラスだけ他社の超豪華なバスに当たったことがある。 そういえば荒井駅近くに、社名そのままに「キッコーマン」という名の踏切があったね
なんかテキトー感満載なネーミング 山陽から四種踏切が消えたのは昭和55年頃かな
明石以西で所々に残ってた気がする 魚住あたりはひたすら一直線で周りに視界を遮るものがないから
四種でじゅうぶんと考えてたのかな 網干線沿線の住民なんだが、昔は日中に時々茶色い単行の電車が走り去っていった。
網干駅に資材とか運んでたと思う。
隠れキャラみたいで楽しかった。 無蓋スタイルの片運長物車がなつかしい
レール取り替え工事時に背中合わせでペアで走ってたらしいが
俺は東二見で見学時に見ただけ >>146
夏は田んぼで虫取りしながら行き交う電車を指差しては
次に来る形式を予想して遊んでたわ 考え事していて過走というのも大概だが、
取り繕うためにバックして後続車と正面衝突とは、
事実は小説より奇なりとでも言おうか。 逆走してる間の踏切はどうなってたんだろ
逆方向から電車が来た!?って、警報器は
ちゃんと作動しなかっただろうな >>150
1980年代までなら3000、2000、2300、2700、300、250、800と
7系列が存在してたから予想のし甲斐があったね
今は半分以下になっちゃった >>154
>>24のとおり、会社的には今の方が望ましい 3000も5000も、画一的に見えてファン心をくすぐるような変化が多数
製造時期による違い、後年の改造も 2300と2700は遠目では識別しにくいはず
台車が見えれば一目瞭然 2300系は2700系の機器更新車だからクリソツなのは当然です >>154
昔から15分サイクルだから2本に1本は
特急3000系になるという予測ができる
実も蓋も無いこと書いてスマン 90年発行のピク誌を眺めてる
ついこの前に感じるが、かろうじて2000が残っていたんだな
これが保育社私鉄の車両だと、小型車も残存 さらに古いカラーブックスになると、まだ300や800が現役で活躍中で、
グッゲンハイム邸を背景に走る300の横顔がカラーで載ってたりする。
就職で引っ越すときに鉄道関連の本は捨てようとしたが、CBだけは捨てずに残しておいて良かった 大手でもないのに山陽一社だけでカラーブックス一冊を割り当ててくれた保育社に感謝。 カラーブックス日本の私鉄
それの詳細版と言えそうな私鉄の車両
懐かしすぎる >>163
それを言うなら神鉄も相鉄も名古屋市営地下鉄も
規模や歴史がそれほど無いのに独立した一冊になってた。
コロタン文庫の私鉄全百科ともども
自分にとってのバイブル。 >>160
もう80年代に差し掛かると2000の特急代走は挑むべくもなかったかな >>165
編著はやはり亀井御大だったのかな?
というか御大を差し置いて他に居ないと思うわ 小川金治氏と山電車両部の共著。
とはいえ小川氏は交通カメラマンなので
本編解説文にはタッチしてないと思われ >>165
コロタン文庫、懐かしい。
会社の概説には、「東の相鉄・西の山陽と並び称されてる」、
とまで持ち上げられてたが、
相鉄との格差はその後拡がるばかり… 神戸高速乗り入れまでが華だった
そのあとは坂道を転がり落ちるが如く‥‥ >>154
同世代とみた
その顔触れの中では300系が一番思い出に残ってる
出足の悪さと、振動と、騒音。
ボディは綺麗だが足回りが貧弱過ぎ カルダン車とツリカケ車でそんなに違いを実感できたかな
何らかのバイアスがかかってただけでは? モーター音が大きいと目一杯走ってるな、という感覚にはなる そもそも山電にカルダン車というものは存在しない(乗り入れ車除く)
有るのは、WN駆動車というものだ。 >>178
WN駆動のわりにモーターが喧しいのが多いぞ >>179
WNの騒音源は主電動機じゃなくて駆動装置の共振だぜ 地上時代の板宿付近のゴチャゴチャした街並みが懐かしい
駄菓子屋と本屋がやたらと多かったのを覚えてる
地震で壊滅したんだっけな >>181
古い木造家屋ならひとたまりもなかっただろう
線路の南側に当時既に珍しかった貸本屋があって
藤子不二雄の初期の単行本(タイトル失念。「天使の〜」という言葉があったかも)なんかが借りられた。
踏切脇の小さな広場みたいな所で自転車に腰掛けながら読み耽ってた思い出がある 確かに、地上時代の板宿〜西代付近は味があった
西代で車窓から本社ビルを見ることで、山陽に入ったのを実感していた ちょっとスレチだが初めて山陽電鉄に興味持ったとき
ちょうど社会科の授業で古墳の岩宿遺跡を習ったばかりだった影響で
板宿を「いたじゅく」と覚えこんでしまった思い出がある おれは網干をつなぼしと思い込んで
友達に大笑われした つなぼしw
でもたとえ網を正しく読めても「み」を飛ばしては読めない
結局「あみぼし」と読んじゃうのが落ちだな 地上時代の西代駅で必死に神戸高速との分界点を探してた思い出 末期の西代駅はホーム屋根も無くなって
仮駅ムードが充満してたね
神戸方面側はベンチすら無くなってたかも 西代は、オンボロではないが異様に人気(ひとけ)がない駅の印象 >>118
俺のパソコンでは真っ先に算用電車と変換してくれるよw 今の本社ビルが、震災の約10年前に出来た
それ以前は記憶にないなぁ >>194
そういえば須磨浦公園が山陽全駅中で客数最下位になったのはいつ頃? >>195
>>197
本社は昔から西代にあるよ。
今の本社ビルと周辺は車庫跡地。 六甲駅行って来て当時を思い出した
とはいえあまりにも変わりすぎていて何も感慨湧かなかったけどな
今更だが御影までの折り返し線をノタリノタリと走る3000系をもう一度見てみたいと思った 決まり事とはいえ阪急三宮〜阪急六甲では空気輸送みたいなもの、且つ後続の邪魔にもなりかねないダイヤ、正直阪急側からしたら要らない子扱いだったんだろ
何かにつけて阪急から難癖つけられて撤退を模索していたというから山陽本社の決断の遅さが六甲事故を招いたとは言い過ぎか 事故の衝撃もさることながら
時間通りに動かすのが面倒だから安全スイッチを勝手に切ってしまう運転手がいるってことが
かなりのイメージダウンになったのは間違いない いやいや事故を起こせば十分すぎるくらいのダメージ。
かつて三河島・鶴見と連続で大事故を起こした国鉄は、
球団を手放さざるを得なくなるなど影響は本業以外分野に迄及んだ。 >>203
ノタリノタリでいうと阪急三宮・阪急春日野道の高架部分でも並行する国鉄103系の車窓からよく見かけた
鈍足で知られた103系が速く感じられた 阪急阪神との相互乗り入れ協定で、
相手先の線内ではすべて各停にするというルールにしたのが間違いだったな 神戸〜明石、姫路間そのものの競争では山陽、国鉄どっちが勝ってたの?
特にターミナルが兵庫だった頃は三宮や元町に行くのに市電や国鉄に乗り換える必要があるし 今までに一時期でも山陽が勝ってた時期があったのか? >>214
国電の走る前とか?
明石電化が1934年で姫路電化は1958年 >>208
駅間距離を考慮してる?
都市部の平均間隔は国鉄と私鉄では倍近く違う ありがとう、やっぱりそうだったのか
神戸は国鉄が繁華街を全部通ってるし、兵庫がターミナルじゃ不便だろうな >>213 時代によって差があるが、通勤電車の運転本数比較したらどうなるの?
総武線東京乗り入れ以前の京成と成田線千葉・成田間を比較するようなものだが。 鉄オタって、棲み分けがわかってないのかなあ?
所要時間で比較すれば、阪堺電軌なんて並行する南海線に完全に負けている。
それでも今日まで存続できたのは何故かと。国鉄が山陽電車並みにたくさんの駅を設けてきたのかねえ。 >>220 おまいらの言っている競争って、所要時間、速さだけの競争か? 皆が皆、神戸〜明石〜姫路の都市間利用じゃないしな
駅数の違いもあるし、明石〜姫路は両者が大きく離れるし
国鉄で都市型ダイヤは明石まで、その先はテキトーに走ってるという雰囲気だった 親が加古川出身だが加古川では昔から山陽は移動手段として認知されてないという話を聞いた
昔でさえこの様だからJRがスピードアップしたいまではますます影が薄まってるに違いなし 最近、斜陽だとは言え、明石から網干にかけての海沿いに新日鉄などの工場が多いわけだろ。
JR線からだと、これらの工場に通うのは不便。 加古川付近の住民にとって、高砂線って高砂市方面の工場に通勤するにしても、ほとんど利用価値のない路線だったんだろうなあ。
山陽電車とバスで十分。 新開地だったら兵庫駅からも神戸駅からも同じような距離だし、新開地が繁華街の時代だったら兵庫駅も案外悪くない位置かも >>224
別府地区、浜の宮地区は今も昔も山電一択。
明石で乗り換えて神戸まで行くのが定石
また、明石にはデパートはなかったが
商店街や食堂街が盛況でそれなりに遊べる場所ではあった
いまの魚の棚なんか観光向けにリニューアルされた造りもので
昭和50年代までは本当にサンダル履きで出掛けられる近所の「市場」的雰囲気があったんだがなあ 山陽かJRかではなくて、クルマバイクが主流なの!
新国道は混まないし快適 土曜の昼下がり、本荘から明石まで普通に乗って眼医者に通ってた
客はガラガラ、途中駅でも客の乗り降りがゼロのこともあった
車内放送は駅名のアナウンスだけで昨今のように企画の宣伝や禁止事項の煩さは皆無
夏は窓を大きく開けて風に当たってたがたまに虫が飛び込んできたりもした
のんびりした昭和55年頃の光景 車内放送なんかやっとったか?
3000系特急はあった
車掌が停車駅を読み上げるのに憧れてた 明石以西は国鉄と離れてるから地元客を独占してると思ってたが違うのか