格下げ車両の思い出 [無断転載禁止]©2ch.net
優等格下げ車両は、JRでは、500系こだま、ゆふ
座席転用は格下げというより格上げかな。はまなす亡きあとは、九州のキハ31、伊豆急4ドア >>24>>27
先頭車化+3ドア化された種車はサロ75で合ってますよ。
改造後の形式は>>25さんの書いたクハ77でした。
当時幼少のため乗れませんでしたが、のちの雑誌記事等によると
増設されたドア横の座席が、構造上の関係で位置が異常に高かったらしいですね。 国鉄末期、四国のキロ28が急行の普通指定席用に格下げされたものがあった。
ほとんど原形でタネ車もキロ28だから窓も大きく窓割りとシートピッチもあっていた。
夜行の“うわじま”ではプラス300円で席も確保された上、快眠を約束されるので、なまじグリーン車開放より安心感があった。
特急のハザより急行のハザの方が安くて快適だった。 >>30
こだまも特急だから格下げというのはちょい違和感がw ここまで185系なし
「走るスラム街」ムーンライトながらは格下げだろw
当初から普通運用やライナー運用を想定していたから、格下げではないという反論もありそうだが。 >>34
座席指定料金は座席の確保を約束するだけのみ。
特急型である必要なし!
ムリに乗ってもらってるんじゃないんだから、嫌なら新幹線でも鈍行乗継ぎでもマイカーでも好きなもの選べばいいんだよ。
座席の回転機能とリクライニング機能をロックしたっていいくらいだ。 >>28
魔改造じゃなくて新品の車体に載せ替えたんじゃなかったっけ? 格下げじゃないが、特急()車両使用の乗り得普通列車減っていないかな?
グリーン解放に至ってはさらに。
コイルばねキハの九州特急は格上げかな。
北斗星ツインデラックス上段はハネのふとん流用の格上げだな。
こまちリレーの座席のスカ線グリーン車転用も格上げ。 山陰本線特急「あさしお6・7号」(鳥取〜米子間快速)、
豊岡・城崎〜米子間の普通172D、折り返し快速3173Dはキハ181系を使用していたが、
特急車の格下げではなく特急の間合い運用だったが、特急券なしで特急車に乗車でき、
通学の高校生や通勤のサラリーマンにも好評だった >>34
ムーンライトながらは大垣夜行からの格上げだ
指定席料金とかとるんだから
おかげで網棚に寝てる人とかいなくなった
今思い出しても異常だった 国鉄急行型車両で、近郊型改造に伴い、車端デッキ部分を完全に撤去したのは、北陸本線にいたクハ455-702位かな?
デッキ扉の撤去であれば、多くの改造車で車端ロングシート化と共に実施されているが。 >>43
四国かどこかのキハ58も仕切りの大部分を撤去して通勤型に化けたのがいたはず 湘南型80系は、2ドアで元からデッキ無し。全金属300番台も。戸袋ロングシートも番号あったし、準急で指定席にしていたのだな。そこ乗った記憶ある住人いるかな。 >>12
格下げ後も冷房と固定窓はそのままだったっけね 特急型、急行型から近郊型への格下げも考えれば、153、163、165、181、183、485、489のサロがサロ110に改造されたが、これだけ多種のタネ車が一つの形式に格下げ改造されるなんて他にないんじゃないか?
当時、仕事でよく東海道・横須賀線を使っていてサロを愛用していたんだけど、どんなにサロに当たるか毎回楽しみだった。
同じ料金なのに天と地との差があることもあったけど、それぞれの出自に敬意を表して乗ることが醍醐味でもありました。 国鉄電車の旧1等からの格下げは10年と結構長期。
しかし客車の並ロは2年くらいでロングシート化されたから瞬殺に近い。
走行中もたった一度しか見ていない。
中央東線新宿からの普通に転換座席のオハ53。強烈な印象。青モケだったかと。
乗った住人、ましてや写真あれば凄い。 そういやうちに白地に黒文字で2等代用
と書かれたサボがあった。
確か端っこに静と書かれていた。 >>15
混雑する時間帯は、最後尾になる展望席の所の床おきクーラーの上に座ってる高校生をよく見かけた。 昭和40年代前半までの車両図鑑は白黒ばかり。
車内、座席のカラー写真が貴重というか、無いことが多い。アーカイブ出版にも当然出てこない。 20系ブルトレの末期ナハ21も格下げ。おがで乗った。 Pの床置クーラーが5人掛座席だったのは、暗黙の了解だ
何しろ収容力のない車両だから、立客はアソコにも入らざるを得ない
5700なども最後部の隙間に人が入れる
登場時は今より混雑がひどかったし、背後霊のように立ちはだかるしかなかった 2扉から3扉になって特急用から急行、普通用になった
西鉄2000系もある意味格下げ車だろね。22年前(1994年)福岡に
仕事で行ってその帰りに西鉄に乗った。どの駅からだったかは
忘れたがその駅は特急通過駅で停車していた2000系の横をロングシートの
5000系がかなりのスピードで通過していたのを見て2000系に哀れみを感じた。 >>55
阪急2800系と京急2000形も同様か。 近鉄の2200,2250,6421,6431 どれも、鮮やかのツートン塗装や冷房装置を
撤去されたらタチマチ威厳や魅力が失せた。
もっとも冷房がダクト他車供給するようなシステムでは、撤去しなくても早晩効きが悪く
なっただろうな。 6421や6431は養老線時代しか知らないが、その頃にはただのオンボロでしかなかった
かつて有料特急で名を馳せたと言われても、変わり果てたあの姿に栄光などなかった >>31
クハ77のタネ車はサロ75ではなくサロ85だよ。
東海道線からスカ線に転属して70系とのの混結改造を受けた
サロ85の格下げ車だ。 京急の600(二代目)は中小私鉄への譲渡車を除き、京急線内では格下げ改造されず2ドアのまま86年に引退した。
冷房化で車体にガタが来てたからかな?それとも、1000系などに比べると加減速製造で劣り、各停運用に向かない車両だったからか?
同時期に出た西鉄1000形が冷房化、3ドア改造されたのに比べると、対照的だなと思ってね。 もっと対照的なのがあった。18m2ドアから4ドアに格下げ改造された京急500形。
改造は小田急2300と同様なやり方だが >>61
西鉄1000形は特急車時代も間合い運用で各停に入ってたしね
元々西鉄は高速重視のセッティングなのが伝統
5000形とか国鉄特急電車並みのギア比だったかと 京急600IIは
2000への置き換え時点では
各停最適化された700,800が
あって改造するまでも
といったところか
3連を組めないとかもあろうし >>57
元キロは101だか。各1両のエンジン試作車だっけ。 キハ53-100はほぼ急行【からくに】専用車だったのに単独区間が快速に格下げされた後に廃止されその後も山野線中心で生涯を終えた
ただ、急行運用に入って無ければ見た目只のキハ53なので普通列車に入ってても格下げ感は薄かった >>66
715系とはハネーネ=ハと思い、昼行運用の583系並みなんだろうと期待して乗ってみたが見当外れでした。
寒い!揺れる!ガタガタ!安普請感満載!
旧客の方がマシでした。 特急格下げスハ44、銀河2号姫路行きに2両つながれていた頃、東京駅に着いた上りにちょい座るのみで、記憶も薄い。働いてから自力で乗れた銀河は20系ナロネ21。うぐいす色的なモケット。 ナハ21、元ナロネということでワクワクしながら乗ってみたが
ワンボックス4人はきつかった。ナロネ時代にヒルネ利用のG車
として4人詰め込まれた日にゃーたまらんな。 >>70
ヒルネのグリーン車指定席では窓際にきれいに左右一列ずつ。4人はぶちこまれないよw ヒルネのA寝台は1区画2人じゃなかったか?
G券買ってまで乗る人は、まず居なかっただろうけど 京急の2000は、格下げが寿命を短くしてしまったと思う。
2100より恰好好いのに残念! ナハ21、当初設計以上の定員となったので車内換気が悪かったとか。
荷物棚のない車両もあったそうな。 荷物棚が無かったのはナロネ21をそのまま座席使用した奴な >>74
津軽の3両自由席に使ったら混んで不評で季節列車おがに転出したんじゃなかったか。 岡山で停車中に乗ったクハ85と松本で乗ったクハ85
同じ系列と思えないくらい印象が違った。
岡山は極端に言えば霊柩車、松本は近代化の一般車
どちらも運転席裏のデッキが以上に広かったと思う。 >>77
ゼロ番台は、青い座席しか遭遇せず。松本の全金属300番台は赤い座席。同時期の大糸サハ45も赤い座席。擦りきれると青いモケに換えられていったようだ。 >>79
地域によって回転可能なままだったり、向かい合わせに固定していたりだったな。 >>79
北上線でエンジのモケットのキハ26-400を見たことあるよ
九州のは紺ばっかりだったけど 九州ではキハ28.58.65の改造が多くて
キロ格下車、キロ発生座席乗せ換え、
特急普通車座席(非リク)乗せ換え、
更にクハ455の600番台等多種多様だった。 国電には戦時中の輸送力増強目的以外で扉増設格下げがないのは何故?
あっ・・・でも、581,583 は、該当事例か?
急行型の扉増設近郊型格下げとかあってもよさそうなんだが・・・ >>83 711系のクハ711中央扉増設車は?
年数経過した車体にドア増設して使用し続けることが、コスト・パフォーマンスから見て優れているかという問題。
2ドアのまま、地方線区の普通運用に回した方が、サービス向上にもなるからだろ。 >>82
お陰で12系、特に「かいもん」「日南」は逆に
グレードアップしたりしてるんですよね。 >>85
あの程度で魔とか魔改造ってどういう意味なのかな 魔改造ってニコニコでも見てきたんだろ
巣におかえりください >>84
末期は増設した中扉の辺りで雨樋がひしゃげててヤバかった 東海道線の平塚側のグリーン車は元特急車両で屋根の低い格下げ車がよく組込まれてた。
内装は特急時代のままで足台もついていてシートピッチもかなり広かった。
いつもそれに乗って通勤していたなあ。 客が多い横須賀線では、重装備48席より軽装60席を要求されたとか >>93
それが原因でサロ113がほとんど全部が関西に追い出されていた。
あのまま返却されずに使っていたら、関西向けにもサロ110-1200番台が作られたし、
改造車グループにもサロ455改造車とか485/489サロ改造車がまとまってあったかも知れない。
221→223系になってもグリーン車は作られ、連結されていただろうな。 >>97
関西の快速はグリーンなんてガラガラだったからな。
減車した際に間違いなく廃止されてるよ。 グリーン車並みとは言わないが
京阪神には新快速が設定されていたから 117系は違った姿だったかもしれん
グリーン車の差別化ができない 関西の快速G車は本当にガラガラだった。
滋賀や播州の遠距離利用者が多い今、
新快速につないでもダメかな? 新幹線や特急の区間利用で
ある程度まかなえるしなあ 親の実家絡みで左沢線に乗っていたが、キハ26 400にも2度乗ったが、シートがくたびれてて有り難みは薄かった。
あの時分はキハ58修学旅行仕様車やオハ41 2100(旧オロ40)に目が行ってた。
オハ41絡みだと、旧オロ36のオハ55が1両だけ長岡に1971年7月まで残っていたが、只見線用だったのだろうか? 名鉄キロ8101→キハ8101
キロ8151→キハ8151→キハ8102 >>104
窓幅が広すぎて2人がかりで開け閉めしたって車両? >>106
自分が乗ったのは窓幅1200ミリの旧オロ40だったが、当時中坊だった身でも開閉はしんどかった。
ましてや窓幅1300ミリの旧オロ36ベース車なら‥‥。 >>106続
オハ55で最後まで残ったのが、旧オロ3614のオハ552114。
オロ40の方じゃなかったのが意外。
オロ36は窓の開閉が困難とクレームがあったのは確かで、第二次生産はオロ40に移行。
当時(昭和13〜15年頃)、1300ミリ幅ガラスは規格外品だったので、準戦時体制下のメーカーはいい顔しなかったろうし。 ついに客車の格下げに乗った人が降臨か。短期だったからな。リアルで走るの見たのは小学生高学年。中央東線鈍行にオハ53転換シート。感激も座席色まで覚えいない。
一人旅始めた中3にはロングシートのオハ41ばかり。ふとんは軟らかかった。 ←660→←1300→←660→ が
←760→←1200→←760→ になってる オハ41の場合、旧並ロの近代化工事未施工車の室内がいかにも投げやりで面白かった。
あれで臨時急行にも入ってたのだから恐れ入る。 昭和56年頃だったが阿仁合で窓の広い旧客に出くわしたが
オハ41だったのかな?
竜が森にオシ17があったころだった。 >>113
その時分、秋田には何両か旧オロ36・40のオハ41が在籍していた。
旧オロ36
オハ412002(56.12廃車)
旧オロ40 途中でやっちまった●| ̄|_
旧オロ40
オハ412053(56.8廃車)
オハ412101(58.2廃車)
以上3両。
ただ、奥羽・羽越線や男鹿線ならともかく、阿仁合線で運用していただろうか? 並ロの去就知りたくて復刻配置表つきのピク買ったな。引っ張り出せたら。
改めて格下げ時期短過ぎだったのは覚えている。 山形には旧オロ42のオハ41もいたんだよな。
電暖ないから冬場はザワ線専用のはず。
ひょっとしたら見ていたかも知らんが、当時は鉄ガキじゃなかったからな。勿体ない事した。 並ロ客車の車内写真がたくさん。鉄道と野球という、野球雲叢書8。巨人軍の遠征移動中の写真。転換座席がほとんどだけれど貴重。 興味深い書物ですね
列車の費用は球団持ちということは、読売みたいな金持ちは良いとして、
広島などの貧乏球団は三等ばかりだったのでしょうか 国鉄が球団を持っていた時代はどうだったのでしょうか 弱かったら儲からないのは当然
儲からないなら選手の待遇も悪くなる
これも当然 今はプロフェッショナルとして世間の視線は向いてるが
昔は道楽扱いだった
いい年して球を抛ったり棒を振り回したり、みたいな言われ方してた
長嶋や王など一握りだけが求道者みたいに奉られてた >>13
京阪1900系、冷房改造・5連化後はほぼローカル運用専門になったけど、
最末期の「K特急・おりひめ」充当時には(12回しかなかったけど)、
蝶ネクタイのような鳩マーク付の姿に魅せられてたよ…
一般車にはなっても、あの鳩マークが付くと魅力が数段上がったってのがね やっぱりあの銀色に輝くバンパーのおかげだよ
ローカル専門になっても特別の風格があったもの
所用で関西に行くたびに必ず撮影してた >>120
逆シングルの白石の伝記かなにかに
夜行列車の3等車の床に寝て移動したとの記述があったよ
他にも、遠征先の旅館で夜ご飯すらまともに食べられず、
見かねた旅館のお偉いさんが、庭の置物を売って選手達にご飯を食べさせた話とかも載ってる ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ >>127
そだね
でも花形で居られたのは僅か数年という不運
3000系の投入はもう少し後でも良かったかもしれぬ 1900が出て間もなく、冷房の普及が始まったからなぁ
有料特急だけの贅沢品から大衆化
それだけ、世の中の進歩が速かった 阪急2800京阪1900
特急としては短命だったけど小田急2300近鉄6431よりはましだよね 阪急2800の末期のくたびれ方もアレだったが、近鉄420や430は問題外
華やかな時代をナマで知らないから、養老線がゴミ捨て場にしか見えなかった
その後、600系列が入って冷房化・新塗装化したのは革命的だったが、
アレから20年以上経って再びゴミ捨て場の状態に 阪急6300も京阪3000も、最初は増車分のみ製造だったが…
気づいたら代替が始まり、2800や1900と総入れ替え
両社とも、新型と旧型で天地の差だったから、早期格下げも仕方ないわな >>133
養老に捨てられた6421達がさえなかったのはあのくすんだ近鉄マルーン塗り潰しが要因ではないかと昔から思ってる >>135
同じ近鉄マルーンでも、
養老や伊賀にいた古物は本線所属の新型車の色よりも鮮やかさに欠け、
見た目には映えなかった 阪神3561がかの名車3011の成れの果てとは分からなかった
晩年、西大阪線で何度も乗ってたのだが‥ 格下げというが一応本線にいる頃は特急や急行には使われてた
改造されても赤胴の仲間に入れたからね 京阪1900系が早期に定期特急運用を離脱した元凶は、
主電動機の出力が75kwだったからだろうね。冷房改造するにはあまりにも非力。
昇圧準備工事の際、絶縁強化で出力が90kwに上げられても冷房改造は見送られたんだから。 1963年1900系登場
1970年3000系登場
エースの座 7年
これは短い 1900系の乗り心地は良かった。特にKS-70台車。
格下げ時にバネ定数を高くしたらしいけど、それでもあの乗り心地だったんだから、
特急車時代の乗り心地は更に良かったんだろうね。
乗り心地に関してだけは1900系>初代3000系、という評も頷ける。 >>140
クッションが悪かった記憶がありますね。
へこんだままのような感じがしました。
>>135
スピードが遅く揺れが多かったためもある
と思います。
個人的には二灯化しないでほしかったです
ね。間延びした印象でした。 ナロネ21を格下げしたナハ21 これは快適だった。「十和田」だったか「銀河」だったか覚えてないが、乗ったのは確か。 急行あおもり
札幌まで延長して急行さっぽろとはいかなかったが。 >>147
色を塗り替えられたから?
お上品なローズレッドは
京急や名鉄の「赤」とは一味違った >>148
4人乗ったら結構広い実感はなかったです。
乗ったのは大山と思いました。 キハ26400(大船渡線)と600(中央はクロスシート残った車両あり、宮之城線)
あとはキハ285000には四国の夜行普通でお世話になりました
座席はやや貧弱のような印象、もちろん固定でした
電車だと、サハ75(飯田線、中央西線)、クハ75(信越線)、サハ85(上越線)、クハ77(両毛線)
クハ85には乗れなかったです
大糸線と身延線のサハ45は何回か乗りましたが、隣のクモハ60などに比べて人気でしたね
深く座れるシートは少しだけ優雅?
それに比べて、客車はオハ41しかないです
オロ36の改造車はどうも写真がなく残念、オロ40改造車はありました
乗車は夏ではなかったため、窓開け体験はできませんでした >>154
初めから三等車だけど、つばめ⇒はつかり⇒急行用だと、確かに「格下げ」になるかも。
自分は「銀河」で乗ったけど、古くて汚い、といった覚えしかありませんでした(笑) 西鉄のつり目フェイスこと1300は初め一般用の構想だったが特急増発時に当時の特急車1000系では足りなかったために先頭車のみを改装して特急色に着替えた「格上げ車」 近鉄のかもしか号も格上げ車の一種に入るかね
伊勢路を快走する生涯のはずが流転の末吉野山を登る仕事に就くとはよもや想像しなかったろう HC85系が入ったら現状のキハ85は急行用に格下げされるのだろうか 急行のりくら・たかやま(名古屋〜飛騨古川〜富山/大阪〜飛騨古川)
現状はひだ号の下に普通しか無いやん >>157
更にその後養老線に移って終焉を迎えたね
生まれ故郷の三重県には一応帰ってこれたことになる >>161
急行新設する訳ないだろ
キハ85は廃車だろ キハ85、会津鉄道に譲渡されたキハ8500が停車駅の多い運用には向かず早期に廃車されたことを考えると、小湊のような地方私鉄への譲渡もなく消えていくのではないかな。 >>157
元伊勢電がかもしかに格上げされた頃には既に名阪には新型特急が投入されていたのに
なぜ中古の改造でお茶を濁したのかな
スター不在の南大阪線で吉野行優等は看板でしょうに シートの換装にとどまらず車内放送装置を置いてかもしかの生態説明や鳴き声の音声を流せるようにするなど、戦前製の旧型車の使い回しには過剰とも思える その頃は難波線や鳥羽志摩線の工事増強で予算が無かったのよ 伊勢電特急時代から格下げされて近鉄かもしか号のときに格上げされてまた格下げされたわけね 近鉄がなぜこの形式を標的にしたか…
いろいろ妄想をめぐらせられる そんなに造りが良かったわけでもなかろうに
しかも元伊勢電だから吉野には何の縁もないし
格上げ後10年ほどでまた格下げしてるし
たしかに興味深いわ 今月号のピクで特集がある
格下げと格上げを両方特集してる 近鉄680,683系も変遷が激しいよね。
格下げ後は志摩線や鮮魚列車に使われたのは寂しかったけど、
三交の車両に比べると幸運だったと思う。 近鉄サ2601,京阪16,南海サハ1900,阪急1500など、
貴賓車から一般車に改造されて窓まわりなどに往時の面影があっても、
一両だけだから異端車になっていたのは哀しいね。 でもかなり後まで使われていたのは車両不足だったからだろう
現在だったら即廃車だったろう 名鉄にも一両いたようだが晩年は一般車に改造されていた 白井氏の本に載っていたのは安城支線で一駅のピストン運行に従事していた写真
単行で少ないお客を運ぶさまは物寂しかった >>180
まあでもその時代は少なくたって旅客乗せてたんだから良いじゃん
貨車牽引専用時代もあったんだぜ 近鉄モニ2300形(旧参急デトニ2300形)の特別室は、
戦後は特別料金は徴収せず一般客に開放して、1972年の廃車まで使用されたらしい。
長年使われたのに、あまり乗車記事や画像など見かけないからわからないところが多いね。
ウィキに「側廊下は荷物室寄りの運転台側に設置され」と記されているけど、
宇治山田方向から運転台荷物室の次位が特別室だから、位置関係のつじつまが合わないと思う。 サロ110-501(←サハ165)
急行型→近郊型:格下げ
普通車→グリーン車:格上げ 国鉄末期の四国内
キロ28→キハ28-5000
ロザ→ハザ クロハ455-1 モハ454-40 クモハ455-40
当時 ビバあいづとクロハ車の連結位置を合わせたいとの理由でこの編成だけ電動車ユニットが上り方に来る状態になった。
ビバあいづが無くなり この編成自体も格下げされ455系他編成と混用されるようになっても 最後までその逆向き状態のままだった。 近郊型レベルの内装で有料にされるとちょっとキツいな サロ45の格下げ者でも
身延線の008や012は2ドアのサロの形態のままサハ化
御殿場線のサハ78023(←サロ45002)、サハ78030(←サロ45009)、サハ78401(←サロ45003)は
4ドアロングシート改造車
まったく別の車両になってしまった 旧国32系グループの中の皇族用車、のちに独特なドア配置のまま伊東線で使われ
最後はドア移設して目立たなくなり岡山で生涯を閉じた クロ49→サハ48040/041ですね
見たかったですが、残念ながら1976年に岡山で廃車の様で間に合わず
途中のサロハ49の頃の画像で、2ドアなのに端部と中央ドアが違和感大、すごいと思いました サロ85→クハ77
初めて見たとき、先ずその外見が103系の高運転台車みたいでたまげたが、
さらに車内に入ると豪華な座席に腰を抜かしてしまった 近鉄の鮮魚列車も格下げ車両が代々使われていた
大阪線のエース2250系のクハを格下げした車両が印象に残る 山陽は2ドアクロスで登場させておきながら普通に使ったりまた特急に使ったりと格下げ格上げを繰り返した
2000系のステンレス組 200(σ・∀・)σゲッツ!!
200キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
200(・∀・)イイ!!