懐かしき列車のお便所 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>303
鉄ピク2011年6月号(849号)「列車トイレ」の53ページにスハ43形の流し管が内側に曲がっているが
この写真ではもろにレール上に落ち、車輪が巻き込んでしまうなと思った。 汚物を車輪に踏み潰させて、拡散で自然浄化させようと考えたのかもしれない。 ノロウイルスに感染した乗客が列車の垂れ流しトイレ使ったら踏切待ちの通行人にうつりそうだな それまではよくわからなかっただけであったでしょ。
話はずれるが、PM2.5だって話題になる前から飛んでただろうし、高度経済成長期には日本でも出しまくってたはず。 理想品と信じて普及したものがある日突然猛毒扱いとか、いくらでもあるわな
アスベスト、PCB、毒ではないがフロンとか
今後も、どんな事実が判明するか解らない
排泄物も、未解明の部分が多い そもそも、畑に人糞撒いて食料を生産していた時代に、そんなこと気にしても… >>310
80年頃から急性胃腸炎を伴う食中毒と認知されて、当時は原因不明だった。まだ日本では症例少なかったよ。
その頃はビブリオ、ブドウ球菌、サルモネラが細菌性食中毒トップ3。
後に遺伝子検査が確立して、やっとノロウイルスに原因決定。 ノロウイルスなんて名前がついて、のろさんは気の毒だった。 TOTOととべんき
TOTOととべんき
なが〜せなが〜せ
なが〜せなが〜せ 和式便器を金隠しという世代はかなり高年齢だと思う。 つボイノリオが好きな列車便所
つボイノリオが恨んでる食堂車 >>315
いすみ鉄道乗りに行った時、野呂PAで休憩した。
そしていすみ市では、ひありを発見した。 ブリブリブリブリュリュリュリュリュリュ!!!!!!ブツチチブブブチチチチブリリイリブブブブゥゥゥゥッッッ!!!!!!! 昭和19年、戦局はいよいよ深刻の様相を呈し、物資は欠乏し、大きな松の木に傷をつけて松脂を取り、ガソリンの代用にした時代。ガソリンの不足でバスも走れない。
男子は赤紙一枚の召集令状で戦地へ行く。
東京都庁の清掃事業は人手不足とガソリン節約のため、全く停頓してしまった。
当時は糞尿の汲み取りが難しく、どこの家庭でも便所の壺は満糞。
糞尿を取りにきてくれないので家庭争議が起ったりした。
朝になると奥さんが、
『あなた、またお使いになりましたね、困りますよ。家の便所は私と子供に空けといて下さいよ。』
と言う。
主人の方は、
『そんなことを言ったって、出るものは仕方がないじやないか。』
と抗弁しても、
『だから、もっと早く起きて会社へいってからおやりあそばせよ。』
と一蹴される。
主人の方は仕方なく、脇腹を押さえてかけつける会社のトイレがこれまた満員の盛況であった。
今でこそ笑い話になるが、当時としては全く真剣そのもの、お互いに脂汗を流してうろつき廻った深刻な問題であった。
それまで都内の糞尿はトラックに積んで河岸へ運び出し、船に積みかえて東京湾の外へ捨てていた。
処がだんだん油がなくなって、糞尿船が沖へ出られず、近間近間で流すようになったので、浅草苔の色が黄金色になって、糞尿の匂いがプンとしてどうにもならぬ。 海中ヘ捨てた糞を魚が喜んで食う。その魚をまた人間が食う。魚の腹を通じて人間の腹に還元してくる。
真に不衛生極まるものであった。 東京都の首長である大達都長官は、明けても暮れても糞尿の苦情を持ち込まれて施す術がなかった。
昭和19年2月のこと、大達長官もホトホト閉口して、何とか良い処理法はないものかと考えた。
その頃農村は食糧増産を要請されながらも、肥料不足で困っていた。
もしこれを東京近郊の農村に輸送できたら、食糧増産に役立つし、また糞尿問題も解決する。
そうだと考えついた長官は
『だが、一体これを誰が引き受けてくれるだろう。根本問題はそれだ。』
と思案の末、親友の堤、つまり私に相談しようと決心した。
『ぜひ頼みたいことがある。』
と言う前触れで私のところへやって来た。大達君とは親しい間柄だが、何だろうと思っていたら、
『堤さん、一つ助けてくれ。』
と言う。
『一体何ですか。』
と反問すると、大達君は、
『今、私の頭の中は糞で一杯だ。朝から晩まで寝ても糞、覚めても糞、糞のことばかり
考えているのだ。もうどうにもならなくなった。ぜひ助けて下さい。頼みますよ。』
東京都民の糞尿処理問題の行き詰りについては、かねてから聞いていたので、この”助けて
くれ”もよくわかる。
『ほう、そんなに切迫しましたか。』
『笑いごとではないのです。もう一刻も猶予ならぬ。東家中が糞尿攻めの形です。
毎日、四方八方から苦情がきて、他の仕事は何一つ手が付かない。
堤さん、あなたを見込んで頼みにきたのだが、この際ぜひ一つ何とかしてもらえないでしようか。』
と言う。
何しろ問題のモノがモノなので、大達君も当惑しきった顔に、一層真剣な顔を二重写しにする。 昭和19年2月11日念願の黄金電車は走り出した。
昭和19年2月11日、大達都長官から病床の私に話が持ち込まれ、僅か半年後の9月10日夜、まだタンク車の完成を見ないうちに、普通貨車による臨時運転が始められるという超スピードぶりで、念願の黄金電車は走り出した。
11月21日、井荻駅において糞尿輸送開始祝賀会がは華々しく挙行された。
井荻駅の大きな肥溜の上へ真里列車を着けて、合図と同時にバルブを開けたら、ダーツという物々しい大音響とともに、黄金の奔流が迸り出て、見るもすさまじい壮観さであった。参列者は一斉にアッと叫んだ 東京都の懇請を引き受けて、特別仕立ての糞尿列車を走らせたのはよいが、かねて用意した沿線数10ヵ所の肥溜が、毎日2万石の輸送能力に押されて、たちまちどこもかしこも一杯になってしまった。
今度はこちらが悲鳴を上げるようになった。よくよく人を悩ますイチモツである。
さあ、ことだ! 井荻以西、西武鉄道(西武新宿線)、武蔵野鉄道(西武池袋線)の駅と言う駅が、全て恐ろしい糞尿攻めとなった。 社員も困るし、乗降客にも”芳香”を強制する。口の悪いのが”西武汚穢電車”などと言い出す。
私は、毎日2万石の糞尿を都心から郊外に運べば、東京都民にも感謝された上、沿線農家からも喜ばれると思った。
肥料不足の折から農業をしている人々が、駅ごとの肥溜へ殺到するに違いないと考えていた。
処が当て事はよく外れるものである。手不足の上に、金肥になれた農家は、喧しく触れ歩いても中々汲み取りにきてくれない。これには困った。
都民の家庭の糞づまりは解消したが、西武の各駅は糞づまりとなった。
都民の黄金水は、出すことも遅ぶことも一日として休まないから、西武各駅のストックは増える一方であった。
因果はめぐる肥車の廻り廻って、今度はこちらが『助けてくれ。』といい出した。
私は困惑したが、さらに奮起一番、『糞!負けるものか。』とばかりに益々闘魂をたぎらせて汲み取りにかかった。
当時、保線区で模範社員と言われた板橋君以下数名が、
『こんな糞尿仕事のような成り下った仕事をやらせられては、先祖に対して申訳がない。』といって辞表を出してきた。
そこで私は『糞尿のような仕事と言うが、己は汚なくなって人を綺麗にすることで、これくらい高尚な尊い仕事はない。』
と懇々と説いた。
私自身はもとより、家内も娘も家庭見習の女の子も総動員で、毎日毎日真剣に各駅の糞尿溜から汲出しにかかった。
社員も非番の者は皆奉仕に出かけてくれて、相当遠方の桑畑まで糞尿を棄てに行った。
初めのうちは農家も喜んだ。
あまりやりすぎて桑が枯れそうになった農家が出てきて、こんなにたくさんやっては枯れてしまうじやないかと奴鳴る。
いかにも尤もな苦情である。 便器の外にウンコする奴たくさん居たね、揺れるから目標定まらないのか 昭和末期、特急しらさぎに乗ったときのこと。
自由席は超満員で福井まで立たされっぱなしw
便所に行ったらタンク式の和式だった。
薬液が茶色ににごってたなww明らかにキャパオーバー >>25
超遅レスだが
御料車関係は1996年に新1号編成がお召整備の際、御料車・供奉車のトイレを
小型の汚物処理式に改修した。
それまではクロ157-1をも含む皇室車両は直管垂れ流し式だった。
ただ車両が車両だけに使用実績はほとんどなかったんじゃないかな?
運用中も同行する宮内庁・警察関係・鉄道職員・同行記者も乗車前に発駅で
大小全て出し切り列車では用を足さないよう暗黙の何かがあったような気がする。
さすがにE655-1は最新式になってるがw おっと
>>130 に同じ事書き込みがあったw
1996年10月の両毛線お召の時自分も走行中形式写真やった時
帰りの逆光で汚物処理タンクから出てる処理菅排出口が金色に
輝いてるのを覚えているわw
垂れ流し仕様は1982年の日光線で確認した。 ブリブリブリブリブリブリブリブリッ
ブリブリッ
プスーン 知っているか?。旧客オハ35系未改修車の一部は、
便器と水配管がむき出しで、便器両側に足載せ台
があった。
便器の形状も今のと違って、流し管への穴が大穴
だった。子供が見たらマジ怖がる便所であった。
汚れやすいという理由から、床が付いて汽車便
になったのは、スハ43系あたりから。 >>346
大穴の金隠しだったら。子供どころか大人でも怖い。
汲み取り便所の大穴も怖いね。 >>346
垂れ流しスレの496から借りてきた戦前の列車便所の図面
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1366111669/496
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1059343/87
本の頭のほうにスハ32800か33000らしき丸屋根三等車の写真があるので、その頃のものだろう
穴自体は地上の半穴便所くらいだろうけど、深いな >>348 おぉっ。346ですが貴重な資料wをサンクスです。
1980年頃に乗った客車で時々見かけたのが、正にこん
な構造でした。便器本体は金隠しも穴も角形だったの
で、幾つかの仕様があったものと思われます。
↓停車中に多分、小便中。当時の駅でよく見かけた光景。
http://pcdc.cho88.com/HP/ha2/58r0532.JPG 上野駅の行き止まりホームには昔うんこがたくさん落ちていた。
でもあまり臭くなかった覚えがある。
鉄に消臭効果があることを後で知った。 木製枕木に防腐剤で塗られていたクレオソートにも消臭効果があったかもしれない。 和式の金隠しもあと数年するとなくなってしまう気がする。 金○を隠すためにあるのかと思います。
インドの列車のトイレにはなかった。
しゃがむタイプだったけど。 >>362
便器の形状をスリッパに例えると足先を突っ込んで足の上に来る膨らんだ部分の事。
真正面から便器見ると膨らんだ部分により金ω
が隠れて見えないのでそう呼ばれる。 平安時代の貴族が使った木製の便器にも、金隠しみたいのがあったけど、
あれは用を足すとき衣の裾をかけるためだと聞いたことがある。 昔、東京神保町に金玉堂っていう画材など売る店があった。
女性は入りずらかったのではないかと思う。 今でも便所の小窓からみた景色覚えていることが1つだけある。それは上野発12時33分発はつかり7号が二本松~南福島間を走行していて上り線が離れていったところ。そこの間を走行中にトイレいったことが38年たっても記憶にある。 子供の頃新快速153系でトイレに入ると、暗く黄色い照明が何とも印象的。用を済まして流そうと足で押すと故障していたのか物凄い勢いで水が飛び散り、体中びしょびしょに。
大人になって元サロ153のサロ111に乗ると、あの黄色い照明が。トラウマで流せなかった。懐かしい。 循環式トイレのあのウンコ色の洗浄液が懐かしい。
よく匂いが残らないもんだと感心した。 昔の薄暗く黄色い照明の列車トイレで用を足している時にトンネルに入りますます薄暗くなりそして騒音も大きくなり怖くなった子供の頃そして一時列車トイレがトラウマになった事が有った。 >>373
今の清潔な列車のお便所と比べると隔世の感があるね。 >>245
東北・高崎線系統は211系(もちろんタンク式)が入ることが決まった少し前から115系にもタンクがつけられ初めて行った感じだったな。
>>248
ところがどっこいJR九州エリアのDCのトイレでは何気に復活しているんだよな、何でも長時間停車の際に
発電エンジン止めるとかで、洗浄装置、汚物処理装置が動かなくなるとかの理由だったはず。
>>310
そんなもの大昔からいたよ、昔は衛生状態が悪かった分、免疫力が今よりずっとあったから
発症しにくかったが、昨今の清潔志向で免疫力が落ちて逆に発症しやすくなってしまった。
アレルギー・アトピーが増えてきたのと同じ理由だとか >>375
JR九州の香椎線で以前運用されていたキハ47のトイレのドアの所にその記載のステッカーが貼られていた。 循環式なら洗浄出来ないだけで特に支障はなさそうだが。 >>378
男性の小便だけだったら良いが紙を使ったり大の時は… 以前乗った飛行機で大変なことになったことがあった。
お食事中の人は要注意なこと。 廃棄物処理の法律が出来て、垂れ流し式は法律違反で全面禁止になった >>393
三江線宇都井駅のトイレが所謂ボットン便所だった
1975年開業にしては、時代遅れな設備だよね? 垂れ流し便所と汲み取り便所を混同してる。
これも時代の趨勢か… >>395
現在の列車や飛行機の便所はある意味汲み取り便所だね。 汲み取るって動作とは違うから個人的には違うと言いたい
もちろん言いたいことは分かってる 知天命超えのオッサンだが肥柄杓と肥桶を使った汲み取りなんぞ見た事無いぞ。 昔はそうやって回収しに来ていたみたいだけどね。今は見られない光景だね。 バキュームカー出現前は樽や四角い桶を積んだトラックでし尿を汲んでいて
作業時は道路から渡り板をトラックの荷台へ架けて肥桶担いで運んでたんだよ >>400
バキューム・カーは画期的な車だったんだな。
もっとも、回収してきた屎尿を処理する施設も必要だったんでしょうが。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています