大正時代の思い出 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>213
官鉄八幡駅から山陽鉄道経由九鉄八幡駅までの切符だったら買えたんじゃないかと思うけどどうなんだろうね >>215
八幡駅の開業は1902年で国有化は1907年なので九州鉄道の八幡駅は5年弱の間存在してましたよ
通しの切符って連絡運輸の話ですよね?
運賃計算の話じゃなくて >>216
書き方が悪かったかな
当時の長距離は距離で降車駅が選択でき、関門海峡は汽船のため当然会社線が変わると運賃は起点キロから
八幡は優等の通らない1902年の戸畑線(海岸廻り)だったため
優等列車以外の九州の切符を関東、中部で購入出来るかは考えにくい
(旅行社手配の周遊券は別)
下関、または門司で九州鉄道の乗車券を購入したんじゃないかな さっきの地図(明治39年)
山陽鉄道の日韓汽船開航記事に
切符買い替えの手間なしとあるが、
これが鉄道だけなのか、韓国内の切符を指しているのかは不明
https://i.imgur.com/geBeUfD.jpg >>217
大蔵駅には優等停まりましたかね?
大蔵村の時代ですよね? >>218
ちゃんとその前に書いてあるじゃん
>又山陽線、九州線各駅及東海道線主要駅と京釜鉄道線との間に船車連絡通し切符を発売するが故
>途中切符買い替え手荷物預かり替えの面倒なし >>220
書いている意味が判りますか?
京城(ソウル)迄の通し切符は連絡船後開航後の話、国際線についての記載
215(明治32年)の二枚目の規約
(急行列車 神戸、三田尻間)
「但し官線と連絡の切符を所持せらるる乗客は右九駅〜」とあるので、連絡切符は有ったと思うが明確な資料は判りません
長距離は哩毎に運賃が変わる(切符が行先駅名表示なのか哩表示かは私には判りません)
明治39年の九州鉄道には優等ははしっていません(普通でも大蔵に停車しないものもある) >>221
>書いている意味が判りますか?
意味分からなかったら日本人じゃないレベルじゃん
そのまんまだよね
>京城(ソウル)迄の通し切符は連絡船後開航後の話、国際線についての記載
そりゃそうだよ当たり前じゃん
この人と話ししてると疲れるw >>221
>明治39年の九州鉄道には優等ははしっていません
だったら
>八幡は優等の通らない1902年の戸畑線(海岸廻り)だったため
これおかしくないか?
普通こう書かれていたら大蔵線には優等列車あったと普通は解釈するぞ >>223
何がしたいのか判らないが
資料のひとつ考え、
納得するものが有れば良いんじゃないの? >>224
>資料のひとつ考え、
>納得するものが有れば良いんじゃないの?
意味不明
何が言いたいの? >>222
ソウルのこと昔は京城って言ったんですね。 そう言えば100年前のスペイン風邪の時の車内でマスクつけませうの
ポスターは味わいがあるな。木造電車と思しき内装で乗客は和服、
だが黒いマスクが怖い。今のインフルエンザの祖先だから栄養衛生状態が
良くて暖房の効いたちゃんとした部屋で療養すれば治るものだった
らしいがな >>229
大蔵と八幡は別の場所
215の地図
戸畑と黒崎の間が八幡
大蔵廻りの時の八幡、戸畑の時刻表は見たことがない
海岸廻りは艦砲射撃の恐れが〜 >>232
今と比べてのんびりした感じがするね。
ロータリーが赴きあっていいね。 >>233
尾倉ロータリーは今でもあるよ
ちょい前に改修して車線とか変わってるけど >>234
まだあるんですね。
今度行ってみます。 >>235
クルマで行くならラウンドアバウトの通り方確認しとくといいよ >>236
アドバイスありがとうございます。
家の近所の駅にも小さいのはあるんだけど、大掛かりなのは未経験なので、
まごついて事故起こすことがないようにします。 ええと・・・
優先順位は、
1.ラウンドアバウトの出入口を横断する歩行者
2.ラウンドアバウトから流出する車両
3.ラウンドアバウト内を走る車両
4.ラウンドアバウトに流入する車両
だっけ?? 大正と言われて思い浮かぶのは
祖母:大正4年東京市生まれ
名鉄モ510:大正15年製造
丸窓電車に乗った時の感想は「ばあちゃんが尋常科の時の電車か」。 ごーめんねー♪ ロータリーの道と♪
また比べている〜♪
ってアラフィフ以上じゃねーと通じねーだろ! >>242 この数年後、昭和2年頃には19m級車体の新京阪P6や全金属製の東京地下鉄道1000形が出てるんだな。
15〜17m級半鋼製車体が主流だったが、転換期を迎えつつあったということか。
P6にしても構想、設計は大正末期から進められていたわけだし。 >>243
三浦祐太朗がカバーしてるし知ってる奴多いだろ
まあ通じなくても問題ないしなw >>242
ほんの20年位前まで普通に走ってたね。
琴電もそう。
車内に入って銘板見て大正の文字見た時はめまいがした。 ♪ 長さがちがう
♪木と鉄ちがう
♪重さがちがう〜
ごめんねー
大正の客車とぉ
今較べているぅ >>246
電装品や部品単位で見たら近年までつかわれてた会社もあったな、京津線の500型はハンドブレーキのハンドルだけデカイ年代物だった。
ってそれも20年以上前の話か ハァー 1067mmのゲージは日本の鉄道開通から今まで使われているね。 連結器が違う♪
ごめんねー
鎖の連結器とは連結器出来ないのぉ♪
ってクセになったじゃんよ。誰だ百恵持ち込んだ奴!
しかしどんな犠牲払っても大正時代に改軌出来なかったのかねえ。
シベリア鉄道の貨車とか見ると貨車のでかさの違うが国力の違いだと
感じられる。 そこはなぁ。
庶民宰相こと原敬の政権がが改軌よりも敷設拡大を優先したから。 中国とロシアを直通する列車は国境で台車交換するという。
タルゴタイプの台車にすれば時間短縮になりそう。 スペイン風邪の電車汽車の中ではマスクをしませう のポスターは室内が
木製ニス塗りなのと絵そのものに味があって何だか懐かしいねえ。
昔黒板にこういう絵をサラサラ書く先生がいたような気がするねえ。
懐かしいと同時に今日的話題、アップつうデートだねえ >>253 標準軌だから貨車が大きい、イギリスは?
標準軌化してもカーブや踏切の多い路線のままでは高速化できないし。 >>257
今更標準軌化することはないと思うけど、限界にあった車両を開発すればいいんじゃないの?
日本のミニ新幹線みたいに・・・ >>258 その回答の一つが振り子車や車体傾斜制御だろ 日本の鉄道もスリランカの鉄道ももともとイギリスの援助で作られたね。
なのにスリランカは1600mmより幅が広いゲージが使われている。
日本よりはるかに小さい国なのでナローゲージかなと考えていたが、以前旅行してびっくりした覚えがある。
日本も導入時に広軌にしていたらどうなっていただろうかと妄想する。 >>261 超広軌で大型車両の規格では参入しにくいので、軽便鉄道がもっと増える。
しかし、超広軌の国鉄との貨物連絡輸送が難しいのとバスやトラックに押され、軽便のローカル線は昭和初期から衰退し始める。
戦後はローカル線廃止が加速、地方の鉄道網は粗くなり超広軌の幹線しか残らなくなる。
スリランカがそんな感じでしょ >>262
確かにスリランカの鉄道はあまり有効に機能していない。
バスのほうが一般的だ。 >>264 瀬戸内行く汽船には勝てたけどね。
とは言え、旦那トンネルなどの長大トンネルはまだできてないから、難所を大きく迂回。 大正時代は15年と短く、関東大震災や、スペイン風邪に翻弄されたけど、それなりに
発展していたわけですね。 >>267
1901年(明治34)に八幡製鐵所が発足、それまでは輸入に頼っていたレールが国産化され、大正15年頃には国内自給率が6割程度に
レール敷設、輸送網の増強と、大正時代は目まぐるしかったんですよ 昭和といえば戦争、平成といえば災害、令和は天下泰平を願ったけど、いきなりコロナ禍とは・・・
早く収束してほしいね。 >>268
レールの国産化の影響は大きかったでしょうね。
それより古いレールの刻印には「カーネギー」とか書いてあるね。 以前古いレールを使った構築物を見るのが好きだった。
明治期のものとか見ると感激した。 古いレールの構築物って思いのほか残ってるね。
ほとんどが製造年70年以上は経過していると思う。
最古と最新の情報があったらほしいね。 小湊鉄道の養老渓谷駅近くの線路で1927年の刻印がはいっているのが現役で使われていた。
一応昭和だが2年だ。 駅まで9600を毎日見に行ったよなあ。
昭和49年。
何処の駅か当ててみてw >>274
9600は古いけど頑丈でパワーがあるから最後のほうまで残ったね。
昭和49年というと北海道か福岡かと思うけど、毎日見に行ったとの事から福岡の可能性が高いかな?
直方あたりかな? 羽沢横濱帝國大ステイシヨンから相模鐵道12000系が出発 275 最後の方というか文字通り国鉄で最後まで
走ってたのは9600だったみたいだよ。
昭和50年12月のC57 135が最後のSLという事
だけど、入換用として9600が昭和51年まで北海道で使われてたらしい。 それが日本のSLの最後で、その後徐々に復活していったわけね。 >>280
違うよ
1972年から西武山口線でSL運行開始してるからね
西武山口線は1976年12月17日から翌年3月18日まで路線自体が改修工事で運休するんだけど
この時には既に大井川鐵道でSL運行再開済み
なので日本でのSL運行は途切れること無く続いているのです 9600は殆どの車両が大正生まれだけど、現役では最後までがん 9600は殆どの車両が大正生まれだけど、現役では最後までがんばったね。 >>281
そうだったのね。
まったく途切れたらそのうちSLを運転できる機関士もいなくなってしまうからね。 8620はまだ頑張っちょーぞ。
って実は国内で外燃機関の技術絶やさない為の国策なんでは?と思う事あるな。水素とか次の世代のエネルギーが外燃機関になるかも知れんし。大正蒸機の現代日本への貢献はとても大きいが絶対量では昭和高度成長期のEF65とかには敵わないだろうし >>285
単純に両数だけでいえば、EF65は300両と少し。
D51,9600,DE10,8620,DD51,C58…に遠く及ばない。
あ、A8やB6を1形式として数えるとC58より多いか? >>284 1972年にSLの動態保存を目的として梅小路蒸気機関車館が開館し、そこで大型蒸気の技術継承も行われていたのでは?
当初は9600や8600の動態保存も行ってたし。この施設がなければ、各地のSL運行復活は難しかったと思うよ。 286 両数もそうだけど、色んな切り口で語るのも面白いよね。実際は非電化電化、直流交流交直両用とそれぞれの時代と持ち場で大変な貢献したのは間違いはない。その中であえて、東海道山陽の大幹線を高度成長期から今日まで走り続けたEF65の活躍を称えたい。形式としてはもうすぐ60年だよ。80年代は雑草みたいなものでフイルム36枚撮りで30枚超えると、何も撮らないで現像するの勿体ないから65でも撮っとくかって感じだったけどね。 ひどいのだとフイルム入れた時にちょっとケチって1枚目に送る前にちょっと移せないかな?って蓋閉めてろくに送らずに65の頭の部分が真っ黒だったり、現像するリールに張り付いてて定着だけされて65の頭が透明に抜けてたりするw >>288 大正時代のEF65って見たことないんだけど EF65といえばブルートレインを牽引している姿がまぶたに焼き付いている。 小湊鉄道の里山トロッコに乗りにいった。SL風機関車はディーゼルとはいえ良くできていた。
転車台はなく上りはバック運転で、先頭のトロッコに運転台があり、そちらで運転していた。 >>292
小湊鐵道のサイトによると汽笛は大正時代の本物らしい 敬老の日でご長寿のことやってたけど大正生まれで一番若い人でも現在94歳だそうだ。大正は遠くなってしまった。 >>294
大正最後の年である大正15年は西暦で言うと1926年だろ?
昭和への改元は12月25日だから
例えば大正15年9月23日生まれの人は今日はまだ93歳の筈だが 西武池袋線で通勤してるが、毎日、保谷で大正生まれの輸入電気機関車見てるんだが。
最近、またカバーがかけられた。 私は大正13年生まれだが何か聞きたい事はあるかね? 大正15年生まれの親父が死にました。
あとどれだけ生き残ってるのでしょう・・
その親父、以前SL水上号に乗せたら「これ、昔山手線で走ってた奴だな、煙突の前にタンクがある」などといっておりましたっけ。 >>301
世間では人生100年時代とか言われているけど、実際は非常に少ないね。 でも100歳以上が10万人以上おられるそうな。
うちの爺さまとその兄弟もその内だけど、
戦争にも行ったから軍人恩給を受給している。
軍人恩給受給者は男性だけだから、
もう数万人もいないらしい。 市役所の書類書く欄の生年月日のところにはいまだに「明」がある。
一番若くても今年108歳だね。 >>300
>大正時代に水洗便所はありましたか?
世界最初のトイレは水洗トイレだった 大正時代に水洗便所はあったんですね。
肥え桶を積んだ馬車が街を巡回してはいなかったんですね。 上野には大正生まれの白い服着た傷痍軍人が未だに立ってるな。
若いのに片足なくて可哀想だから1000円寄付した。 >>308
池袋にも居りましたな、傷痍軍人。鉄の義手でアコーディオン弾いてた。1970年頃からいなくなったと・・・ >>309 傷痍軍人も世代交代するんだよ。今いる人達は平成生まれかな?
>>310 少なくとも昭和55年頃にもいました。二世が混じってたかも知れないけど。
上野は2000年ぐらいまではアメ横口の当たりはまだ終戦後の暗さがあったよね。
ホームレスの人達に目を背けて歩かねばならなかった。ルーツは昭和20年代の
戦災孤児まで遡る暗い場所。 >>311
平成生まれの傷痍軍人とは?
イスラム国とかで戦った人?? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています