C62・C59を語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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国鉄最大の旅客用蒸気機関車C62と最後のパシフィック形C59を主に語るスレ
そのほかC59改造機のC60、C62と同じくD→C改造のC61のことについても >>82
お前の大好きなDF50は単機でC59〜C62、D51、D52を置き換えたのか?
非力だから電化もしくはDD51の登場を待つしか無かったんだろ?
似たようなものだと? 片腹痛いわ ディーゼルがお好きな方は置いておいて、C59が大量余剰になるのは目に見えたのだから、
もっとたくさんC60にしておけばどうなってただろうね、ってだけの話だったんですがねぇ。
九州はC59ではなく昭和31年の時点でC60投入だったのだろうか。C62も渡道してなかったかもね。
余剰廃車になったC59がC60として生き延びていたら、C51やC55の寿命が短くなったのだろうから、
そう思うと、何ともかも知れない。 >>87
>九州はC59ではなく昭和31年の時点でC60投入だったのだろうか。
鹿児島線北部と東北線南部は軌道強化してC59のまま転用した史実が正解でしょう
>C62も渡道してなかったかもね。
手焚きのD51で通標授受とで助士2名乗務の解消が目的の一つだからストーカー付きでないと無理ぽです C61は33両しかなかったから他にも活躍できた路線があっても回せなかったのかな、だがC57は細身に見えるが結構パワーがあったんだな、客車に乗っても力強さを感じた。C61でなくても十分だった >>89
前段
C61の不足を改造C60がある意味おぎなった訳です
後段
C61は時速20km以下ではC57にやや劣りますが30km以上なら三割増しで圧勝します 東北や九州の客車急行を400t台まで編成増強、さらに特急運転開始にはC61の功績もあるしな C59並の性能を乙線で実現できたのが最大のメリット
燃えん炭と罵られた低品質石炭でもそれなりに走ってくれたのも、当時の助士にとっては砂漠に雨だったろう。 そしてC62は国鉄復興の象徴だった。
生い立ちは戦争の影を引いていたものの、それを感じさせない姿形。
紛れもなく時代を引っ張っていた。
物心ついた時は既に衰退期だったけど。 播但線でC61を使っていれば生野越えや三重連も見ることが出来たか、それなら行く回数増えていた。 関西でC61使うのであればむしろ関西本線とか草津線とかが向いてると思うの >>91
加えて言えばつばめ・はとを最大13両・550t牽引を可能としたのはC62の功績な気がする。
名古屋電化以降のC62つばめ・はとの写真を見たら大概13両編成となってるのが多い。
所定11両編成にスハ44が2両、もしくはスハ44が1両とスイ38を1両増結してるのだろう。
>>95
関西本線はC61の元になったD51の天下だったからね。 関西本線の旅客は早く無煙化されたからウチらの世代が興味持つ頃は無いだろうな。山陰本線でも使えたか、京都から浜田へのロングランなんてあったし。余部の鉄橋を走れば絵になる ここの諸兄様方は今おん歳70位でいらっしゃるのか?自分は昭和42年生まれだけど、筑豊の96やD60の気配が幼児の記憶として微かにあるだけです。 >>98
したように見える?
転用といってもボイラと一部共通機器ぐらい。 >>100
大半は後にボイラーも新品に替えた。
>>99
自分は1966生まれ。
親の実家の関係で米沢の96とC11は覚えている。
後、山形で新庄のC5768か170を見たかな? 昭和42年生まれでD60や9600覚えているなんて凄いね。私は昭和32年生まれで筑豊には昭和47年に行った。2〜3歳の頃に山陽本線の列車を見てる、状況から見てほぼC62に間違いない >>98
D→C改造の背景はC57とC59の足回りとテンダーは造れたけどボイラーが造れなかったので
遊休のD51とD52からボイラーを巻き上げたわけです
昭和22年度に試作各1両、23年度にそれぞれ32両、48両量産し
24年度もC61を20両程度、C62を50両程度造りたかったけど
ドッジ緊縮財政の発動でストップされたわけです >>103
そうなってたらC60の登場も早まって、東北・常磐線の上野口は完全にハドソンに置き換わっていたかも。 >>104
そうなるとC51、54が昭和35年頃、C55が43年頃に全廃になってたかも。
更にSL最終旅客列車もC60か61牽引になっていただろうな。 >>105
さすがにそこまでは無理じゃないか?
無煙化完了が昭和50年度のままなら、C60・C61が北海道に行ったとして、昭和48年度中にC62もろとも引退かと。
無煙化計画が後ろ倒しになったとしても、客釜で最後までの 最後まで残るのはC57でしょ。
それにしてもC59・C60の話題少ない。 重油専用機のC59127は期待通りの結果は得られなかったのか。 C60はC59と同じ日、昭和45年9月30日に使命を終えた。呉線はC59が安芸を牽いて最後を飾ったが鹿児島本線ではさよなら列車はC6133だった。 >>108
C62並みの性能は出たが1両しか無いため乗務員と運用が限定された
同一仕様が20両もあれば活用されたのでわ C59127は重油満タンで石炭より走れたのか?テンダー長いからかなり積めただろうが、最後は盛岡で使われたというが結局すぐ解体された。 >>111
C59127の重油タンクは容量6,500リットル
重油1リットルの発熱量は上質炭の約1.5倍だから約10トン相当
石炭焚きC59の搭載量と同じだから航続距離も同等と見て良いでしょう あと蒸気噴射式「消煙装置」。
C5979とC6240に取り付けられ、成績良好だったという。
他にも取り付けられたというが、1955年頃、名古屋にいたC5916のキャブ下にそれらしき物体がついている写真が蒸気機関車EXのC59・C62特集にあった。
また、ファン誌1970年10月号のC59特集にも、名古屋区形湾曲ステーの戦前形が同様の装置を付けて急行瀬戸を牽く写真があった。 呉線の三両のC59はよく最後まで残ったな、164は電化前に検査期限を迎えたが。梅小路で現役時代を知ってる唯一のカマ、タイミングが悪く走行中の写真を写せなかった 調子がよかったのか検査に余裕あったか知らんが本やネット上に出ている呉線末期の写真見ると162号機が多い印象 C62山陽組の傷みがひどくて、これじゃC59や常磐組の方がましという事だったんだろう。
C59を延命させるつもりで改造したC60が、C59と同時に全廃とは何たる皮肉。
逆に言えば、糸崎の3両が土俵際でC62をうっちゃったからだろうけど。 ストーカー未装備で、燃焼室設置のC59101号機〜って80キロくらいで走行
してたのかな? 【BS11:紀行・教養】 <尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究>放送時間:毎週水曜日 よる8時00分〜8時54分 #bs11 http://www.bs11.jp/education/post-74/ C62の登場で命運尽きたC53、テンダーだけでも再用できなかったのだろうか?さすがにストーカー取り付けは無理だろうから、D51-1000あたりに転用して、それをストーカー付きにしてC61に回す・・・・とか >>117
東海道時代、不定期特急さくらをC62とほぼ同じ所要時間で牽いてますたよ。
編成は所定9両だけど、昭和31年1月12日にC59115が外人団体用らしきマイテ39とスイ38を増結した11両牽いて山科の坂を上る姿を故高橋弘氏が撮影している。(松本謙一『C59』収録)
偶然にも当日の編成記録が鉄道ファン誌1977年6月号に記載されていて、食堂車はマシ29 2。
ス級9両にマ級2両の定数45に対し、C59の特急最大定数は48。C62のつばめ・はととほぼ同等に走れた。
さくらを牽く姿の写真が多いのは、下りが名古屋のC5916と110。上りは宮原のC599・74・115・124。
戦前形も普通に牽いてます。 >>119
確か、一部が糖蜜輸送用タキに改造転用。 連投すまぬ
C5321のテンダはC51236に流用された。
戦後の混乱期だったから、他のC51やD50に流用されたものもあるかも。
C53の中には水槽容量がより大きいD50とテンダ振替をした機があるから、あるいはD50に出戻っていったテンダがあるかも。 >>119
ロングランする特急急行牽引機にくっ付けてダブルテンダーにして給水停車を少なくするとか >>119
あるいは大操車場の入換専用機に付けてホース繋がない貨車列の制動距離短くするとか >>124
ミキ20(旧燕用水槽車)やC62の廃車テンダを使ってたという長町のアレですか そーですそーです
んでC62の廃車テンダはC61に譲るとか いえいえ、複雑怪奇な玉突き転用の挙句、8620や9600のテンダーが大型化し、さらには6760とか8850とかB50のテンダーが・・・・・ C51の「燕」水槽車の話は、まだまだ各主要駅の給水設備が整ってなかった時代なんじゃないかな?ホーム末端に給水が無かったら、機関車交換いがい方法がなかっただろ、そこで給水車、でもすぐ滅びたのも「地上インフラ整備」のおかげだとおもうけどなぁ
・・・しかしますますC59からはなれていってるか? ミキ20の型式名称の由来は神社のお神酒から。
マメ知識な。 そのミキ20は晩年東北にいたから、C60・C61と顔合わせしていたかもね。
C59といえば、昭和35年に福島まで電化されてからも1年あまり、白河に3・110・190がいた。 >>128
主要駅の給水設備などそれこそ開通時から有りましたがな
昔はテンダーが小型だから航続距離も短かったわけだし
あと「燕」の水槽車は長距離無停車運転のためで色んな本に書いてあります 水運車は、確保できる水量が足らなかったり、水質が蒸機に合わなかったりと水の条件が悪い駐泊所などに水を届けるためではなかった?
基本的には廃車された機関車のテンダ改造だったが、戦後ミム100が新造。
2代目かもめは当初岡山〜広島間ノンストップ。
福山と尾道が停車駅に名乗り上げて収拾がつかず、国鉄がキレて両成敗にしたが、冬場はC59でもギリギリだったので、仕方なく福山にD50?のテンダを使った給水設備をあつらえたとか。 >>130・131
なるほど、勉強になりました ありがとうございます >>132
福山って急行停車駅でしょ?
給水設備無かったんですかね? >>134
恐らく、機関区がある糸崎で給水してた。 >>136
当時のかもめは、お召し列車を除けばつばめ・はとに次ぐランク3位の列車で、大阪以西ならNo.1の最重要かつ最速の列車。
事故でもないのに、本来停まらない駅で給水なんかしたら、機関士たちはおろか、カマ所属の区長の責任が問われる。
そんな調子悪いカマを特急にあてたのかと総裁から大目玉喰らう。 いや福山も本来の停車駅ではないし
缶水欠乏でヘソ溶かすよか良くね? あと福山と尾道の勝負は尾道が勝ち給水設備が設けられ
機関車もC62に代わったとF誌宇田賢吉氏記事に有ったので
>>132の後段はいずれにせよ誤り >>130
電化後も残ったのは臨時列車用
当時はELに夏冬多客時の臨客にまわすだけのゆとりがなかった
熊本に残った最後のC60も同様に臨客用 >>138
いやもう過去の事だから。
実際に特急でへそ溶かしあったかは不明。
昭和20〜30年代、特急の機関士はお召し列車運転できる技量だったから、いぶし銀の腕で間に合わせてたんだろう。
>>140
ED71は当初絶縁油ぶちまけたり等、初期トラブルも多かったというし、山形国体お召しも大事とって重連で牽いてたから、黒磯側の予備機という意味もあったのだろう。 いきなり話が飛びますなあ、C59.C62撮影のメッカだった所だが今はどうなっているか? >>142
駅長だった庄田氏は呉線電化から約10年で亡くなってたんだな
(この前部屋整理して出たF誌の81年9月号読んでたら訃報が載ってた) 呉線に限らずSLが走っていた頃の面影が残っている場所はほとんど無いだろう。田畑は住宅地に、単線が複線に、踏切が高架になったりしてるだろうな。大和ミュージアムに行くことあれば乗るがいつになるやら それこそ震災前の常磐線北部はまだC62が来そうなムード残ってたんだけどね C60が梅小路入りしなかったのはバークシャーが選ばれなかったのと同じ理由か、オリジナルがあるからいらないということか。仙台に残したのは子供の投書が発端らしいね 最初の候補絞込みのときは鷹司平通氏がD52でなくD62を強硬に推薦してたらしい 撮影地といえばC62なんかを山崎で記録した写真はあまりないんだよな。
山科はかなり見かけるが、やはり昔は望遠レンズで
アウトカーブから狙う習慣がなかったからか。 当時は一眼レフが少なかったからね
主力はブローニー版の二眼レフやセミ版の距離計連動式だったでしょ >>149
仙台のC60といえば常磐線と仙台以北というイメージが強いが、C59が福島・仙台入りするまでは、C51やC57に混じって急行青葉なども牽いていた事。 そういえば電化区間でもあったしな。
でも優等はカーブ後に阪急に抜かれるのに備えて
ダッシュした話もあるから記録がないのは惜しいな。 西尾かつさぶろう氏が戦前にライカで燕と新京坂の競争を連続数駒撮ってた C62の頃は高槻から山崎越えて長岡京手前まで併走姿が見れたんだよな。
東海道線は山崎のカーブがあったので、そこからが勝負だったそうだね。 >>160 国鉄の方が線形良く駅間距離も長いし、
新京阪よりも名鉄との並走区間の方が、国鉄の列車にとってスピード競争で有利なんでは? 地図で比較すればわかるよ。
阪急(新京阪):大山崎、長岡天神間と、JR(国鉄):山崎、長岡京間がほぼ同じ位の距離で、線形も似たような感じ。
当時、阪急の西山天王山駅はなかったから、両者とも中間駅なし。
名鉄:名鉄一宮、黒田間と、JR(国鉄):尾張一宮、木曽川間がほぼ同じくらいの距離。
線形は似たようなものだが国鉄は中間駅がないのに対し、名鉄は現在でも中間駅が3つ(新木曽川、石刀、今伊勢)もある。
名鉄は一宮の南で大きくカーブするし。
中間駅が多く、加減速の繰り返しが多いのであれば、高速度を犠牲にしても加速度重視の車両を導入するだろうから、「電車の格」なんてものによる単純比較はできない。
要するに、名鉄は高速度走行にあまり向いていない路線ということだ。 山崎では両者クロスするというのがまたいいね。
省線は大カーブ連続、新京阪もカーブして登りなんだから
運転してる側も意識するなというのは無理だろうな。
優等は高槻出て併走を確認したら蒸気控えて身構えたそうだし。 逆を言えば、C51から157系まで相手にし、長生きしたP-6と、お守りしてきた新京阪・阪急の技術が実に大したものかがわかった。 >>156-157
西尾氏が昭和10年にP-6から上り燕の併走を撮った写真は
C5343の流線型が確認できるけど最後はP-6が振り切られてる(展望車が遠くへ去っていく) C53の助手も張り切ったんだろうなw
そういえばC59のなんかの試験で内側線を走る
急電をぶち抜いた話もあったな。 C59 1の落成試験で104km/hを出したときだね >>168
C59は当初テンダとの連結が硬すぎたのか、高速で石炭がキャブになだれ込んできたようだが、初号機たる1はどうだったのだろう。
昭和16年5月完成のC59 1は灯火管制フード無しで引き渡されたようだが、8月完成の川車製初号機のC59 11はフード付の完成写真がある。
7月にはアメリカが日本の資産凍結に踏み切ったから、当局も対米戦不可避と覚悟したからか。 >>169
F誌高田隆雄氏記事
「C59の炭水車は、当初基本形の摩擦緩衝バネをとりつけたので、とくに後続車両への影響が大きかった。
その後、他形式と同じように柔らかいコイルバネに変更されたので、前後動の
影響はよほど緩和されたと思う。」
> 川車製初号機のC59 11は
あれって灯火管制フードなのか?
ひさし型のじゃなくて?
ひさし型が広まったのは空襲の可能性が高まった19年以降だけどね >>170
昭和14年に宮原構内で撮影のC5389の写真でも前灯にC5911と似たフィルター状の、
標識灯には筒を斜めに切った形の覆いをつけてるんでたぶん初期の管制覆いなんでしょう >>171
なるほどー
調べたら西尾氏が昭和17年10月に撮ったC59 52も同じような前灯と標識灯を付けてた
前灯前面はルーバーに成ってるみたい オロ40 10(当時はスロ31129か)を従えたC59 1試運転は、ナンバープレートがプレス鋼板である事以外はカマも平時仕様で、添乗者の様子も含めてまだのどかさが漂っていたが、有名なC59 52の写真になると、大幹線の花形機関車にも関わらず、車体の煤けが目立ってきた。
そして終戦直後だという沼津の扇形庫にC53 93や2271と並ぶC59 35の汚いこと‥‥。 西尾克三郎氏は形式写真が多く走行は少ない
乾板式カメラではそうなるか。主な撮影地の宮原機関区が始めどこにあるかわからなかった。今の新大阪だと知ったのはずっと後 走行写真だとSSの問題があるからなぁ
30、40年前の鉄道雑誌でも完全に止めきれなくて被写体ぶれしている写真も少なくないし >>175
C51、C53の列車や流電なり関西私鉄は勿論上京する際に撮った車窓に
板谷峠や北海道とか走行やスナップ写真でも結構すごいの残してるもんな 写真集出した時の鉄道ファンのインタビュー思い出した。新聞記者もやってたとのこと、同僚が沢山撮ったのに西尾氏のワンショットが採用されたとある。記憶が曖昧だが そりゃ40年前は基本のポジが感度64から160程度で
バケペンでも1/1000だからな。 西尾克三郎、黒岩保美両氏の写真は鉄道雑誌を賑わせてくれた。原京一氏の写真も気に入ってたが本人は故人、早過ぎるよ C60はもっと増備する予定だったらしいが評価が良くないとのことで打ち切られたというが東北、長崎、鹿児島以外のどこで使うつもりだったのか >>182
確か奥羽、羽越、北陸、関西本線辺りにも入れる計画だった
(奥羽本線については秋田以北で一時入ったしC62の仙台配置で玉突き転用も検討したが) >>182
小樽〜旭川間とか向いてたんじゃね?
札幌近郊の通勤列車が重くなってC57では牽けなくてD51が牽いてたから >>182
零戦と雷電みたいなもので、C57を基準にしたら大抵のカマは評判良くない。
敢えていえばC55くらいしかない。
北海道なら海線でも良かったし、山線でも入れたのでは? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています