上田丸子電鉄・上田交通の思い出
西丸子線・丸子線・真田傍陽線が健在だった時代の
上田丸子電鉄・上田交通の思い出を語ろう。 「傍陽」なんて地元民か廃鉄マニアくらいしか読めない いま「真田丸」が話題のせいかどうかわからないが、上田城周辺の整備が進んでいて、あのお堀のところの廃線跡もさらに遊歩道として工事がされていた。
ホーム跡や説明板などはちゃんと残してある。 そうでしたか・・
個人的には、以前のままの状態で残っていればと思っていたのですが・・ 公園前駅傍のアーチ橋の下に残っていた碍子も無くなったのか? 昇圧、東急5000系本格導入に伴う車両全面交換以前は本当に 古い物が沢山残って物持ちが良い会社だったよな。
鉄道に限らず 上田駅構内先の側線先・跡?には古いバスやタクシーの廃車体が沢山放置してあった。
今となっては大変貴重なY30、430セドリック、グロリアの低いグレードのセダンの写真も電車と共にカメラに収めたのに引越しのとき写真もネガ処分してしまい大変後悔。
上田が物持ちよかったのは、もしかして 不要資産の処分を急ぐほど財務が悪くなくソコソコ裕福だったの?
それともズボラ?
大量にストックされた古い電車の部品が、東急3450の復元に役立ったハナシは後日訊いた。
もしかして長電に里帰りした復元車にも役立ったの? 丸窓電車が有名だが自分は東武?から譲り受けた
二枚窓の元ガソ車改造のクハが印象深いな。 >>10 上田はガソリンカー改造付随車が好きだったよな。
特に二枚窓の日車型(マア結果論だが)好むと云うより純電化私鉄でコレだからコレクターレベル! 真田線のお堀跡の区間には元信濃鉄道のノッペリ断面の木造車がよく似合う。 今は亡き上田原車庫と、その片隅で大量に鎮座していた廃車体。
30年前、昇圧直前の強烈な思い出。 真田傍陽線は沿線に大きな町も観光地もないが
ローカル線としてはそこそこ延命できたといえるね
もう少し頑張ってオイルショックを迎えていたら、もしかして…
と妄想しちゃうw 石油ショックが終わったらローカル私鉄にとってはもっと過酷な時代が来るわけだがな 丸子鉄道から引き継いだ明り窓付の車両はもっと注目されても良さげだけどなあ
早くに廃車されたから丸窓電車に比べて知られてないのが残念 丸窓は1980年代半ばまで生き永らえたからまだ記憶に新しい
丸子鉄道の方は路線廃止と共に消えたんだろ?
知名度の違いは寿命の違いじゃないの 富士急からも中古車を譲り受けてたな。
ドアが内寄りにあって、小さい車体に不釣り合いな大きなパンタを挿して
のんびり走ってた 近江からも小型車を買っていたし、大手以外の地方私鉄からも手広く調達してたのか。 真田傍陽線ではなく真田線と傍陽線が正式だよ。
上田丸子電鉄・上田交通以外は駄目なの? 上田交通になってからしか知らないが、
東急から買った中古3300は上田カラーではなく東急時代のグリーンのままで
走っておったな
行先表示も東急同様に車掌台側に小さな名札みたいなのを置いて終点で裏返すだけ、みたいな。
最後尾は返し忘れて上田行きなのに別所温泉のままになっていたのも見かけたことがあった >>27 昇圧&青蛙に総取替の直前の頃には東急、京王井の頭式の窓置き式方向板は止めて
正面にサボ刺しを付けて前サボだったよ。
上 中
塩 のサボ裏は、上田原?を付けて居た。
田 田
平日朝ラッシュの散歩が終わったら いつも上田原の街道沿いの上田寄りの貨物ホームアトで昼寝していた。 >>27
しかも所々塗装が剥離して急場凌ぎで顔料を塗ったは良いが色が微妙に違っていた
何かこう言うところがヌルイ感じで良く言えばローカルらしさが出ていたね >>30
斑模様だったね
上田駅で見かけた時ちょっと引いた 予備車になってたんじゃないの?
常時そんな出で立ちで走ってたら会社の評判を落とすでしょ この会社といえば丸窓電車が有名だが俺はあえてパスして
東急青ガエルの両運改造車を狙って撮りに行った
思えば上田在籍期間は短かったためにチャンスを逸すると
撮れないままで終わってたかもしれない
その後会いに行った熊本電鉄移籍車よりは良さげな仕上がりだった
熊本へ先に行ってたらあまりのインパクトのせいで
まともな上田移籍車は撮らなかったかもしれない あの改造車はそんなに使われてなかった
本来の目的と違う使われ方すると不具合があったのかも 上田丸子電鉄版「鉄道唱歌」、知ってる人いますか?
『懐かしの上田丸子電鉄』だったか、愛蔵版の本にカセットの付録で付いてきて、地元のお婆さんが歌っていました。 >>39 知っているよ。流石にもう他界したんだろうね。
雑誌 トレイVol 100号 昇圧前の上田別所線の車両や風景の特集記事が出ていたけど、
探しても入手できないね( ;∀;) 一時鉄オタ廃業時に友人に渡してしまい後悔後に絶たず。 >>40
こっちだと100円+税で入手できるよ>とれいん100号(自分用としては当然購入した)
日比谷イベントで上田電鉄ブースに並んだけど(八木沢まいグッズと仕業表狙いで)、
「上田交通」時代の運転士時刻表も即売に出てきててびっくり!
20世紀末期の別所温泉発の始発列車、今より遅かったんだね… >>39に出てた
> 『懐かしの上田丸子電鉄』
は、自分も当然持ってる
上田に時折旅行する際には、その本をしっかり愛読して頭に入れ直してるよ
いつか、Nゲージで上田交通/上田電鉄のジオラマレイアウトを
作ってみたいものだけどね(駅のペーパークラフトキットも出てるし) >>16 真田は菅平高原の入口で、上田からの直行バスが主流になるまでは、ここでバスに乗り換える観光客が多かった。
>>29 戦前、丸子町(当時)に日本有数の製糸工場があり、この辺りが養蚕や繊維工業が集中していた。
丸子町近辺から横浜港、京浜工業地帯に向けて絹糸や繭を積んだ貨物列車が相当数運行されていたわけで、鉄道貨物輸送需要は少なくなかった。 丸子鐘紡と言う名前の駅があったが、鐘紡=鐘淵紡績だったからな。 >>43
東信・小県地方は湿度が低く、そのためミシン針などの金属製品の工場も多かったんでしょ?
ところで、『まるこまち』だけど、『まりこまち』という人もいると聞く。
常滑を『とこなべ』、『尾鷲』を『おわしぇ』というのが土地の人とも聞いた。
『丸子町』はどっちなの? >>45 43だけど、別に湿度低くないよ。製糸や繊維産業盛んだったからミシン針の製品需要が高く、そのため精度を要求される時計等の精密機械工業に業態転換できるだけの技術力を有する企業が多かったからでは。山越えて向こうの岡谷はそんな所だし。
富岡製糸場があった群馬県から長野県、それに山梨県の一帯で、養蚕が盛んだったというわけ。 >>45(下段)
「なつかしの上田丸子電鉄」に、そのあたりも記されてた記憶が…
>>46
明治時代からの「殖産興業」とも絡む話ですよね
そして「日本のシルクロード」と(国道254号がまさにそのライン?) >>46
上田は知らんけど諏訪に関しては時計産業初期の頃は錆に悩まされたらしい
直ぐ錆びるという苦情が多い中ある女性組み立て者の時計だけ錆びにくいと話題になったらしい
調べてみるとその女性は手のひらの汗腺が極端に少なくてそれが錆びない理由だったと
とは言えそういう人を集める訳にもいかず結局部品油漬けにして錆回避したらしいが 湿度は強引極まるというか、こじつけだぞ?
養蚕先進地域だから長野県は私鉄が大量に開業できたわけだし、しかも贅沢な会社が多かった。小海線北半分なども電化寸前だった。
上田周辺なんてのは、民間資本が有り余って投資先を求めているような状況へ数多の鉄道計画書を放り込んだようなものだ。
だから無駄とかいう前に、その時代の豊かさを判れとw
養蚕地域なので機械のメンテナンスが要る。当初は輸入品だった関連機材は、修繕から地元での改良製品開発までさほど時間を要しなかった。
輸入品は無茶苦茶高価だったからな。
で、第一次大戦でシルク相場が崩壊、暴落。この地域の経済は壊滅的な打撃をこうむる。
だからこの地域の話をするときに第一大戦の年を弁えないと、年表も読めないし事情も推測し間違えてしまう。戦前と戦後では状況が違うのだ。
鉄道計画もガンガン投資先を求めていた前向きな姿勢が反転する。
紡織関連企業も養蚕がダメなのだから壊滅状態で、投資した設備を何とかしようと頑張ったのが今の精密機械工業の興り。
だから養蚕華やかりし時期には影も形もない。当たり前だね。これも戦前と戦後を分けないと理解できない。 >>49 >養蚕先進地域だから
平地が少なく稲作の生産高が低かったから、明治以降の富国強兵政策に伴って、桑畑が広がり養蚕が盛んになったのだけどね。
長野県は、戦前でも決して豊かな県ではないよ。渓流が多いから、水力発電では有利なのかもしれないが >>49
>>43だけど、無知だったかも。失礼しました。 >>49を読んでると、改めて日本近現代史の奥の深さを感じる…
「蚕」がどれだけ近現代の日本に大きな影響を与えたか…と言うことにもなるよね
(上田マルコ電鉄〜上田交通の枠を超えてしまいそうだけど)
リアル学生の頃には、そこまでの深みにはまる余裕はなかった気がする
…今の学生の方々にこの話を振ったとして、食い付いてくれるんだろうか 地方鉄道を語る際 沿革や当時の社会背景を語るのも無視できないけど、深く掘り下げすぎじゃ
ね? もう少し緩く鉄道に直接かかわる様な秘話とかしませんか? >>53
信州エリアの近現代史を専門に研究されている方が偶然このスレを見てしまい、
深く突っ込み過ぎてしまった…と言うことにしておきましょう
(自分も、本当は非常に興味深く思ってるんだけどね) 日本は絹を売って軍艦を買い清に勝った。
上田も絹を売って、国内の同クラス地方都市ではあり得ないほどの線路を敷くまくった。
そういうこと。 もし、上田と松本を結ぶ鉄道ができていたら…とは思うけどね
あの当時でも、そこまでの需要と余力まではなかったか… 昭和30年代の上田って未だ、そこそこ路線経営規模もあったのに 何故、近隣の長野や富山、
富士急、北鉄と違い新車導入が皆無なのかね? 規模の小さい松本でも新規の車体更新
くらい行っていたのに・・・
東急資本の後光を、もってしてもやる気にならない(結して鉄道維持、経営に消極
的な会社だと思えないのだが・・・)理由は何故?