格下げ車両の思い出 [無断転載禁止]©2ch.net
格下げ車両の定義は難しいかもしれませんが、
みなさんの記憶にある格下げ車両を語りませんか。 >>97
関西の快速はグリーンなんてガラガラだったからな。
減車した際に間違いなく廃止されてるよ。 グリーン車並みとは言わないが
京阪神には新快速が設定されていたから 117系は違った姿だったかもしれん
グリーン車の差別化ができない 関西の快速G車は本当にガラガラだった。
滋賀や播州の遠距離利用者が多い今、
新快速につないでもダメかな? 新幹線や特急の区間利用で
ある程度まかなえるしなあ 親の実家絡みで左沢線に乗っていたが、キハ26 400にも2度乗ったが、シートがくたびれてて有り難みは薄かった。
あの時分はキハ58修学旅行仕様車やオハ41 2100(旧オロ40)に目が行ってた。
オハ41絡みだと、旧オロ36のオハ55が1両だけ長岡に1971年7月まで残っていたが、只見線用だったのだろうか? 名鉄キロ8101→キハ8101
キロ8151→キハ8151→キハ8102 >>104
窓幅が広すぎて2人がかりで開け閉めしたって車両? >>106
自分が乗ったのは窓幅1200ミリの旧オロ40だったが、当時中坊だった身でも開閉はしんどかった。
ましてや窓幅1300ミリの旧オロ36ベース車なら‥‥。 >>106続
オハ55で最後まで残ったのが、旧オロ3614のオハ552114。
オロ40の方じゃなかったのが意外。
オロ36は窓の開閉が困難とクレームがあったのは確かで、第二次生産はオロ40に移行。
当時(昭和13〜15年頃)、1300ミリ幅ガラスは規格外品だったので、準戦時体制下のメーカーはいい顔しなかったろうし。 ついに客車の格下げに乗った人が降臨か。短期だったからな。リアルで走るの見たのは小学生高学年。中央東線鈍行にオハ53転換シート。感激も座席色まで覚えいない。
一人旅始めた中3にはロングシートのオハ41ばかり。ふとんは軟らかかった。 ←660→←1300→←660→ が
←760→←1200→←760→ になってる オハ41の場合、旧並ロの近代化工事未施工車の室内がいかにも投げやりで面白かった。
あれで臨時急行にも入ってたのだから恐れ入る。 昭和56年頃だったが阿仁合で窓の広い旧客に出くわしたが
オハ41だったのかな?
竜が森にオシ17があったころだった。 >>113
その時分、秋田には何両か旧オロ36・40のオハ41が在籍していた。
旧オロ36
オハ412002(56.12廃車)
旧オロ40 途中でやっちまった●| ̄|_
旧オロ40
オハ412053(56.8廃車)
オハ412101(58.2廃車)
以上3両。
ただ、奥羽・羽越線や男鹿線ならともかく、阿仁合線で運用していただろうか? 並ロの去就知りたくて復刻配置表つきのピク買ったな。引っ張り出せたら。
改めて格下げ時期短過ぎだったのは覚えている。 山形には旧オロ42のオハ41もいたんだよな。
電暖ないから冬場はザワ線専用のはず。
ひょっとしたら見ていたかも知らんが、当時は鉄ガキじゃなかったからな。勿体ない事した。 並ロ客車の車内写真がたくさん。鉄道と野球という、野球雲叢書8。巨人軍の遠征移動中の写真。転換座席がほとんどだけれど貴重。 興味深い書物ですね
列車の費用は球団持ちということは、読売みたいな金持ちは良いとして、
広島などの貧乏球団は三等ばかりだったのでしょうか 国鉄が球団を持っていた時代はどうだったのでしょうか 弱かったら儲からないのは当然
儲からないなら選手の待遇も悪くなる
これも当然 今はプロフェッショナルとして世間の視線は向いてるが
昔は道楽扱いだった
いい年して球を抛ったり棒を振り回したり、みたいな言われ方してた
長嶋や王など一握りだけが求道者みたいに奉られてた >>13
京阪1900系、冷房改造・5連化後はほぼローカル運用専門になったけど、
最末期の「K特急・おりひめ」充当時には(12回しかなかったけど)、
蝶ネクタイのような鳩マーク付の姿に魅せられてたよ…
一般車にはなっても、あの鳩マークが付くと魅力が数段上がったってのがね やっぱりあの銀色に輝くバンパーのおかげだよ
ローカル専門になっても特別の風格があったもの
所用で関西に行くたびに必ず撮影してた >>120
逆シングルの白石の伝記かなにかに
夜行列車の3等車の床に寝て移動したとの記述があったよ
他にも、遠征先の旅館で夜ご飯すらまともに食べられず、
見かねた旅館のお偉いさんが、庭の置物を売って選手達にご飯を食べさせた話とかも載ってる ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ >>127
そだね
でも花形で居られたのは僅か数年という不運
3000系の投入はもう少し後でも良かったかもしれぬ 1900が出て間もなく、冷房の普及が始まったからなぁ
有料特急だけの贅沢品から大衆化
それだけ、世の中の進歩が速かった 阪急2800京阪1900
特急としては短命だったけど小田急2300近鉄6431よりはましだよね 阪急2800の末期のくたびれ方もアレだったが、近鉄420や430は問題外
華やかな時代をナマで知らないから、養老線がゴミ捨て場にしか見えなかった
その後、600系列が入って冷房化・新塗装化したのは革命的だったが、
アレから20年以上経って再びゴミ捨て場の状態に 阪急6300も京阪3000も、最初は増車分のみ製造だったが…
気づいたら代替が始まり、2800や1900と総入れ替え
両社とも、新型と旧型で天地の差だったから、早期格下げも仕方ないわな >>133
養老に捨てられた6421達がさえなかったのはあのくすんだ近鉄マルーン塗り潰しが要因ではないかと昔から思ってる >>135
同じ近鉄マルーンでも、
養老や伊賀にいた古物は本線所属の新型車の色よりも鮮やかさに欠け、
見た目には映えなかった 阪神3561がかの名車3011の成れの果てとは分からなかった
晩年、西大阪線で何度も乗ってたのだが‥ 格下げというが一応本線にいる頃は特急や急行には使われてた
改造されても赤胴の仲間に入れたからね 京阪1900系が早期に定期特急運用を離脱した元凶は、
主電動機の出力が75kwだったからだろうね。冷房改造するにはあまりにも非力。
昇圧準備工事の際、絶縁強化で出力が90kwに上げられても冷房改造は見送られたんだから。 1963年1900系登場
1970年3000系登場
エースの座 7年
これは短い 1900系の乗り心地は良かった。特にKS-70台車。
格下げ時にバネ定数を高くしたらしいけど、それでもあの乗り心地だったんだから、
特急車時代の乗り心地は更に良かったんだろうね。
乗り心地に関してだけは1900系>初代3000系、という評も頷ける。 >>140
クッションが悪かった記憶がありますね。
へこんだままのような感じがしました。
>>135
スピードが遅く揺れが多かったためもある
と思います。
個人的には二灯化しないでほしかったです
ね。間延びした印象でした。 ナロネ21を格下げしたナハ21 これは快適だった。「十和田」だったか「銀河」だったか覚えてないが、乗ったのは確か。 急行あおもり
札幌まで延長して急行さっぽろとはいかなかったが。 >>147
色を塗り替えられたから?
お上品なローズレッドは
京急や名鉄の「赤」とは一味違った >>148
4人乗ったら結構広い実感はなかったです。
乗ったのは大山と思いました。 キハ26400(大船渡線)と600(中央はクロスシート残った車両あり、宮之城線)
あとはキハ285000には四国の夜行普通でお世話になりました
座席はやや貧弱のような印象、もちろん固定でした
電車だと、サハ75(飯田線、中央西線)、クハ75(信越線)、サハ85(上越線)、クハ77(両毛線)
クハ85には乗れなかったです
大糸線と身延線のサハ45は何回か乗りましたが、隣のクモハ60などに比べて人気でしたね
深く座れるシートは少しだけ優雅?
それに比べて、客車はオハ41しかないです
オロ36の改造車はどうも写真がなく残念、オロ40改造車はありました
乗車は夏ではなかったため、窓開け体験はできませんでした >>154
初めから三等車だけど、つばめ⇒はつかり⇒急行用だと、確かに「格下げ」になるかも。
自分は「銀河」で乗ったけど、古くて汚い、といった覚えしかありませんでした(笑) 西鉄のつり目フェイスこと1300は初め一般用の構想だったが特急増発時に当時の特急車1000系では足りなかったために先頭車のみを改装して特急色に着替えた「格上げ車」 近鉄のかもしか号も格上げ車の一種に入るかね
伊勢路を快走する生涯のはずが流転の末吉野山を登る仕事に就くとはよもや想像しなかったろう HC85系が入ったら現状のキハ85は急行用に格下げされるのだろうか 急行のりくら・たかやま(名古屋〜飛騨古川〜富山/大阪〜飛騨古川)
現状はひだ号の下に普通しか無いやん >>157
更にその後養老線に移って終焉を迎えたね
生まれ故郷の三重県には一応帰ってこれたことになる >>161
急行新設する訳ないだろ
キハ85は廃車だろ キハ85、会津鉄道に譲渡されたキハ8500が停車駅の多い運用には向かず早期に廃車されたことを考えると、小湊のような地方私鉄への譲渡もなく消えていくのではないかな。 >>157
元伊勢電がかもしかに格上げされた頃には既に名阪には新型特急が投入されていたのに
なぜ中古の改造でお茶を濁したのかな
スター不在の南大阪線で吉野行優等は看板でしょうに シートの換装にとどまらず車内放送装置を置いてかもしかの生態説明や鳴き声の音声を流せるようにするなど、戦前製の旧型車の使い回しには過剰とも思える その頃は難波線や鳥羽志摩線の工事増強で予算が無かったのよ 伊勢電特急時代から格下げされて近鉄かもしか号のときに格上げされてまた格下げされたわけね 近鉄がなぜこの形式を標的にしたか…
いろいろ妄想をめぐらせられる そんなに造りが良かったわけでもなかろうに
しかも元伊勢電だから吉野には何の縁もないし
格上げ後10年ほどでまた格下げしてるし
たしかに興味深いわ 今月号のピクで特集がある
格下げと格上げを両方特集してる 近鉄680,683系も変遷が激しいよね。
格下げ後は志摩線や鮮魚列車に使われたのは寂しかったけど、
三交の車両に比べると幸運だったと思う。 近鉄サ2601,京阪16,南海サハ1900,阪急1500など、
貴賓車から一般車に改造されて窓まわりなどに往時の面影があっても、
一両だけだから異端車になっていたのは哀しいね。 でもかなり後まで使われていたのは車両不足だったからだろう
現在だったら即廃車だったろう 名鉄にも一両いたようだが晩年は一般車に改造されていた 白井氏の本に載っていたのは安城支線で一駅のピストン運行に従事していた写真
単行で少ないお客を運ぶさまは物寂しかった >>180
まあでもその時代は少なくたって旅客乗せてたんだから良いじゃん
貨車牽引専用時代もあったんだぜ 近鉄モニ2300形(旧参急デトニ2300形)の特別室は、
戦後は特別料金は徴収せず一般客に開放して、1972年の廃車まで使用されたらしい。
長年使われたのに、あまり乗車記事や画像など見かけないからわからないところが多いね。
ウィキに「側廊下は荷物室寄りの運転台側に設置され」と記されているけど、
宇治山田方向から運転台荷物室の次位が特別室だから、位置関係のつじつまが合わないと思う。 サロ110-501(←サハ165)
急行型→近郊型:格下げ
普通車→グリーン車:格上げ 国鉄末期の四国内
キロ28→キハ28-5000
ロザ→ハザ クロハ455-1 モハ454-40 クモハ455-40
当時 ビバあいづとクロハ車の連結位置を合わせたいとの理由でこの編成だけ電動車ユニットが上り方に来る状態になった。
ビバあいづが無くなり この編成自体も格下げされ455系他編成と混用されるようになっても 最後までその逆向き状態のままだった。 近郊型レベルの内装で有料にされるとちょっとキツいな サロ45の格下げ者でも
身延線の008や012は2ドアのサロの形態のままサハ化
御殿場線のサハ78023(←サロ45002)、サハ78030(←サロ45009)、サハ78401(←サロ45003)は
4ドアロングシート改造車
まったく別の車両になってしまった 旧国32系グループの中の皇族用車、のちに独特なドア配置のまま伊東線で使われ
最後はドア移設して目立たなくなり岡山で生涯を閉じた クロ49→サハ48040/041ですね
見たかったですが、残念ながら1976年に岡山で廃車の様で間に合わず
途中のサロハ49の頃の画像で、2ドアなのに端部と中央ドアが違和感大、すごいと思いました サロ85→クハ77
初めて見たとき、先ずその外見が103系の高運転台車みたいでたまげたが、
さらに車内に入ると豪華な座席に腰を抜かしてしまった 近鉄の鮮魚列車も格下げ車両が代々使われていた
大阪線のエース2250系のクハを格下げした車両が印象に残る