C62・C59を語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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国鉄最大の旅客用蒸気機関車C62と最後のパシフィック形C59を主に語るスレ
そのほかC59改造機のC60、C62と同じくD→C改造のC61のことについても >>215
その頃の山陽C62を録音したビクターのレコードは一度聴いてみたかった
(後年に同社が出してたC59音戸の録音もどんなものだったか興味あるが)
>>216
昭和37年10月改正時だと広島所が下りさくらと上りあさかぜ、みずほの上下、
下関区が上りさくらと下りあさかぜ、はやぶさの上下ですな かもめのヘッドマークのデザインが違ってたりしてたが広島でそれが並んでいたから梅小路、宮原のC62はかなり遠くまで行ってたんだな かもめ牽いたC59ってほとんど戦後形で戦前形はあまり写真見ないよね C59100が牽いてる写真見たけどこのカマは後にC6019になる。C60への改造は好不調や実績に関係なく行なわれたのか >>221
試運転は広2のC5977が広島〜下関間往復やったし、本運転で牽く写真もある。
ダークグリーン機C5979もかもめ牽いてセノハチに挑む写真もあるから、あのカラーリングで京都まで行っていたのだろう。
大阪局は101〜が多かった一方で広島局には戦前形も少なからずいた。
何よりキャブにかもめマークを付けたカマ3両中2両が戦前形(42と77) >>218
C59時代、広島第2機関区は下り広島→下関と上り広島→京都を担当。
往復を担当したのは広2だけだったから、相当力が入ってた。 >>218
山陽だけでも梅小路、広二、下関で全部デザイン変えてるしねかもめのHMは >>225
門司港もお忘れなく。
九州では、末期は鳥栖のC6023が上りかもめを牽く姿も撮影されている。
個人的には、かもめはC59が牽いている方が締まって見える。 おいらが雑誌で見た集計結果は
2回
梅 100,107,118
1回
梅 108,116
広 20,77,95,119,158,172,191
関 99,158
となりました
プレスの本は見ていません >>222
100は1955年に宇都宮に行き白河を経てC60になってるから梅区の中では早くに都落ちしてるね >>227
故竹島紀元氏が1957年に八幡製鉄所の煙突群バックにかもめ牽くC5925を撮影してる。
>>228
C59100は東海道線電化完成の1956年11月に宇都宮転属。 >>229
>>227は山陽線内の話ね
あと ↓ だと1955.9転属になってる
ttp://d51498.com/db/C59/C59100 >>227
RF誌でかもめの写真を漁ってみたら161が5号に、104が227号、190が299号にあった 現在までの集計結果
2回
梅 100,107,118
1回
梅 104,108,116,190
広 20,77,95,119,158,161,172,191
関 99,158
=================関門海峡
門 25 100の宇都宮行きの時期の出典。
こちらはプレスアイゼンバーンC59とファン1970年10月号。
プレスアイゼンバーンC59にはかもめ牽くC59 24が載ってた。
1号機がかもめ牽く写真は見たことない。 ファン1970年10月号?今村氏記事ではS30.7.20とS31.10.12の2回100が梅から宇に転属となっていた
当時すでに山陽筋にはC59が足りてたので梅の釜は東北と九州へ行ったのが多い トップナンバーはみすほ専用機みたいになってたからな。異端児?の31は特急牽いたのかな >>233
ピクアーカイブスの6号にあった投稿の再録(1957年6月5日下り5レの編成メモ)だと126の牽引で京都発車
>>236
蒸気機関車誌の80年3月号にみずほ牽引の写真は載ってる >>235
1955/8/1現在の配置表で100はまだ梅小路区になってるから7/20付けはないと思われる
「機関車表」だと一回梅小路から宇都宮にいってまた梅小路に戻って
再度宇都宮に行ってるみたいだけど不可解
かもめの運用は56年秋にはC62が専従になったとどこかで読んだ覚えがある >>233
24の配置は何処ですか?
>>237
thx
>>238
行きつ戻りつは夏の多客で缶が足りなくなったから一旦返せ、とか
あとファ誌5号の161(202レ)は1960年代ではなかったかしら(ナハ10系が入ってた) 自己解決
ファソ誌5号の161(202レ)はS33(1958).8.1でした 現在までの集計結果
2回
梅 100,107,118
1回
梅 104,108,116,126,190
広 20,77,95,119,158,161,172,191
関 99,158
=================関門海峡
門 24,25
梅の戦前形は戦後形より早く都落ちしたためもあって
「かもめ」を牽いたケースはほぼ無いと見て良い >>241
元資料が古いのでどこまでアテになるかはともかくピクアーカイブス5号にあった1956年6月当時のかもめ牽引機一覧表から見ていくと
梅は47,100,104,107,108,109,119,126,128,190(他に冬期以外の予備としてC62が13両)
広二は11,12,20,32,39,42,51,53,68,77,79,83,84,95,119,172,181,191(+6両のC62)
関が72,91,97,99,123,131,132,157,158,159,160,161,162,163,171,183,187,192,193,194(C62は無配置)
とあるので(当時門司以西はC57牽引)、C59戦前型が入るとすれば広二の機が牽く上りかもめが多かったとみて良さそうですな >>241の訂正
2回
梅 100,107,118
1回
梅 104,108,116,126,190
広 20,77,95,119,161,172,191
関 99,158
=================関門海峡
門 24,25 >>242
紹介サンクスです
んで戦前形が多いはずの広二の運用で戦後形が多く記録されてるのは >>243
やはりそれなりの傾向を示してるのかと思いまして
(関は広島以西なので当時は写した人が少ない) 昭和45年9月に親父の転勤の関係で
呉から東京まで急行安芸に乗車
この時の牽引機関車がC59だった
正面の安芸のヘッドマークに目が行き
何号機だったかは記憶にない
15時半定時に大きなドラフト音を響かせながら
1番ホームに滑り込んできた
今思い返せば写真の一枚でも撮っておけば
貴重な記録になっていたのにと思う
C59の牽引は糸崎まででここで電気機関車に
付け替え更に後ろに増結車2両を連結したと記憶 翌10月には呉線が電化されることになっており、
結果的にこれが最後のC59牽引列車の乗車と
なってしまったが当時はそのようなこととは
つゆ知らず何の感慨もなく平日にも関わらず
大勢のサラリーマンで混み合っていた車内に
漫然と乗車していた
岡山を過ぎたあたりから進行方向左側に真新しい
高架橋とぽっかりと口を開けたトンネルが見えてきた
建設中だった新幹線だった
いずれここを通るんだなあと思いつつ通り過ぎた
その後数え切れないほど往復することになった 夕食を取ろうと食堂車に行ったが、満員で
列をなして並んで待っている状態だったので
あきらめて結局車販で弁当を買って済ませた
大阪に停車した時は夜遅く誰もいないホームを見て
このまま万博に行けたらなあと思ったもの
東京駅には今はない在来線15番線に到着しすぐ右上の
16番線に停車していた0系新幹線が綺麗で眩しく見えた >>245
> 15時半定時に大きなドラフト音を響かせながら
> 1番ホームに滑り込んできた
この一文ででウソがばれちゃって誰も読まなくなったんだよ。 「安芸」登りは広島15時発、先に車両をホームに入れて機関車がバックで来て連結。出発シーンをとらえたことあるよ C6217その二日後はC6237、後者はあまり蒸気や煙を出さなかった。牽引機は概ね番号順に回っていたようである >>249,250
よく文章をヨメ
「呉から東京まで」だ
呉駅の三原方面行きの列車は本屋がある1番線からの
出発で今も変わらない。
(昔は改札が1階にあったのでそのまま1番線ホームに
出れたが駅改築後の現在は2階に変わったので
改札に入ったら通路を通り階段を下りていく構造になった) 追伸
安芸下車後東京駅からは船橋駅まで移動したが
その時の様子を別スレ「高架駅・地下駅の地平駅時代」の
No.22に記載
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1382781548/ あ〜ら〜インフルエンザ後でまだ頭ボケてますな、投稿者には申し訳ないことをしました。広島15時発なら呉はその30分程後。70年8月に呉でC59162の安芸を見た。暑さで歩道橋の階段もキツかった時だ 38レ時代の上り安芸は呉発が1534とかだし広島→呉が30分でしょうね てか>>245の突っ込みどころは停車間際に
「大きなドラフト音を響かせながら」
ってとこじゃね? >>257
乗車した車両が恐らく1番広島寄りの1号車B寝台だったと
推察される(食堂車に行くときにA寝台を通り抜けて行った
記憶があるため)乗車位置がホームの一番広島寄りで
(安芸号は糸崎までは10両編成)
まだスピードが出ていたためそう感じたのだと思うが
そのへんは記憶がおぼろげで自信がない 安芸は急行なのにヘッドマークが付いた。付け替えが大変なので登り下り共に同じ機関車が牽くようにしたとの事。もしニセコにも付けるとしたら羊蹄山の絵が描かれたかな C62重連の最末期に一度掲げたことなかったかニセコのHMは
(青地にニセコの文字と山影で国鉄末期にDD51で使ったのとも違う柄のやつ) >>259
安芸のHMは秀逸だったね。
急行安芸とは直接は無関係だがその後ブルトレ特急化されて廃止となったが時期が悪かったせいか機関車へのHMや客車の絵入りトレインマークは登場せず終わった。
もし廃止がもう少し遅かったら急行安芸時代のHMが復刻(但し「あき」と記された部分は漢字化か?)したりHMのデザインがモチーフになった絵入りトレインマークが表れてたかもね。 ずっとSL一筋だったので客車や貨車などの車両の知識は皆無に等しい程で**系やらカタカナが何を意味するかも知らない、今更覚える気もないしな。広島行く時に乗った宮島51号はEF58にオハフ13らしい C60の写真見たらC59時代はどこを走っていたのかとつい思ってしまう(調べればわかるが) D60〜61みたいにオリジナルと共通運用はなかったと思う。その点は改造して良かったのかな >>264
C6037←C595は通しでの在籍期間が最長(29年)だが、C595として登場早々とおぼしき映像をNHKで見た事がある。
ヘッドライトの灯火管制はしていなかったと思う。
汽車会社の最初の10両は灯火管制なしで引き渡されたのではないか? 鹿児島本線には行けなかった。九州では保存されてないが話はなかったのか、C60.61共に電化後は隼人駅等に放置されていたそうだが、日豊本線での使用決定がもう少し早ければ復活もあったか 「この世界の片隅に」は原爆を落とされる前後の広島が舞台ですので劇中に出てきたC59は明らかに戦前製ですね。 Rail MagazineにC62の特集が、シールドビームをつけたC625の写真は珍しい。 今月出る「国鉄時代」もC62・C61・C60がてんこ盛りとか >>271
最後は呉線に移ってLP403に交換した
C62には似合わんな >>274
言われてみればそうだw
C12やC56でも嫌いだわ 横に副灯を付けたのあるが不細工だと思う。函館本線のC62は一時煙室扉に付けてたがあれもねえ・・胆振線の二つ目の9600もあったな 横に副灯を取り付けるのは東北と北海道で多くなされたけど交流電化の関係なんだよね?
でも同じ交流電化でも九州では転属車を別にしてこういう変更はやってないね。 >>277
末期には関東でも一部で副灯付けた(常磐・水戸線他の都合)
経緯は東日本のほうが労組強かったとかメーカーのゴリ押しやら色々あるが 主灯の電球が壊れたとき交換するのが交流架線だと感電事故直結リスクがあるので予備灯を付けたと聞いたことがあるけど、
直流だと問題ないのがよくわからん
九州は根性で防げるのか もう電球無いんじゃないの?動態保存のカマにはLEDを採用!なんてね >>279
まあ交流のほうが感電のリスクは高い(条件によっては高圧線に近づいただけでもありえる)
東日本で副灯つけたのは上にもあるような事情に加え寒地というのもあった気も…
>>280
確か東はLEDを蒸機や旧客の灯具にも採用してた 交流は25000V身近な所に危険なものがあるんだな、近づいても放電するか、触れたら即死か、助かっても身体の組織が破壊されて廃人 交流は電圧が高いから近寄るだけで感電、20000Vだと大体1m以内だな。
ちなみに感電の危険性は直流だろうが交流だろうが変らない。
直流1500Vだと感電すれば常に流れっぱなしだし、
交流20000Vだと電圧が高いので0に戻る前に死ぬから、どちらも同じ。
C62は全高が高いので、前灯付近に接近すると交流放電で感電するから。
これが直流1500Vだと架線に触れない限り、10cm位まで近づかないと感電しない。 C62は全高が高いではなく、しいていえば車高が高いだな
ただ、明らかに車高が低い築港のC12も副灯つけてたのが不可解
あの高さですら交流だと感電するもんなのかと
さらになぜ九州だと副灯つけないのかと 20年くらい前だったか鹿児島で、留置中の485の屋根に登って遊んでた高校のバカガキ共が感電してマンコが重症だっての思い出したが、よく死ななかったよな
今も生きてりゃ植物人間か 九州でシールドビームがないのは、「かっこ悪い」から。 電圧だけでなく電流も問題、スタンガンは数万Vでるが電流が非常に微弱なのでショック受けても死なない C6120もせめて100km/h運転して欲しいね
100mphとは言わないから 副灯を嫌う先輩方もおいでだがC622の副灯は神だと思いますが
でも主灯がシルドビームなのは流石に忍びない C62 2に関係なく主灯がシールドビームって格好悪いってことね こういうことでしょ?
ttp://www.geocities.jp/okazu1945/kure/c6231w.jpg >>292
書き方が悪くて御免なさい
C56とかC11で原型はずしてシールドを付けた奴がいたでしょ、アレの事
何れにしてもスレチで御免なさい C62では21も主灯がシールドビームだった
C59は知らん それこそ9号機(低い位置にシールドビーム主灯+副灯)というゲテモノがあるしなC62は
>>296
山陽線末期の写真で見た覚えがある気もするけれどどうだったかな >>277-279
亀でスマヌが副灯は冬季の視界確保だと五稜郭区にいた爺が言ってた。
球切れ云々は副次的効果だそう。
そもそも主灯の球切れ時はナンバープレート近くのフックにカンテラを掛ける訳で。
電機の貫通扉上にあるフックも同じ目的だとさ。 >>298
それなら副灯が関東以北の寒冷地限定だった理由が分かる。
逆に交流電化であっても九州にはなかった理由も。 五稜郭のカマで副灯付きは無いとおもう
冬期の視界確保なら裏日本の羽越や奥羽、北陸本線でどうだったかと言えば
末期の糸魚川区ですら富山電化済み後も副灯は付いてない
留萌のD61は深川電化がらみの副灯だったような
築港のは小樽電化がらみの対策だったのでは 常磐沿線は雪ほとんど降らないけど副灯付けてたから冬期の視界確保って訳じゃないと思う >>296
末期のC5953(下関区)がシールドビーム1灯
>>298
この前の蒸機エクスプローラ誌に記事あったが東北に関してははやはり電化対策だそうだ
(執筆した大山氏によると福島電化後に架線のある構内で点検や検査時の感電事故続発) アメリカ蒸機のサンビームがカッコいい
鉄道省はあれをパクれば良かったのに >>296
C62 19←『大いなる驀進』参照
C59 96も晩年はシールドビーム1灯+先輪は前後ともディスク輪心 >>304
鉄道省もLP42になる前はサンビームでしたけど何か そんなことは知っている。
あれは金を出して買ったんだよ
それより、サンプルだけ買ってパクる日本人のいつもの手口があるだろう? 民間旅客機の機長だと機種や運行路線ごとに個別の乗務ライセンスがあるけど
旧国鉄はどうだったの?
甲種蒸気機関車運転免許があれば、C59、C62関係なく、どこでも機関士乗務OK? 「甲種蒸気機関車運転免許」なんて訊いたことないけどね
旧国鉄はどうだったかは宇田賢吉著「鉄路100万キロ走行記」を嫁 >>309
甲組から大きい機関区は乙・丙・・・と組み分けされて
本線旅客担当・同貨物・支線・入換え・庫内と組毎に仕業が異なるのが基本
新米は庫内(焚き始め・焚き終わり専業)や入換え担当の乙・丙組から始めて
経験を積んで所定の内規によるチェックをクリアすれば、支線→本線貨物→同普通客レ→急行等優等客レの組に昇格、それぞれ仕業によりカマ形式は変わるのが基本で入換機に乗った翌日大型旅客用機に乗ることは通常ありえない
ただ、末期はそんな厳格な秩序は消滅して仕業も組も乗務員はDL・ELも含めてぐちゃぐちゃになっていったし、そもそも一つの区に多数の形式が集まることも激減した 甲乙丙、この言葉も使わなくなったな、40年程前にスピード違反のフェアレディZを停めさせようとしたパトカーが「そこのフェアレディ乙止まりなさい」と言ってたそうな 乗務員の組とカマの組は別々で
乗務員はその時々の労働基準法に準拠した所定労働時間を考慮した仕業により運用
カマはほぼ一定の走行距離か経過時間で区切った仕業をやはり順番に担当するように運用
ダイヤのスジは本局が担当しても、機関区の乗務員とカマの運用はそこの運転助役が鉛筆舐めてダイヤ改正のたびに1週間以上徹夜でゼロからやり直す
田舎の中途半端な路線はともかく枝線も担当する主要幹線の機関区の仕業は100近くあるから地獄の苦しみ
しかも乗務員は必ず要領のいいのが楽をして、お人好しが割を食うから仕業の割り振りの責任者でもある叩き上げの助役が恨まれる
区長は本局人事でコロコロ変わるお飾りで気楽な稼業 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています