C62・C59を語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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国鉄最大の旅客用蒸気機関車C62と最後のパシフィック形C59を主に語るスレ
そのほかC59改造機のC60、C62と同じくD→C改造のC61のことについても なんか>>22氏と被った(ついでにC59の運用間違えた)
仙台所の管理費に関してはC62がC60に対して同じ運用だとより石炭を食うのと
(C60だった常磐ローカルの運用をC62にした形なのである意味仕方ないが)
同所の転車台がここ数年で消耗激しくなった原因として挙がったとかその辺 >>23
1958年に仙台にC59が入る時点で、保線の関係で運用は一ノ関以南となっていた。
1957年5月に福島1区にC5981が転入していた降り、当時の人の回想では、この頃から白河(と宇都宮?)のC59が仙台まで来ていた由。
『ノスタルジックレイル』とかいう雑誌に1965年9月の臨客運用表があって、C61とともにC59が盛岡までの運用を持っていた記載がある。
『蒸気機関車』誌1980年3月号に『東北本線・常磐線牽引定数表』があり、仙台〜盛岡間でC60とC59が同一定数と記載されている。 転車台への負担は深刻だったのでは、C62の様な超弩級のカマは想定してなかったんじゃないか、水と石炭満載だとかなりいく、機関士が小錦みたいだと更に・・つまらんこと言った >>24
C59の一ノ関以北の事はあまり知られてないようで、写真も見た事ありません。
軌道強化がもっと早く進んでれば、奥中山越えや常磐線にはC59が定着し、日本海縦貫線新津・新潟以北の花形はC57からC60に代わっていたかも。 >>26
20m級ではあるがC51もいない1916年製造のが元だけに補強やモーター交換しても限度はあったし
C59・C60以上に自重があるやつが常駐したらそりゃな…というのはある >仙台所の転車台 >>29
『そんな余裕あるなら我々に回せ』(D51DF) 失敬。
長町区が噴火しそう。
仙台の釜のメンテは金輪際手伝わん!とか。
一ノ関や盛岡も大丈夫だろうけど、一戸・尻内・青森はゴネたでしょう。
しかし最大の壁は保線‥‥。
郡山〜白石間でどんな空転やらかしたのか。 少なくとも仙台盛岡間は10パーミル以内で曲線もゆるいし
D62も入ったんだからC62軽だって入れそうなもんですけどね 奈良区で梅小路待ちC59を見かけてこれ走らせるのかと
すげぇ期待したのを覚えてるわ。 当時は仙鉄と盛鉄で機関車の貸し借りも盛んにしてたようだし、仙台〜青森間を通しで使えない機関車は好まれなかったのでしょう。 railmagazineのSL甲組の肖像に掲載されてないかな?お待ちの方調べてみて下さい いやもちろん史実の事情は判ってるんですけど何とかC62の奥中越えをと思いまして >>36
DD51 2〜4も不調ならあり得たでしょうが、はくつる・ゆうづる・みちのくの本務機(仙台持ち)のみで、盛岡以北はC60の前引き付きだったでしょう。
盛岡・青森にC62入れるくらいならC60に重油併燃付けた方がコスパ良でしょ。 ではC60戦後形+C62+はくつる・ゆうづる・みちのくの奥中越えで我慢するとしますか >>38
我的には、C60は10-25Aテンダに名古屋機関区形湾曲デフステー(C59 1参照)がついたC60 21(←C59 70)が一押し。
十三本木越えでのC60+C61特急のブラストって、山線のC62重連と比べてどうだったのだろう? 仙台に保存してたC611と吹田のC59166、解体免れる事は出来なかったのか。移転や再開発で邪魔物扱いされるのだろうが貴重なカマも少なくない。 >>40
似た境遇だったC621は助かったものの共に国鉄関連施設の物だったのが下手な公園保存車より災いした感もあるな
常磐電化の頃にRF誌でC6249と別にC6210も郡山工で保存云々の投稿あったが実現してても今まで残れたかはわからない… >>41
C621が残れたのはC62そのものの人気の高さと準鉄道記念物に指定されていたのが大きいんでね?
ついでに言えばC621は結果的に最初の予定通り梅小路に保存されたことになったね。 C621は梅小路の候補に始めは入ってた。C591やD521みたいに施設に保存されず小郡機関区に保管という形だったから自由が効いたのか。しかしツバメの人気に勝てなかった。 C61が高崎(電化前)や酒田まで入ってた事以外で、『こんなとこにC59〜C62が列車牽いてきてた!』という事例てあるのだろうか? 25と同じ本で、元仙台機関区助士でスイカ開発に携わった○山氏らしい人が触れてた。
勿論臨客だけど、それ以前に入線試験してたんだろうね‥‥。
亡き親父は昭和28年に赤湯から上京したんだが、当時の奥羽南線はC51→EF16。
福島〜白河はC51かC57かC61かはわからんが、白河で“見たことがないほど太い”機関車に代わったと言ってたから、白河以南はC62だと思う >>44
高崎だと機関区構内で待機するC6223の写真がRF400号にあったね
あとは山線不通で室蘭本線迂回の列車にC62がついたのも聞いたことが…
>>46
白河以南のC62が東海道から転出のC59に追い出されるのがS30年前後だしそうじゃないか >>47
さいざんすか。あの有名機がねー。
高崎線未電化時は水戸・白河にいたから、間合か何かで高崎線に入ってたのかな。
C61と C59が宇都宮・白河に転入した前年にC62とC61のシャッフルが実施済みで、C59に直接追い出されたのは宇都宮と白河のC57。
C61や軽C62とC59じゃ性能差が僅かだから、C57を代替して上野口の定数を全面アップさせたんだろう。
もっとも白河以北は相変わらずC51メインだったけど C60〜61は両数は少ない方だし使う路線も地方幹線に限られていたので地味な感じは否めない。鹿児島本線が電化されて奥羽本線が最後の砦のはずか日豊本線に、もう少し決定が早ければ鹿児島本線のを回せたのに 元々ハドソン&バークシャー機は活躍した地域が限定されてたせいか過小評価気味な気がする。 >>50
C60はもう少し多く改造して羽越線や海線あたりに振り向ければよかった。
C51の淘汰促進と高価な割に非力なDF50の製造抑制に貢献できたろうに。 C60が誕生すればそれだけC59が減ることになるがストーカーが無いしシリンダーを縮小してないことが現場でどう影響してたか? >>53
C60やC62軽軸重型の軸重とシリンダ牽引力の比率はC57と大差なし。
C62 3もシリンダボアダウンは施工されなかった。
C60は素の状態でも引き出し性能はC61より優れていたのだから、重油併燃ならC61を上回っていた。
逆に言えばC61は動輪上重量を晩年のC51並に設定可とし、シリンダ径もC55並ならよかったのでは。
あくまで結果論でしかないが。 C59の余剰廃車は岡山・仙台電化以降。
昭和33年度時点でC59は素では行き場がなくなる事がわかっていた。
D62みたいに軸重は維持したまま先行してハドソン化しておけば。
無煙化はいいとして、DF50は500台でもC60・C61より非力なのに。 >>55 C61の出力がD51並みの1280PSとして、炭水車含めた総重量は128トン、
DF50はモータ出力600Kw(816PS)で重量81トン。出力重量比からすると、同じくらいか。
C61のような重いSLが入りにくい亜幹線であっても、DF50はそれと同等の性能を発揮できたということ。
おまけに石炭の煤煙に悩まされなくて済むというメリットもある。 いやいやDF50はズルツァーがC58、マンがC57程度の能力しかないから
両形式を無煙化するのが関の山でヘビーパシ、ハドソンの置換えは無理ぽ スモールエンジンポリシーってのが根強かったみたいだから、
太いボイラーの機関車はどうしても嫌われ気味だったのかねぇ。
C57で間に合ってるんだから、C60なんかよこしてくれるなと。
C60を重油専燃にでもして東北筋はこれで統一、C61を日本海側に、なんて妄想はあるけどね。
集煙とボイラー上に重油背負ったC61なんてかっこよくないかな?
C59127を重油炊きにした時に一緒に二軸従台車をつけておけばどうなったか、と思わないでもない。 >>58
日本がスモールエンジンポリシーなのは最初に鉄道を学んだ先がイギリスだったことと島安次郎の存在が大きかったのだろうね。
ハドソン・バークシャーはアメリカ発祥の様式、つまりラージエンジンポリシーの下で生まれたから日本では正当な評価がされにくいのかも。
ましてや保守的な国鉄だから余計に。 >>57 出力重量比という概念理解できないのかなあ?DF50重連で、同じ出力重量比でC61単機を上回る馬力を出せるということ。C61重連にすると、もっと馬力は多くなるが、線路への負担も増す >>60
いくら出力重量比出力が優ったところで出力の絶対値が低いから意味無し
それにDF50重連にしたら168トンでC61はおろかC62より重くなりますがな しかもDFには遅いというオマケがあるしな
奥羽線末期の活躍がC61やD51の補機だったのも仕方ないくらいに 非電化幹線の列車を牽引するには、DF50の設計最高速度90Km程度で十分なんでは?
C61と出力重量比同等でパワー不足の感は否めないが、東北本線等の主要幹線は10数年以内に全線電化される、電気機関車ないしより高性能のディーゼル機関車に代わられるまでの繋ぎとしてなら、生産配備する意義はあったと思うけどね。
仮にDF50を止めてC61等の重量級SLをより多く量産していたとしても、主要幹線における活躍期間は短い。液体式気動車が昭和30年代前半から本格導入され始めていることも考えると、非電化幹線でも旅客用重量級SLの必要性は少なくなる。
要するに宝の持ち腐れになっていただけだろう。 いやだからDF50じゃ出力が足りないんだってば
C61が同じ速度で12両牽けてたところを9両に成ったら輸送力下がるでしょっての 電化予定の線区にディーゼル対応の給油設備を作ったり乗務員教育するとかはまさに二重投資の最たるもの
電化までのつなぎであれば大型蒸機を軸重軽減して下級線区に投入すればよいし
気動車などは未電化閑散線区にこそ好適
あとディーゼル機は蒸機よか製造費高いはずだがそこは如何なのねん >>65
そういやDF50(0番台)の原形だったDD50は初期に山陽でかもめ牽引に使おうと考えたものの
常時重連化は勿論高速向けに機器やら下回りは改造となるから没とかだったね >>64
DF50開発の数年前に蒸機の新造は打ち切り。
C63が製造されてたら、DF50の発注はもっと少数だった。 >>65 理解できてない奴だな。12両ほどの輸送力を必要としない区間だからDF50で間に合う、ましてやC61による重連必要とするようなことはない、そんな線区であればDF50で十分だろ。
12両以上の輸送力必要とする区間は、近いうちに電化されるんだし。C61でないと対応できないケースがあるとしても、必要最小限で済む。
電化されなくとも液体式気動車の長大編成に置き替わるケースも多かったし。東北の昼間急行なんてその一例。
>>66 C61も軸重軽減して丙線区間に投入する構想があったが、液体式気動車が普及したこともあって没になったね。
DF50だと石炭の煤煙はなくなるし、転車台も不要で合理化にもなるというメリットも考えないと。 >>68 1956年頃、C63が何故、計画中止に追い込まれたか考えないとね。
分散式動力方式列車の優位性に、この種の車両の大量導入計画が実行に移され始めたから。 C61が本気出さなきゃいけないところをDF50で置き換えようとするのか、
もっと楽なところにC61を回すならDF50でいいじゃんかというのと話がかみ合って無いような気がすんですが。 >>69
言ってることが矛盾してる
>>64では
「電気機関車ないしより高性能のディーゼル機関車に代わられるまでの繋ぎとして」
DF50を配備せよと自分で言ったのを忘れたのか? >>72 繋ぎとしてC61クラスの重量型旅客用SLを新製するよりも、DF50の方が総合的コスト・パフォーマンスで有利と判断されたからは?
上にも挙げたように無煙化できる、合理化にもなる、非電化亜幹線はそれで満足できる。 大型蒸機新製するとか誰が言ってるんだ?
東海道山陽で余ったC59をC60に改造すりゃ
DF50の新製より遥かに安上がりだ
ま、DF50はせいぜいC57・C58・9600でも置き換えてろってことだ DF50最大の功績は亜幹線無煙化の切り込み隊長。次いでC51への直接間接での刺客。
惜しむらくはC57を直接淘汰するには至らず、D51には跳ね返され、ハドソンやC59からは無視された事 >>74
レス52で、こんなこと言ってる奴がいるだろ。
「C60はもう少し多く改造して羽越線や海線あたりに振り向ければよかった。
C51の淘汰促進と高価な割に非力なDF50の製造抑制に貢献できたろうに。」
まあ、ジョークなのかもしれないが・・ レス73修正、「繋ぎとしてC61クラスの重量型旅客用SLを新製する」の次に追加
「、あるいはC59のC60への改造車を増やす」 国鉄も亡き者になった今となっては全てジョークと鱈レバー。
雑誌だったか、C62を『女王』と評した記事を見た時はお茶噴いた。
女王はC59だろうさ。 スト権ストやってた国鉄労組も、合理化人員削減さえなければ無煙化、SL廃止に大賛成だったからなあ。
軸重軽減改造による延命措置なんて、現場サイドとしては止めてほしかったのかもなあ >>79
C62ニセコが復活運転始めた頃の記事だったかなそれ 出力でSL>DLと結論づけてる子は通勤電車と新幹線しか見たことないんだろうね
SLもDLも非電化用の機関車だから似たようなものと思っている
輸送量の多い幹線には3000PSのDF51が予定されていたが
結局いたずらに形式を増やさず、電化かDD51重連で賄った
非力で2台要るからSLのままという選択はない >>82
お前の大好きなDF50は単機でC59〜C62、D51、D52を置き換えたのか?
非力だから電化もしくはDD51の登場を待つしか無かったんだろ?
似たようなものだと? 片腹痛いわ ディーゼルがお好きな方は置いておいて、C59が大量余剰になるのは目に見えたのだから、
もっとたくさんC60にしておけばどうなってただろうね、ってだけの話だったんですがねぇ。
九州はC59ではなく昭和31年の時点でC60投入だったのだろうか。C62も渡道してなかったかもね。
余剰廃車になったC59がC60として生き延びていたら、C51やC55の寿命が短くなったのだろうから、
そう思うと、何ともかも知れない。 >>87
>九州はC59ではなく昭和31年の時点でC60投入だったのだろうか。
鹿児島線北部と東北線南部は軌道強化してC59のまま転用した史実が正解でしょう
>C62も渡道してなかったかもね。
手焚きのD51で通標授受とで助士2名乗務の解消が目的の一つだからストーカー付きでないと無理ぽです C61は33両しかなかったから他にも活躍できた路線があっても回せなかったのかな、だがC57は細身に見えるが結構パワーがあったんだな、客車に乗っても力強さを感じた。C61でなくても十分だった >>89
前段
C61の不足を改造C60がある意味おぎなった訳です
後段
C61は時速20km以下ではC57にやや劣りますが30km以上なら三割増しで圧勝します 東北や九州の客車急行を400t台まで編成増強、さらに特急運転開始にはC61の功績もあるしな C59並の性能を乙線で実現できたのが最大のメリット
燃えん炭と罵られた低品質石炭でもそれなりに走ってくれたのも、当時の助士にとっては砂漠に雨だったろう。 そしてC62は国鉄復興の象徴だった。
生い立ちは戦争の影を引いていたものの、それを感じさせない姿形。
紛れもなく時代を引っ張っていた。
物心ついた時は既に衰退期だったけど。 播但線でC61を使っていれば生野越えや三重連も見ることが出来たか、それなら行く回数増えていた。 関西でC61使うのであればむしろ関西本線とか草津線とかが向いてると思うの >>91
加えて言えばつばめ・はとを最大13両・550t牽引を可能としたのはC62の功績な気がする。
名古屋電化以降のC62つばめ・はとの写真を見たら大概13両編成となってるのが多い。
所定11両編成にスハ44が2両、もしくはスハ44が1両とスイ38を1両増結してるのだろう。
>>95
関西本線はC61の元になったD51の天下だったからね。 関西本線の旅客は早く無煙化されたからウチらの世代が興味持つ頃は無いだろうな。山陰本線でも使えたか、京都から浜田へのロングランなんてあったし。余部の鉄橋を走れば絵になる ここの諸兄様方は今おん歳70位でいらっしゃるのか?自分は昭和42年生まれだけど、筑豊の96やD60の気配が幼児の記憶として微かにあるだけです。 >>98
したように見える?
転用といってもボイラと一部共通機器ぐらい。 >>100
大半は後にボイラーも新品に替えた。
>>99
自分は1966生まれ。
親の実家の関係で米沢の96とC11は覚えている。
後、山形で新庄のC5768か170を見たかな? 昭和42年生まれでD60や9600覚えているなんて凄いね。私は昭和32年生まれで筑豊には昭和47年に行った。2〜3歳の頃に山陽本線の列車を見てる、状況から見てほぼC62に間違いない >>98
D→C改造の背景はC57とC59の足回りとテンダーは造れたけどボイラーが造れなかったので
遊休のD51とD52からボイラーを巻き上げたわけです
昭和22年度に試作各1両、23年度にそれぞれ32両、48両量産し
24年度もC61を20両程度、C62を50両程度造りたかったけど
ドッジ緊縮財政の発動でストップされたわけです >>103
そうなってたらC60の登場も早まって、東北・常磐線の上野口は完全にハドソンに置き換わっていたかも。 >>104
そうなるとC51、54が昭和35年頃、C55が43年頃に全廃になってたかも。
更にSL最終旅客列車もC60か61牽引になっていただろうな。 >>105
さすがにそこまでは無理じゃないか?
無煙化完了が昭和50年度のままなら、C60・C61が北海道に行ったとして、昭和48年度中にC62もろとも引退かと。
無煙化計画が後ろ倒しになったとしても、客釜で最後までの 最後まで残るのはC57でしょ。
それにしてもC59・C60の話題少ない。 重油専用機のC59127は期待通りの結果は得られなかったのか。 C60はC59と同じ日、昭和45年9月30日に使命を終えた。呉線はC59が安芸を牽いて最後を飾ったが鹿児島本線ではさよなら列車はC6133だった。 >>108
C62並みの性能は出たが1両しか無いため乗務員と運用が限定された
同一仕様が20両もあれば活用されたのでわ C59127は重油満タンで石炭より走れたのか?テンダー長いからかなり積めただろうが、最後は盛岡で使われたというが結局すぐ解体された。 >>111
C59127の重油タンクは容量6,500リットル
重油1リットルの発熱量は上質炭の約1.5倍だから約10トン相当
石炭焚きC59の搭載量と同じだから航続距離も同等と見て良いでしょう あと蒸気噴射式「消煙装置」。
C5979とC6240に取り付けられ、成績良好だったという。
他にも取り付けられたというが、1955年頃、名古屋にいたC5916のキャブ下にそれらしき物体がついている写真が蒸気機関車EXのC59・C62特集にあった。
また、ファン誌1970年10月号のC59特集にも、名古屋区形湾曲ステーの戦前形が同様の装置を付けて急行瀬戸を牽く写真があった。 呉線の三両のC59はよく最後まで残ったな、164は電化前に検査期限を迎えたが。梅小路で現役時代を知ってる唯一のカマ、タイミングが悪く走行中の写真を写せなかった 調子がよかったのか検査に余裕あったか知らんが本やネット上に出ている呉線末期の写真見ると162号機が多い印象 C62山陽組の傷みがひどくて、これじゃC59や常磐組の方がましという事だったんだろう。
C59を延命させるつもりで改造したC60が、C59と同時に全廃とは何たる皮肉。
逆に言えば、糸崎の3両が土俵際でC62をうっちゃったからだろうけど。 ストーカー未装備で、燃焼室設置のC59101号機〜って80キロくらいで走行
してたのかな? 【BS11:紀行・教養】 <尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究>放送時間:毎週水曜日 よる8時00分〜8時54分 #bs11 http://www.bs11.jp/education/post-74/ C62の登場で命運尽きたC53、テンダーだけでも再用できなかったのだろうか?さすがにストーカー取り付けは無理だろうから、D51-1000あたりに転用して、それをストーカー付きにしてC61に回す・・・・とか >>117
東海道時代、不定期特急さくらをC62とほぼ同じ所要時間で牽いてますたよ。
編成は所定9両だけど、昭和31年1月12日にC59115が外人団体用らしきマイテ39とスイ38を増結した11両牽いて山科の坂を上る姿を故高橋弘氏が撮影している。(松本謙一『C59』収録)
偶然にも当日の編成記録が鉄道ファン誌1977年6月号に記載されていて、食堂車はマシ29 2。
ス級9両にマ級2両の定数45に対し、C59の特急最大定数は48。C62のつばめ・はととほぼ同等に走れた。
さくらを牽く姿の写真が多いのは、下りが名古屋のC5916と110。上りは宮原のC599・74・115・124。
戦前形も普通に牽いてます。 >>119
確か、一部が糖蜜輸送用タキに改造転用。 連投すまぬ
C5321のテンダはC51236に流用された。
戦後の混乱期だったから、他のC51やD50に流用されたものもあるかも。
C53の中には水槽容量がより大きいD50とテンダ振替をした機があるから、あるいはD50に出戻っていったテンダがあるかも。 >>119
ロングランする特急急行牽引機にくっ付けてダブルテンダーにして給水停車を少なくするとか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています