昔の上信電鉄を語る
1000系登場の頃は前途洋々に見えてたがね、あの事故ですべて暗転… 西武、東武、秩父、上信、上毛、蒲原・・・この辺の会社の古い電車が好きなヒトは大体ラップしている気がする。 来る電車みんなピンク、またピンク、またピンク…、自分は1000系が登場しても、なかなか
当たらなかったっけ。日中、下りに限り検札やってた時期があった。客室にドアスイッチが
あって客室でドア操作していた。その姿に憧れたっけなぁ…。 >>4 1000は意欲は感じるけど、背伸びしすぎて使い勝手を無視して造ってしまった電車だったのでは?
地方私鉄で3両固定なんで長電の初代OSカーの4ドア以上に無用の長物。
普段着にお金掛けない処か無頓着で、生涯数回しか着ない他所ゆきのドレスに大金を叩いた田舎娘みたいなモノか・・・
地方私鉄は、ランニングコストの面や需要喚起の面からもデータイムに使うクルマこそ最善の投資をするべきだな。
で・・・250が生まれたり6000が2コテになった訳だが・・・。 当時は朝・夕に3両編成、上りなんかも4両編成は日常だったしなぁ。
3両固定編成と言うのは自在性に欠けるものの、当時の上信の趨勢を考えれば中庸を狙って妥当性は
あったと思う。6000や250は旧型の淘汰もさることながら、列車交換設備をつくり時間短縮、短編成・
本数増加、急行・準急新設を行うと言った背景があったから、あのような形態となったわけだと思う。
3両編成以上は1000や200、250に任せればよい─、と言う考え方。 寝かせる
ダイヤ改正等で、速度を下げること
ダイヤグラムの斜線の傾きが鈍くなることに由来 間違えた業界用語事典スレに書くつもりだったのにスイマセン >>2
俺もデビュー早々撮影に行ったよ
それまでの垢抜けない電車からは想像もつかない洗練されたスタイルに魅了され、
一心不乱にシャッターを押し続けてたのを覚えてる。 >>7 元西武451(車番忘れた)と、当時のピーカー6000!
で、元西武は再起せず他界 6000は、暫く休眠。・・・
嫌なハナシだけど、上信に限らず、最優秀車両に限ってデカイ事故に巻き込まれるケースが多いよな。 デキが単機で踏切を作動させられず、クルマとぶつかった事故もなかったっけ? ド派手な塗装試験車デハ11
高崎の側線で幾度となくみかけた
テストだからどんな配色でも良いけど、
あのセンスは流石にチョット、、というレベルだったなw 意外と知られていないのが、目蒲線崩壊後
失業した東急7700の購入を検討したハナシ。 それ本当?
来て欲しかったな
20m車は冗長感があって好きじゃないw 冗長感w
西武車disるにしてももう少し別の表現があるだろw タブレット授受の名残とは言え、6000系までも右側運転台で新製されたなんて、ある意味、こだわり
としか考えられないんだが、社内に強力な信者でもいたんかい?
逆に左側運転台にしたらしたで「なんで今さら」とならないでもないけど…。 右側運転台は旧型車だとHゴム支持でよく分かるのだが
オリジナル新車ではよく分からなかったな 群馬県は上信には手厚かったがお隣の上毛にはどうだったのだろう? 「からっ風と涙」のロケで上信もドラマ制作のために黒一色の電車を用意したよね。
ドラマ中にはあまり出て来なかったけど。
今でこそリバイバル塗装とかで一稼ぎ出来るが、当時はどこの鉄道会社もそんな事はやっておらず、
ロケ電はたいがい下仁田の構内に停まっていたし、デキに電車を牽かせて愛好家を乗せて楽しませる
なんてことも当時は想像すらできなかった事。 昔、200形の普通に乗った時、えらく飛ばすのでスヒードメータみたら95km/h出てたんでたまげた