大正時代の思い出 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>234
まだあるんですね。
今度行ってみます。 >>235
クルマで行くならラウンドアバウトの通り方確認しとくといいよ >>236
アドバイスありがとうございます。
家の近所の駅にも小さいのはあるんだけど、大掛かりなのは未経験なので、
まごついて事故起こすことがないようにします。 ええと・・・
優先順位は、
1.ラウンドアバウトの出入口を横断する歩行者
2.ラウンドアバウトから流出する車両
3.ラウンドアバウト内を走る車両
4.ラウンドアバウトに流入する車両
だっけ?? 大正と言われて思い浮かぶのは
祖母:大正4年東京市生まれ
名鉄モ510:大正15年製造
丸窓電車に乗った時の感想は「ばあちゃんが尋常科の時の電車か」。 ごーめんねー♪ ロータリーの道と♪
また比べている〜♪
ってアラフィフ以上じゃねーと通じねーだろ! >>242 この数年後、昭和2年頃には19m級車体の新京阪P6や全金属製の東京地下鉄道1000形が出てるんだな。
15〜17m級半鋼製車体が主流だったが、転換期を迎えつつあったということか。
P6にしても構想、設計は大正末期から進められていたわけだし。 >>243
三浦祐太朗がカバーしてるし知ってる奴多いだろ
まあ通じなくても問題ないしなw >>242
ほんの20年位前まで普通に走ってたね。
琴電もそう。
車内に入って銘板見て大正の文字見た時はめまいがした。 ♪ 長さがちがう
♪木と鉄ちがう
♪重さがちがう〜
ごめんねー
大正の客車とぉ
今較べているぅ >>246
電装品や部品単位で見たら近年までつかわれてた会社もあったな、京津線の500型はハンドブレーキのハンドルだけデカイ年代物だった。
ってそれも20年以上前の話か ハァー 1067mmのゲージは日本の鉄道開通から今まで使われているね。 連結器が違う♪
ごめんねー
鎖の連結器とは連結器出来ないのぉ♪
ってクセになったじゃんよ。誰だ百恵持ち込んだ奴!
しかしどんな犠牲払っても大正時代に改軌出来なかったのかねえ。
シベリア鉄道の貨車とか見ると貨車のでかさの違うが国力の違いだと
感じられる。 そこはなぁ。
庶民宰相こと原敬の政権がが改軌よりも敷設拡大を優先したから。 中国とロシアを直通する列車は国境で台車交換するという。
タルゴタイプの台車にすれば時間短縮になりそう。 スペイン風邪の電車汽車の中ではマスクをしませう のポスターは室内が
木製ニス塗りなのと絵そのものに味があって何だか懐かしいねえ。
昔黒板にこういう絵をサラサラ書く先生がいたような気がするねえ。
懐かしいと同時に今日的話題、アップつうデートだねえ >>253 標準軌だから貨車が大きい、イギリスは?
標準軌化してもカーブや踏切の多い路線のままでは高速化できないし。 >>257
今更標準軌化することはないと思うけど、限界にあった車両を開発すればいいんじゃないの?
日本のミニ新幹線みたいに・・・ >>258 その回答の一つが振り子車や車体傾斜制御だろ 日本の鉄道もスリランカの鉄道ももともとイギリスの援助で作られたね。
なのにスリランカは1600mmより幅が広いゲージが使われている。
日本よりはるかに小さい国なのでナローゲージかなと考えていたが、以前旅行してびっくりした覚えがある。
日本も導入時に広軌にしていたらどうなっていただろうかと妄想する。 >>261 超広軌で大型車両の規格では参入しにくいので、軽便鉄道がもっと増える。
しかし、超広軌の国鉄との貨物連絡輸送が難しいのとバスやトラックに押され、軽便のローカル線は昭和初期から衰退し始める。
戦後はローカル線廃止が加速、地方の鉄道網は粗くなり超広軌の幹線しか残らなくなる。
スリランカがそんな感じでしょ >>262
確かにスリランカの鉄道はあまり有効に機能していない。
バスのほうが一般的だ。 >>264 瀬戸内行く汽船には勝てたけどね。
とは言え、旦那トンネルなどの長大トンネルはまだできてないから、難所を大きく迂回。 大正時代は15年と短く、関東大震災や、スペイン風邪に翻弄されたけど、それなりに
発展していたわけですね。 >>267
1901年(明治34)に八幡製鐵所が発足、それまでは輸入に頼っていたレールが国産化され、大正15年頃には国内自給率が6割程度に
レール敷設、輸送網の増強と、大正時代は目まぐるしかったんですよ 昭和といえば戦争、平成といえば災害、令和は天下泰平を願ったけど、いきなりコロナ禍とは・・・
早く収束してほしいね。 >>268
レールの国産化の影響は大きかったでしょうね。
それより古いレールの刻印には「カーネギー」とか書いてあるね。 以前古いレールを使った構築物を見るのが好きだった。
明治期のものとか見ると感激した。 古いレールの構築物って思いのほか残ってるね。
ほとんどが製造年70年以上は経過していると思う。
最古と最新の情報があったらほしいね。 小湊鉄道の養老渓谷駅近くの線路で1927年の刻印がはいっているのが現役で使われていた。
一応昭和だが2年だ。 駅まで9600を毎日見に行ったよなあ。
昭和49年。
何処の駅か当ててみてw >>274
9600は古いけど頑丈でパワーがあるから最後のほうまで残ったね。
昭和49年というと北海道か福岡かと思うけど、毎日見に行ったとの事から福岡の可能性が高いかな?
直方あたりかな? 羽沢横濱帝國大ステイシヨンから相模鐵道12000系が出発 275 最後の方というか文字通り国鉄で最後まで
走ってたのは9600だったみたいだよ。
昭和50年12月のC57 135が最後のSLという事
だけど、入換用として9600が昭和51年まで北海道で使われてたらしい。 それが日本のSLの最後で、その後徐々に復活していったわけね。 >>280
違うよ
1972年から西武山口線でSL運行開始してるからね
西武山口線は1976年12月17日から翌年3月18日まで路線自体が改修工事で運休するんだけど
この時には既に大井川鐵道でSL運行再開済み
なので日本でのSL運行は途切れること無く続いているのです 9600は殆どの車両が大正生まれだけど、現役では最後までがん 9600は殆どの車両が大正生まれだけど、現役では最後までがんばったね。 >>281
そうだったのね。
まったく途切れたらそのうちSLを運転できる機関士もいなくなってしまうからね。 8620はまだ頑張っちょーぞ。
って実は国内で外燃機関の技術絶やさない為の国策なんでは?と思う事あるな。水素とか次の世代のエネルギーが外燃機関になるかも知れんし。大正蒸機の現代日本への貢献はとても大きいが絶対量では昭和高度成長期のEF65とかには敵わないだろうし >>285
単純に両数だけでいえば、EF65は300両と少し。
D51,9600,DE10,8620,DD51,C58…に遠く及ばない。
あ、A8やB6を1形式として数えるとC58より多いか? >>284 1972年にSLの動態保存を目的として梅小路蒸気機関車館が開館し、そこで大型蒸気の技術継承も行われていたのでは?
当初は9600や8600の動態保存も行ってたし。この施設がなければ、各地のSL運行復活は難しかったと思うよ。 286 両数もそうだけど、色んな切り口で語るのも面白いよね。実際は非電化電化、直流交流交直両用とそれぞれの時代と持ち場で大変な貢献したのは間違いはない。その中であえて、東海道山陽の大幹線を高度成長期から今日まで走り続けたEF65の活躍を称えたい。形式としてはもうすぐ60年だよ。80年代は雑草みたいなものでフイルム36枚撮りで30枚超えると、何も撮らないで現像するの勿体ないから65でも撮っとくかって感じだったけどね。 ひどいのだとフイルム入れた時にちょっとケチって1枚目に送る前にちょっと移せないかな?って蓋閉めてろくに送らずに65の頭の部分が真っ黒だったり、現像するリールに張り付いてて定着だけされて65の頭が透明に抜けてたりするw >>288 大正時代のEF65って見たことないんだけど EF65といえばブルートレインを牽引している姿がまぶたに焼き付いている。 小湊鉄道の里山トロッコに乗りにいった。SL風機関車はディーゼルとはいえ良くできていた。
転車台はなく上りはバック運転で、先頭のトロッコに運転台があり、そちらで運転していた。 >>292
小湊鐵道のサイトによると汽笛は大正時代の本物らしい 敬老の日でご長寿のことやってたけど大正生まれで一番若い人でも現在94歳だそうだ。大正は遠くなってしまった。 >>294
大正最後の年である大正15年は西暦で言うと1926年だろ?
昭和への改元は12月25日だから
例えば大正15年9月23日生まれの人は今日はまだ93歳の筈だが 西武池袋線で通勤してるが、毎日、保谷で大正生まれの輸入電気機関車見てるんだが。
最近、またカバーがかけられた。 私は大正13年生まれだが何か聞きたい事はあるかね? 大正15年生まれの親父が死にました。
あとどれだけ生き残ってるのでしょう・・
その親父、以前SL水上号に乗せたら「これ、昔山手線で走ってた奴だな、煙突の前にタンクがある」などといっておりましたっけ。 >>301
世間では人生100年時代とか言われているけど、実際は非常に少ないね。 でも100歳以上が10万人以上おられるそうな。
うちの爺さまとその兄弟もその内だけど、
戦争にも行ったから軍人恩給を受給している。
軍人恩給受給者は男性だけだから、
もう数万人もいないらしい。 市役所の書類書く欄の生年月日のところにはいまだに「明」がある。
一番若くても今年108歳だね。 >>300
>大正時代に水洗便所はありましたか?
世界最初のトイレは水洗トイレだった 大正時代に水洗便所はあったんですね。
肥え桶を積んだ馬車が街を巡回してはいなかったんですね。 上野には大正生まれの白い服着た傷痍軍人が未だに立ってるな。
若いのに片足なくて可哀想だから1000円寄付した。 >>308
池袋にも居りましたな、傷痍軍人。鉄の義手でアコーディオン弾いてた。1970年頃からいなくなったと・・・ >>309 傷痍軍人も世代交代するんだよ。今いる人達は平成生まれかな?
>>310 少なくとも昭和55年頃にもいました。二世が混じってたかも知れないけど。
上野は2000年ぐらいまではアメ横口の当たりはまだ終戦後の暗さがあったよね。
ホームレスの人達に目を背けて歩かねばならなかった。ルーツは昭和20年代の
戦災孤児まで遡る暗い場所。 >>311
平成生まれの傷痍軍人とは?
イスラム国とかで戦った人?? >>316
復活しているところもありうれしい限りだね。 傷痍軍人の正体とは軍人じゃなくて工場とかで手足をなくした
という意味ですか >>319
単にどこも悪くないのにもっと貰えるからってそうなりすましてる人が多いってだけの話よ
結構有名だったからそれを知ってる大人は簡単にはお金を出さなかった 付属小学校から帰ったら、
爺さまが号外で広島付近で
下関行の急行が脱線転覆したって。
何人か偉い人も乗っていて犠牲に。
爺さまの友達が医者で、
救援に行ったら木造客車が壊れて、
その尖がった木片でケガをした乗客が多かったって。
そう言えば海軍軍人だった爺さまが、
海軍の歴史を習った時に、
木造帆船時代の海上戦争は、
大砲を撃ってそれが命中すると
木くずが飛び散って
その木くずが兵隊に刺さって
水兵に犠牲が出るそうで。 >>318
ごめん、勘違い。
可部線のこと。路面電車じゃないよね。 >>323
極々短距離だろと思ったら
あのルートで軌道が敷かれていた時代もあったんだね >>318 傷痍軍人もそうだが、人に話せる見せられると言うのは、ある程度離れて安全地帯にいたり被害がまだ軽かった立場の人やな。当事者は深刻な心の傷おってるから自分や周りの人間にはタブーとなってる。満州引き揚げとか具体的にほとんど語られんやろ。親族も知らんかったりする。ソースはオレ >>323
復活路線ではないけど、富山の旧富山港線が市内の路面区間に乗り入れたのは快挙だったね。国鉄時代に誰が予想出来ただろうか? 昭和天皇崩御と平成時代を知らずに亡くなった昭和生まれの著名人と芸能人のまとめ
竜崎勝、 藤村有弘、 三波伸介
5レンジャーの畠山麦も元自衛隊員で昭和50年代中ごろに自殺しているよね。
沖雅也
昭和58年に京王プラザホテルから飛び降り自殺。間もなく没後40年
昭和天皇よりも早く逝去した昭和生まれの俳優たち
大川橋蔵、 平田昭彦、 岸田森
まだまだ居るな。第1回日本レコード大賞を授与された水原弘の存在を忘れてはいけない。
平成どころかバブル経済すら知らずに死んだんだぜ、岡田有希子は
芸能人で昭和天皇崩御と平成時代を知らずに亡くなった芸能人で一番、最年少だったのは岡田有希子で、まだ十代後半だろう。
芸能人じゃないが梶原一騎とか
横綱経験者なら現役中に亡くなった玉の海以外に千代の山、3代朝潮。力道山は大正生まれ
プロ野球選手だと中日の伊奈努(通算53勝、昭和34年に16勝)が昭和9年生まれで昭和59年死去
昭和29年の首位打者レインズは昭和5年生まれで昭和53年死去
蔭山和夫、 久保寺雄二は昭和生まれで昭和に死去
外国人有りならルー・ジャクソンも
昭和天皇崩御と平成時代を知らずに亡くなった芸能人の大物は名前を連ねるよな
最大の大物は石原裕次郎だな。野球界で言えば、長嶋茂雄のような存在である。
今年は、たこ八郎の生誕80周年。
たこ八郎は、王貞治、張本勲と同じ年なんだが、生きていたら張本勲のような表情では無かったであろう。
そう言えば、昭和天皇崩御と平成を知らずに亡くなった昭和生まれの芸能人も少なくない。
石原裕次郎、田宮二郎、市川雷蔵、赤木圭一郎、たこ八郎、江利チエミ、小池朝雄、天知茂など
岡田有希子、坂本九、夏目雅子、堀江しのぶとかキリがない ――88(昭和63)年、8月の全国戦没者追悼式に出席した翌月に天皇は大量に吐血。
国内が「天皇陛下、ご重体」という報道で騒然となった。
御座所に呼ばれて伺うと真っ赤な血を吐き、下血もされていました。
震えながら始末をしていたら、陛下が「今日は満月だよ。その障子を開けてご覧、きれいだ」と言われました。
まるで首から下は自分ではないような、そんな感じでした。
床に伏せている陛下がなぜこの日が満月ということをご存じなのか。
最近になって、仕奉人(つかまつりびと)さんが大きな鏡を持ってきて、月をお見せしていたことを知りました。
実際、彼の死に様は悲惨でした。体中から血が噴出し続けて死んでいったのです。地獄の苦悩でないとは考えられません。
その日から111日に及ぶ天皇陛下の闘病生活が始まることになる。陛下は膵臓がんからの出血のため、大量の輸血が必要だった。
それは十二指腸に浸潤した腫瘍からの出血と思われた。
陛下への輸血のために自衛隊員が集められ、輸血が繰り返された。陛下に輸血された血液の総量は、3万1865ccに達した。
この輸血量は、身体全部の血液を10回入れ替えられるほどの量であった。
がんの末期状態で出血を繰り返す場合、延命のための大量輸血は行わないのが原則である。
しかし国民が見守る中、陛下の輸血を中止することはできなかった。
当時、尊厳死や安楽死などが、国民的話題になっていたが、まだ一般的議論には至っていなかった。
延命治療の無意味さも社会問題になり始めていたが、それを天皇陛下に当てはめることはできなかった。
陛下の病気は、それを議論するのによい機会であったが、誰もそれを口に出せなかった。
輸血の中止は、陛下の死を意味していたからである。
陛下は、昭和62年に弟の高松宮宣仁殿下を肺がんで、昭和36年には長女・東久邇成子さまをがんで亡くされていた。
陛下はご自分の病気の告知はなく、輸血を繰り返す対症療法だけであった。 その点、平成はあっけらかんとして幕が降りた感じがするね。 平成は短く感じたが、大正と比べてみると2倍以上の長さがあったんだね。 >>333
パパ31年間お疲れ様、あんちゃん頑張れって思っておられるのではないかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています