>>357  続く
人間には様々な人有り、その恐ろしいママさんも、全体の7割で、残りの3割は「まあ可愛いぼうや、それに奇麗な奥様じゃないの、あなたは
今日は、もう帰りなさいよ・・・」と、母に協力して一緒になって、父を店から締め出してくれる、気風のいいママさんだった。
そんな常識人の人生の達人のママさんが3割くらいは居た。同様に昭和初期の大学生は、精鋭中の精鋭であったと、思われる、
全国選抜の少数精鋭の大学生達であったからだ。
特に、法政大学・学生とは、堂々の航空王国日本の若者の、きわめて真面目な学生だった。おそらく我が父の様な酒飲みは、全体の5%程度
であり、残りの95パーセントは、哲学書を片手に出撃していくような、旧制高等学校から入学の法政大学・堂々の学徒であったと思われる。

航空の法政大学
昭和5年、朝日新聞の後援で、財団法人 日本航空学生連盟設立 この時、法政大学が最もに熱心に参加する。法政大にはグライダー部有り。
昭和9年 同、連盟に海洋部が出来る。ここで帝国海軍がこの運動に参加か・・・
昭和11年  海洋部から海洋飛行団に昇格。名誉団長に山本五十六海軍中将、就任。完全に海軍の組織となる。
昭和12年  海軍予備航空団となる。
昭和16年  海軍予備航空団閉鎖     ←←  ここがポイント、開戦後の大量の操縦士の損耗に、これじゃいかんと

帝国海軍、ここでようやく、近代戦の膨大な人員損失に気付き、焦り始める・・・・・いったん、閉鎖し、焦りまくる・・・
なんたる事か、上記の、航空団(法政大生が多く参加)は、わずかに総計309名、それに対するアメリカは既に、それに数十倍する大学生パイロット
の訓練に入っていた・・・