昔の福島交通を語る
飯坂西線に連接車のモハ5000、飯坂東線に細面のモハ1100が活躍していた頃の
福島交通の思い出話。 軌道線は物心つく前に廃止されたから記憶にもない
鉄道線は東急の3300や5000(アマガエル)が働いていた
アマガエルは駅出発時の出足がとても良かったし、静かだった。 赤蛙が入線したら東急から来た先輩の3300形(片運車)が一両だけ残って廃車になったけど、
最後の一両はどういう使い方していたの?
確かプロパー車と連結は出来なかったような・・・。常に池上線時代のトリオのまま朝ラッシュに使っていた筈だが・・・ 常に三両で走ってたのは覚えてるが、
一両だけ残して廃車されたのは知らなかった
確かに不思議だ 連接車のスタイルはなかなかイケてたよね
東北らしくないというかw モハ5000、デザインは良いとして
後継のモハ5100は普通のボギー構造に変えてるから
連接車は結局良くなかったのかな どうせなら走り装置の刷新にも大胆に挑戦してもらいたかったね
結局オリジナル車は全部ツリカケで終わってしまった 他の大多数がツリカケの中で一編成だけカルダンにしてもスピードアップなどできないし、
何か可視化されるメリットがあればよかったがなあ。 赤カエルはそんなに出足が良かったのか
東急時代は何回も乗ったが何も感じなかったなあ 昔は,学生風のカッコして
時間を適当に合わせて「森合から」といえば
簡単に福島駅から「脱出」できたんだよな。 如何にも馬面電車然とした1106もよかったし、
スマートな1115もよかったね(・∀・) 1970年代まで、舗装されてない地道を走る路面電車が存在していたことに驚愕 >>11
鈍いつりかけ車ばかりの中でなら青蛙ごときでも十分に俊足に見えるはずだ。
でもこれは仕方ないよ。 辛うじてモハ1200形に乗ることができた世代。
晩年の二燈化改造のお陰で締まりのない顔になってしまい
子供心に寂しさを感じたことを覚えている 2灯化改造の件、東急の3300にも及びかけたらしい
ちょっと見てみたかったw >>19
こんなの営業線に出したら駄目じゃんって言うくらい ニモ1、これが最高だったがキミ達見た事がないだろ? >>22
国鉄貨車なら昭和56年まで泉駅に乗り入れてたが >>21
朝ラッシュ時に二、三往復してただけ
これに当たれば身の不運に涙したものだw ちょっとスレチかもしれないけど、今でも全列車車掌が乗務してるのはすごいと思う。 >>25
なんか笑えた
ごく限られた仲間の中ではボロ電と呼んで
徹底的に貶してたわ 赤蛙は、転入当初 地元の子供から「電車マン」と呼ばれ結構人気があったらしい
・・・個人的には、数社ある東急5000の嫁ぎ先の姿では一番コンサバな容姿&塗装で似合っていたと思う。 >>27
どっちかというと造りの安っぽさなら1200の方が目についた 路面電車のほうが残ってたら馬面ノンステップ車両とか面白い車両が入っただろうに。 東急青蛙は、福島に来てからも車内広告などに東急時代のものがそのまま残っていた
映画の東映が東急と繋がってるなんて広告を見るまで知らなかった 大手私鉄から地方私鉄へ売却された車両で
車内に往時の広告がそのまま遺されてることはよくあるみたい
例の青カエルは、岳南鉄道や熊本電鉄に行った車両でも
広告が遺されていたという。 上田交通スレにも書いたが、ここにも東急から3300を買い取ってラッシュ対策に供したが、
車体内外の傷みが予想外に酷くて長持ちさせられなかったとか。
乗客には好かれてなかったのだろうか ゴメン3300の話は既出だね
ま、そのくらいガタが来てたってことで。 見た目でもあまり造りが良くないと分かったらしいからなあ 小さなネタだけど、飯坂線も各駅に鉄製の改札ラッチありましたね。
必要性も薄かったため、早い段階で撤去された駅もあったが、ついに桜水駅
も撤去されてましたね。
個人的には曽根田駅の2つ分ラッチがあったのが、かつての中枢駅の感じがして
好きでした。 朝となく昼となく夜となく、いつもにぎわっていた森合駅
「やまと旅館」と「パイナップルハウス」 そんなに森合駅が賑わっていたのですか。
駅の目の前に食堂があったのをかろうじて知ってます >>42
おれが初めて乗ったのが昭和51年くらいだったが。
すでになかったと思うぞ。 昭和51年の時点でなかったのですか。
券売機や補充券への切り替えが早かったんですね。
初めて乗ったのが昭和51年ですか。その頃の飯坂線を見たかったですわ〜 一見西武の電車のような色だったな。
福島駅の集改札はまだ国鉄に依存。
電車のダイヤは今と同じで日中25分間隔。
電車とまったく並行して福島駅〜飯坂温泉のバスが
1日4往復くらいあった。
切符は、窓口で買っても金額式ペラ券。 福島駅の集改札は国鉄改札口でも対応してましたか。
福交の改札口もありましたよね?
立ち食いそばが隣にあったような・・・ >>46
昭和50年だと、福島駅の改札は国鉄のみ。
だもんだから、どこから乗っても福島では「森合から」の一言で
逃げてしまう客が多くなり、
その後改札を分けるようになりました。 それは初耳でした。国鉄の改札口だから「森合」からの虚偽申告の乗客に対しても
国鉄職員の改札掛は、疑いもせず淡々と対応してたんですね?
分けた後の改札からしか見たことが無かったので大変興味深い話でした。 電車の到着時間に合わせて、学生風の若者が「森合」といえば、
100%大丈夫だったとか。精算所からは福島交通の電車のホームは
見渡せない構造でしたので。 >12 でも出ていた件は、この事だったんですね
改札は国鉄が受け持っても、改札付近には福交の出札(定期売り場)はあったんですよね? 定期買うなら、国鉄の窓口で買ってたんですか?
ちなみに、福島駅の飯坂線ホームで駅員が乗降終了の合図出してた頃
ありましたよね? >>52
定期は、国鉄の窓口か、駅を出て右側の福島交通のバスの窓口かじゃなかったかな。 そうでしたか。ありがとうございます。
いずれ福交の駅員は、出札・改札業務は行わず国鉄に委託していたのは
初見でしたので参考になりました。
かろうじて子供のころに、阿武急開通前の飯坂線乗り場をかすかに
覚えている程度の年齢なので昔の飯坂線のネタはおもしろいですね いつまでも似たような返答だなあ。いつまで気になるんだよw 福島交通に送り込まれた刺客だね。
彼が社長になって、阿武隈急行が実現したな。 でも最初は、反対してたよな。
阿武急開通によるバス路線縮小による余剰人員を阿武急で引き取るから
合意したはず 合意してからは、一転
本気で国鉄からの急行列車乗り入れを考え、交流電化。
それでいて福島〜槻木間の運賃もJRより安く設定(現在でも紙乗車券で同額、IC運賃で3円安)。
なかなかのヤル気であった。 小針氏は相当のヤリ手で、
「福島交通」を一旦倒産させて、全従業員解雇。
翌日「新福島交通」を発足させ、改めて従業員採用。
しばらくして「新福島交通」を「福島交通」に改称。
・・・などという荒業をやったこともある。
バスなんて一晩で「新」の字を加える(シール貼)作業をして、
一晩で「新」の字を取る作業をした。
徹夜だったのだろう。
電車のほうは覚えていないが同様のことをしたと思われる。 飯坂電車はかなり客が減ったのにまだ黒字なんだな。
今まで廃止話が出た事は無さそう ちなみに軌道線の廃止は、乗客減少による赤字では無い。
むしろ増加傾向にあった気がする
交通渋滞も正直福島市内の一部だけだから、もう少し延命はできたはず
しかし、当初昭和50年に丸森線の全線開通の予定だった事や軌道線のせいで
道路拡張ならびに舗装工事ができない箇所がいくつもあり、むしろそれが問題視された
また、路線バスのワンマン化・大型車化が当たり前になり、バス輸送でも
充分だったからという説がある。 採算が取れていたにも関わらずクルマ社会の論理に押されて姿を消した路面電車…福島交通、大分交通、静鉄清水市内線。 スレチで恐縮だが
静鉄のケースは自然災害が原因
ところで軌道線廃線後、所属車両は一両たりとも他社に引き取られる事なく
スクラップされたのだろうか 特殊な規格過ぎて他で使える場所はないでしょう。
まぁ少し時間をおいて出てきた類似コンセプトが名鉄モ600型であるわけですが。
でも急行運用をかなり意識しているわけで、福島の車両ではたぶん美濃町線には性能不足。 あとねえ。鉄道は交通の道具に過ぎないわけだから、人間が選んだ選択に道具が異議を唱えるような意見は間違いよ?
軌道に先がないのは分かりきっていたのだし、国民は自由にマイカー時代を歓迎したのだから、マイカーの存在に合わせた体制は正解なのよ。
旧共産圏のように個人のマイカー私有を禁止するような体制ではないわけでしょう?旧共産圏では路面電車の新設が戦後遅くまで続いたわけです。そういう政治体制を理想とされるのですか?
愚痴も度がすぎると変な事になるよ? 最後の新車が廃線後にどこやらのレジャーランドで
廃墟同然の姿で展示されていたのには心が痛んだ
鉄道(車両)に理解がない人間に引き取られたら不幸だな 軌道線の車両は
@福島市児童公園 →90年代前半に撤去
A瀬上小学校 →現存
B保原公民館 →現存
C粟野小学校 →90年代前半に撤去
D霊山こどもの村 →現存
E伊達東小学校 →昭和後期に撤去
F那須ロイヤルセンター →2両あったが施設閉園に伴い撤去
私が知る限りではこれくらいです。
鉄道線の5300形は、栗原電鉄に譲渡されたのち5年弱の使用で、後は廃止まで
若柳構内で留置されてましたね。1両は自転車置き場にされてたから
車内の出入りは自由でした。 >>68
屋根なしだと確実に劣化するが、
屋根があったらあったで邪魔なんだよなあ 保原公民館のやつは、最近復旧作業が終わって綺麗になったけど、
屋根無しなんだよな。仙台の保存館みたいな施設を作るのはムリ
なんだろうか。 まあ
屋根あり 屋根メンテしないとね
屋根なし 車両のメンテしないとね
だから結局放置状態なら屋根付きの方が多少延命出来るだけだろう 聖光学院惜しかった。
軌道線車庫の最寄り電停名でもある同校、今大会出場選手の親御さんが生まれた頃だろうか、
軌道線の廃線は。 >>73
でも屋根はその気になれば丸ごと交換できるけど、車輌はそういうわけにはいかないからなぁ 聖光の学生さんも昔は電車使って通学してたのでしょうか そりゃあ地名でなく「聖光学院前」という電停があった位だから
ねえ。当時も高校通学の需要は大きかったのでは。 >>78
昔は新学期になると各学校に通学定期券の出張販売もあったって 小学生の頃、祖父ちゃんと飯坂線に乗るといつも織田大蔵の話を聞かされた
このとき既に廃止されてた軌道線の真ん前に建てた豪邸が要塞みたいでひときわ目立っていたこと、
経営的には成り立っていたとされる軌道線を強引に廃止してしまったこと、
ケチケチ精神が社内でうけいれられず社長を追われてしまったこと、
など、アクの強い経営者だったことを知った。 従業員が言うこと聞かないから
見せしめに軌道線を潰したとか? >>81
いかにもワンマン社長らしいエピソードだぬ
でも半世紀近く経った今でも飯坂線電車は未だにワンマン化してないとはこれ如何に 織田は伝記が出版されたことがある
市の図書館で読んだ >>83
当時、郊外路線のワンマン化はどこもやってなかったはずだよ 懐かしになるか微妙だけど2001年福島駅突入事故は
よく利用してた時間の電車が起こしただけに忘れられない あれ今でも原因不明のまま?
ブレーキ故障による過去の悲惨な事故を教訓に、いまの鉄道車両は仮に第一系統が故障しても二重三重のバックアップが施されてるので、それでも事故になるのは操作ミスなど人為的な原因しかないと言われてるが? 10年以上も前だからじゅうぶんに懐かしい話しになると思うが
>>1の定義には合わないね 茨城の取手事故のときもそうだが、終点での突進事故は一つ二つ手前の駅で予兆が出てることは多い
機器点検のために遅れてます、みたいな車内アナウンスがあった場合は速攻で降りといた方が身のためかもな >>88
だからそのバックアップとやらが
働かないこともある可能性がどうなんだってことよ
事故った車は元東急で発生時すでに車齢35年の骨董品だろ 京福福井支社の事故に続いて起きたので京福とゴッチャにされて整備不良が原因などと報道されたのが気の毒だったな 特にテレビのニュースはひどい
コメンテーターが訳知り顔で「地方私鉄は経営が苦しいので中古電車しか使えず人手が足りないので整備もできてない」発言
安全第一は輸送業の基本。経営が苦しくても費用をかけるべきところはかけてる。
事故を起こすと誰も乗ってくれなくなって商売あがったりになるからでそんなのは当たり前。 >>92
投球7000系に由来する事故原因なら北陸・弘南・水間・秩父は心中穏やかではなかっただろう